法事で拍手喝采
2008年11月3日(月) 晴れ by キヨタカ
義理の甥の3回忌の為、岡崎へ行く。
Y君は2年前に、筋肉の癌で19歳という若さで亡くなった。
その1年前に私の姉が57歳で亡くなり、早過ぎる死を嘆いていたが、姉より遥かに若いY君の死によって、嘆きが一掃されてしまった。
あれから2年経つが、同級生も多数集まって法事も無事に終了、お坊さんのお説教が始まった。

一般に坊主の説教はつまらないと言うのが私の常識だが、このお坊さんのお話は非常に素晴らしかった。
話しっぷりが常識を越えて型破りで、もしかして悟っているかも!?
熱弁が延々と30分以上続き、途中で歌までが飛び出した。
さらにその後で、何と手品まで披露してくれたのである。
このお坊さん手品はかなり本格的なもので、全員が拍手喝采!
法事で、拍手喝采が起きたのは、生まれて初めての体験だった。
今回は手品だったが、アコーディオンの演奏なんかも披露するらしい。
この間のTさんの葬儀もそうだったが、今回の法事も喜びに溢れる大変に貴重な体験だった。
伝統が重んじられる保守的な仏教世界で、ここまでやるこのお坊さんの勇気に、改めて拍手喝采!
世の中に偶然と言うものはないので、「死」という概念について、根本的に学び直す機会を与えられているのかもしれない。
PS 説教の要約
人間は何年生きたかが重要ではなく、それぞれが与えられた命の中でいかに精一杯生きたかが大切である。
Y君がかわいそうなどど思ってはいけない。
彼は、与えられた命を精一杯生きた。
そしてやがてあなたの番がやってくる。
Y君の死は人々に、命の大切さ、今一日を生かされた事に対する感謝の気持ちを想い起こさせ、多くの人々に素晴らしい影響を与えてくれた。
人の死、特に近親者の死は、同じ命を生きる共感を呼び起こしてくれる。
幸せとは外側にあるものではなく、幸せ感つまり幸せを感じられる心こそが大切である。
つまり外側ではなく、それを感じる主観の問題なのだ。
日蓮は万巻のお経から、仏教の真髄を7文字に要約して、「南無妙法蓮華教」とした。
浄土宗では、6文字の「南無阿弥陀仏」である。
そして禅では、わずか一文字である。
それが、「無」であり「空」だ。
心の中味が過去や未来でいっぱい詰まっていると、それ以上つまらないから、なにをしても「つまらない」と思えてしまう。
心が「無」であり「空」であるとき、中味が詰まってないから、何に対しても有り難く幸せだと受け取れるのである。
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コメント
楽しい法事で良かったね。
御坊さんの意識も、どんどんと変化してるんですね。
>心の中味が過去や未来でいっぱい詰まっていると、
それ以上つまらないから、なにをしても「つまらない」と思えてしまう。
これもお坊さんの講和の言葉ですか?
中々、素晴らしい言葉ですね。
思わずうなってしまいました。
投稿: あんじゅむ | 2008年11月 3日 (月) 23時20分