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Knowing あらゆる「知る」こと

8月7日(金) 曇り by ヨガビジャ


数年前、キヨタカの勧めで悟ったマスターとして教えている、カナダのジョンという人物のところに行きました。


その教えの一つは、「あなたはすでに知っている」ということ。

英語の苦手な私の記憶に一番強く残っている言葉が「Knowing」でした。


そのこともあり、何ヶ月も前にこの映画のタイトルを知った時から、この映画を観たいと思っていました。

これから以下の内容は、一般的な映画の感想というより、映画を観たことで訪れた断片的な理解を自分なりにまとめたものです。
 
 
人間には2種類のタイプの人がいると思います。

 ・自分は知らないと思っている人。

 ・自分は知っていると思っている人。


前者の「知らないと思っている人」は、その自覚から知る事を求めて、様々なところを探す探求者といったところでしょうか。

自分は知らないと思っているので、「知っていると思ってる人」(知っているように見える人)を探すかもしれません。
最初は自分の回りを探し始めますが、その過程でだんだんと自分の中にその「知る」ということがある事に気づいていく可能性が、その人にはあります。


後者の「自分は知っていると思っている人」。
彼らが知っていると思っている事は、じつは他人の理解や、一般的な常識がベースとなりそれを自分の「知(理解)」と信じて疑っていない、ということもあり得ます。
必ずしも、ではないのでしょうが…。

自分は知っていると思っているので、「新たな知(知る事)」が訪れた時にそれをストレートに受け取る事ができない、または自分がすでに知っている事に合致しなければ排除することがある。

 

(ここからはネタばれあり)

この映画の主人公(天文物理学者/父親)は、最初は後者であり、徐々に前者に移行して行ったと感じます。
 
 そして、「知る」ということで感じたもう一つの側面。 
 
この主人公が出会う、ひとりの娘を持つシングルマザー。

彼女はおそらく、子供の頃から「知る」という能力を持っていたにもかかわらず、一般的な社会常識や感覚を優先させ、自分の知っている事に目を閉ざし、耳を塞いできたと感じます。


人は「知るか、知らないか」、知ったとしても「それを受け取れるか、受け取れないか」もしくは「それに基づいた行動をとれるか、とれないか」という、いくつもの分岐に立たされます。

その時々の選択が、自分の人生そのものの質やスピリチュアルな進化に影響を与える。
それは、人類に与えられた大いなる自由でもあるのでしょう。


しかし、あのふたりの子供たちの前には選択という概念すら、なにか陳腐なもののように感じてしまいます。


子供であるが故の先入観や判断のなさから、ただオープンで、今起こる、感じるすべてを受け入れていく能力。
(だからこそ「ささやき」が聞こえるのでしょう)

それが彼らの、知=Knowingであり、その「知」は、その後の選択のための参考データなどではなく、「知」すなわち「行為」、「自分という存在」という、すべてがひとつになった、まったく疑いの余地のない信頼に基づいたものです。
 
私はそこに人類の可能性をみた気がします。

私にとってこの映画は、「知る」ということのあらゆるレベルを感じさせてくれる映画です。

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コメント

 
 「あまたはすでに知っている・・・・。」


 「お前はすでに死んでいる・・・・・。」

 とかいう、アニメのはやり文句がありましたねー。

 あーたっ!たっ!たっ!たっ!たっ!たっ!たっ!たっーーーーー!!!!!!!!


  訂 正
 
 「あまた」ではなく「あなた」の間違いでした。

 (かんじまったよ、こりゃもううけねえな。あーあっ。)

 

キヨタカがジョンにハマっていた頃、
おなじ事を言ってましたよ。

いえ、訂正の方ではなく、
アニメの文句のほう・・・ね。(^^;)

先ほど、観てきました。
この生とは何ぞやという思いにかられました。

地下鉄打線事故シーンは思わず、JRの尼崎脱線事故をほうふつとさせ、極めてリアルな映像に、ナぬっと身を乗り出してしまいました。

また、幼子になって、初めて天国に行けると言うイエスキリストの言葉を思い出しました。

ピュアリティとトラスト、
大人たちは知性であうこう言いますが
子供たちはダイレクトに「声」として聴けるという設定に何か得心いたしました。

直接体験ですね。
大人は本や他人の意見にいっぱい影響されて
頭の中で、信頼とは程遠いジャッジの中で「知った」と言います。

しかし、本当に「知る」というのは知性が体で知ったことで、知識量のことでないのは言うまでもありません。

が、世間で図る尺度はほとんど「知識量」であり、その人が何を学んだかという肩書きです。

それに、どう答えるかが人生だ、という暮らし方をする人が多くいると思いますが、知識を手放してる感覚、求めない感覚が共感を呼ぶように思います。

死ぬ準備にポジティブに向き合える人がこの映画の意図するところなのか、とも感じました。

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