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2009年9月

再び清められ魂の輝きを見出す(リトリートの感想)

2009年9月30日(水) 曇り  by キヨタカ

Fさんは、非常に熱心な魂の探求者の一人である。
フーマン来日の時は、毎回参加してくれた。
最近は、魂を現実社会で生きる事に全エネルギーを賭けている。
だからリーラペースとしては、いわゆる「古参」のカテゴリーに入る。

リーラ瞑想リトリートは、初めての方でもついて行ける様にプログラム構成がなされている。
Fさんにとっては「物足りなさ」を感じるかも知れない事を承知で、あえて参加して貰った。

その結果、下記の感想を頂いた。
本当に嬉しい結果が起こり、Fさんがリトリートに参加してくれた事自体が恩寵だったと感じている。

いわゆる「古参」の方が参加される事で、リトリートの場のエネルギーが格段に上昇する事は言うまでもない。
しかし新たな参加の在り方をする事で、本人にとっても大変に有効なリトリートがある事が証明された。

有り難う!

* * *

 リトリートが終わり数日が経ちましたが、リトリートの余韻はまだハートの中にこだましています。
今でも、ハートのリフレインが、より深まってゆくように感じられます。
今回、このリトリートに参加した目的は、この数年間で見失ってしまった「何か」を思い起こすためでした。

 フーマンが肉体を去ってから、この4,5年の間、現実社会で生きることが非常に濃縮した形で行われたため、私は何かを失ってしまったように感じました。
数年前に見いだしたハートの光を失い、自分自身へと向かう方向性も見失って混乱してしまいました。
 それを、再び思い起こすために、私はこのリトリートに参加しました。

 フーマンは手紙の中で、私の質問に答えてくれています。

 「 生は夢であり、それほどリアルなものではない。それでも、それぞれの人間は現実世界の本分をまず初めに満たさなければならない。そうすれば、光明への道は自然に起こり、努力は正しく実を結ぶ。」
 
 フーマンが肉体を去ってからの数年間、現実世界を安定させるため、社会で生きる基盤づくりを行いました。ある力によってやらされているようにも感じました。

 18歳のころから、精神世界の探求に入り、最低限の生活を維持するために仕事をして、いつも、ほとんどのお金と時間を自分自身へのワークに使ってしまい、貯金も無く、手の中はいつでも空っぽでした。
それでも、不思議なことに食べられないということはありませんでした。
しかし、妻子をもち、もうじき40歳に近づくにつれ、このままではいけないと思いました。

 フーマンが肉体を去ってから、ワークはより現実世界と重なるようになり、ここ数年の間に、結婚、出産、子育て、自分自身の専門学校への入学、卒業、帰郷、そして事業の立ち上げ等が重なり合いながら、立て続けにおこりました。瞑想やリトリート等の活動を一時中断し、全力を傾けたためか、事業も半年ほどで軌道にのって、生活も安定してきました。
 しかし、生活が安定してきていくらか自由になり、ふと気づくとハートの光を失っているように感じました。

 数年前にハートが開くこと体験した時のことはよく覚えています。
そのフィーリングは数年間にわたって私のハートにとどまりましたが、少しずつ少しずつ虹が消えてゆくようにその感覚は、薄らいでゆきました。
人間的な生活は安定しても、そのために失ってしまったものが非常に大きかったと感じるようになりました。そして、このタイミングでリトリートに参加しようと思いました。

 リトリートに参加してみると、初めの2、3日間は非常に物足りなさを感じました。
プレゼンス、ビーングを深めることに主眼が置かれていたため、求めていた神聖さに触れることができませんでした。
もちろん気づきは深まり、くつろぎもまし無の中へ引き込まれるような感覚もありました。
それでも、「愛がなければ無に等しい」とハートは何か聖なるものを求めていました。

 やがて、キヨタカ、ぱるばのリードでハートのワークへとシフトしてゆくと、忘れかけていたものが少しずつ思い起こされるようになってきました。
この数年間でハートは閉じ全く何も感じなくなってしまったと思い込んでいましたが、ハートは人知れずひっそりとそこにあり、私の帰りを待っていてくれました。
 
 シェアリングのとき、自分の求めていたものは、本当はなんだったのか知ることによって涙がこぼれてきました。
現実世界でマインドを使い奮闘することで、魂もハートも忘れ、もう涙なんか枯れてしまったと思っていましたが、昔と何も変わらずそこにありました。
 
 「あなたの生は、高次の力によってガイドされている。そして、あなたはそれを信頼することができる。
その力またはプレゼンスは、あなたがそれを知り、信頼する時、肉体的な生の中で感じられる。
あなたがそのことに気づいていようと、気づいていまいがそれは常にあなたとともにある。
そして、あなたの内に生きている「その」プレゼンスがあなたを光明へと成熟させる。」

 今回もこの直感によって導かれ、最適のタイミングでリトリートに参加したように感じます。
フーマンが去り、リトリートはもう十分と思っていた私も、外側の光を求めるためではなくて、自分自身の光を思い起こし、強めるためにこれからもリトリートは必要だと思いました。

 この数年間に起こったことを振り返って、人間は生きているうちに、いろいろ埃を集めてしまい、自分の魂の輝きを再び覆ってしまうことがあることを体験的に理解できました。
リトリートのプログラムを通過してゆくうちに私達は清められ再び魂の輝きを見つけ出すことができます。

 また、今まで何かを求めて参加していましたが、今回リトリートに参加することで、別の役割も認識するようになりました。
それは、今後ゆっくりと私達の目の前に明かされてゆくと思います。
また、参加しますのでよろしくお願いします。

 皆さんどうもありがとう。
 
by f

人類が滅びない為に…

2009年9月29日(火)  曇り  by キヨタカ


 昨晩は、メキキ瞑想会の世話人会があり、渋谷のメキキホールへ集合。
一昨年の9月からスタートした「メキキ瞑想会」がちょうど1年目を迎え、2年目をどうするか話し合いが持たれた。

既にこの日誌でも何度か紹介しているので、ご存知の方も多いだろう。
メキキの会とは、10月に行われる「第3回・天命瞑想道場」リーダーの一人出口さんが主宰するユニークな会で、「志を互いに高め合う気脈に基づく社会基盤」を創ろうという壮大な試みをマジで行なっている。

メンバーは企業のオーナーや大学教授など社会的に活躍されている方々も多く、国会議員も数名いる。
(他にも、芸術家、主婦、学生、フリーター等様々なユニークな人々がいる)
「自己の天命を現実社会で実行しよう」と魂を磨きあっているメンバーから、学ぶ事も多い。

しかし「天命を現実社会で生よう!」と外側に向かうベクトルの強いメンバーに対して、瞑想を分かち合う事は私にとりとても難しい。

だから今年は、「メキキ瞑想会の活動は減らしたい」と思っていた。

ところが、世話人会のメンバーの殆どが、「今年も毎月行いたい」と熱い思いを抱いているのを知り、驚いた。

特に、世話人会のリーダー、ぱるばが放った一言「メキキに瞑想が広まらなかったら、人類は滅びる!」とのコメントが、私のハートに火をつけた。

最初は冗談かと思い真意を確かめところ、本気でそう思っている事が明らかになった。

確かに、「瞑想的生き方が世界に広がらないと人類が滅びる」事は私にとり自明の事であるのは確か。
「魂の覚醒」による新人類の誕生こそが急務だ。

残念ながら瞑想に関心のある方で、現実社会に積極的に関わろうとする人々は少ない。
一方、この現実社会に積極的に関わろうとしている方々は、どうしても瞑想は後回しになりがちだ。

だから、メキキはその中間にある存在として、非常に貴重でユニークなものだ。
彼らは、魂からこの現実社会に積極的に関わろうとしている。
そうしたグループにこそ瞑想が必要であり、メキキに瞑想が伝わらない様なら、確かに人類に未来はない。

そういう訳で、人類が滅びない為にも、毎月メキキ瞑想会を積極的に開催する事に私も賛同した。

賛同したからには、全力でバックアップしたいと思う。

来月は天命瞑想道場ですからそちらに集中する事となり、11月17日(火)となります。
ぜひお越し下さい。

未体験ゾーン(リトリートの感想)

2009年9月27日(日)  晴れ  by キヨタカ

Mさんから、リトリート感想メールが届いた。
Mさんにとって5デーズは、長期の“未体験ゾーン”!

少し長いですが、渾身の感想文ですので、割愛せず全文掲載させて頂きます。
この長さは、修善寺日誌にとっても未体験ゾーン!
しかし体験に裏付けられた迫力ある文章なので、引き込まれる様に読めます。
多くの方にとっても、参考になるでしょう。
有り難うございました。

* * *

リーラスペース御中

 5日間のリトリートではお世話になりました。

 この道のベテランの方に言わせれば「5日なんてそれほど長くない」のかもしれませんが、普通のサラリーマンにとっては“未体験ゾーン”といえる日数です。

 お陰さまで、以前に参加した「3日間」よりも一層充実した、自らの変容を加速させてくれるような経験ができました。
 
また「復習を兼ねた長い感想」をお送りします。(5日間のリトリートは、感想も従来に増して長いですよ〜)


 今回僕が得た新しい経験は、主に次の3点です。

■Beingの深みを明確に経験できた
■“放蕩息子(私)”が本源に迎え入れられた
■ハートの中で無条件の喜び(光?)を見出した


 まずBeingについて。
 普段は日々の“通勤電車”を瞑想の場としているため、プレゼンスの修練は徹底できても、Beingとハートに関しては手薄でした。
個人面談のときキヨタカさんに「意識の広がりはあるのに、深さや親密さが感じられない」と言ったのも、栄養バランスならぬ“瞑想バランス”の偏りによる結果かもしれません。

 でも今回、Beingの深さを明確に経験することができました。
 そのきっかけは1匹の“蚊”です。瞑想中に耳元で蚊がプィ〜ンと飛ぶ音がしたため、着ていたヨットパーカーのフードを虫除けのためにかぶりました。そうしたら思いがけず、自分の内にある“深み”が急激にクローズアップされるではないですか。

 たった布地1枚のなのに、「外側の世界」よりも「内側の世界」のほうが逆転して強烈に感じられます(瞑想のときに頭から白い布をかけている方がいましたが、そういうことだったんですね。単なるスタイルだと思ってました…)

 そして瞑想を終えるコォォ〜ンという鐘の音とともに、Beingへの引き込みが始まりました。
息を吐くたびに、体内のエネルギーがハラのセンターの奥底へとどんどん収れんしていくように感じられ、自分は漆黒の深奥へと際限なく落ちていきます。

 ところがここで、はからずしも夕食の時間。
ほかの人たちがホールを出て行く足音がパタパタと聞こえてきますが、こちらは静止した虚無の世界…。
このままずーっと座っていたいと思ったものの、生活規律を乱すのは良くないので、僕も食堂に行ってカレーを流し込むように食べました。
引き込みの途中で食事をするのは、分娩の最中に食事をするような感覚です(←すみません、経験がないのでいい加減なたとえです…)

 食後の休憩時間に急いで再び座ってみると、またどんどん深みに引き込まれました。
頭の周りに広がる「意識」を少しずつ手放していくと、それも下に落ちるように消えていきます。
ノーマインドが極まっていきます。

 そして最小限の意識を種火のように残すまでに至ったところで、「私が瞑想している」というより「私とは瞑想そのもの」という感覚になりました。
そこには得体の知れない、というより得体というものが全くない、とてつもなく深くて安らかな「存在」だけがある——。

 でももしこれを予備知識なしに、何かの拍子に突然経験したとしたら、ものすごく恐ろしいでしょうね。
だって、まるで「死」ですよ…。


 次の素晴らしい出来事は、「“放蕩息子(私)”が本源に迎え入れられた」という経験です。

 今回のリトリートの最初に、僕は「自分の本源に触れてみたい」という参加目標を掲げました。
幾世も転生しながら現象世界を放蕩し続ける自分が、帰るべき家に帰り、迎え入れられたいと——。

 その願いは「ブリージング瞑想」の最中にかないました。
自分にとってこの瞑想法はものすごく合っているようで、リトリート参加のたびに“普通でない経験”をします。
精神世界の見識が狭い個人的感想としては、「リーラスペースのブリージング瞑想は、OSHOの瞑想法さえも上回っているのではないか」と思えるほどです。

 今回この瞑想中に、キヨタカさんが「ハートの扉が開き、その内側にはあなたの本源があります」と言ったとき、僕は自分のハートに向かって叫びました。
「帰ってきました。迎え入れてください! もうどこにも行きたくありません!」と。

 気づいたら、僕は2歳くらいの幼い女の子になっていました。
放蕩息子ならぬ、小さな小さな放蕩娘です。
その女の子は母親の足に両腕でひしっと抱きつき、「もうどこにも行きたくない」とすすり泣いています。

 すると母親は優しい声で言いました。「あらあら、あなたはどこにも行っていませんよ」と。
「玄関先のお庭で花摘みをして、ちょっとのあいだ遊んでいただけ。
そうしたら、急にさみしくなっちゃったんだね」

 女の子になった僕は、さみしさを胸にこらえながら黙ってうなずきました。
そしてすぐ我に返って「えぇっ!?」と驚愕しました。

 この現象世界が「神の遊び(リーラ)」であることは、本から得た知識として理解していました。
でもそれは宇宙スケールの荘厳で超神話的な“遊び”であって、聖書でいう天地創造から始まり、失楽園があり、それから何百もの輪廻転生を経て今の僕の人生があるのだと。

 ところがそのような「えらそうな大事」ではなく、「玄関先の庭での花摘み」だなんて…。
現象世界がそこまで最小スケールの“遊び”だとは想像したこともありません。
 
 この宇宙全体を「玄関先の庭」だという本源の相対的な大きさに唖然とし、そして、戻りたいと思えばいつでも戻れる近さであることを有り難く思いました。

 こんな、自分では考えたこともない情景を、ハートから直接伝えられたことに感激しています。
人生観や世界観、そして精神世界観も変わってしまいそうです…。

 そしてもう一つ、忘れられない経験が「ハートの中で無条件の喜び(光?)を見出した」ことです。

 4日目の夜の瞑想の冒頭で、フーマンのリトリートの録音が流れました。「ハートの小さな光を見出しなさい。それが、見失ってしまった本当のあなただ」と。でも瞑想しながら見つけようとしても、何もありません。

 そして夜中、2時ごろに突然目が覚めました。ものすごい不愉快さに襲われました。
あれほど浄化したはずなのに、胸の内にいやな痛みのような塊がある。
それが、どう頑張っても消せないコアのように存在し続け、自分が最も嫌う性向で次々と思考を誘発していくのです——。

 どうしようもなく目がさえてしまったので、1人でホールに行って座ることにしました。
ハートに光があるのか? どんなに集中して詮索しても、光っているものなんて何も無い。
そこにあるのは真っ暗な広がりと、消せない痛みの塊だけ。

 そもそもリトリートというものに初めて参加してから「1年未満」という経験の浅さで、そんな究極のものを見いだせるはずもないし…。

 そうしているうちにふと、この胸にある痛みの裏側は何があるのだろうか?と思い立ちました。
そして痛みがあるところよりもより奥深くに入ってみて、その裏側にあるものを感じるように試みました。
 ちょうど、地球から見えない月の裏側を、「かぐや」が観測するような図式です。

 一瞬、くすぐったいような感覚がしました。
 すると、確かに何かがそこにあるではないですか!
 輝くような「喜び」です!
 胸の中心から湧き出るような、理由なんてない無条件の喜び。スカッと広がって、ほがらかで不安なものは一切ない、安心に満たされた喜び——。
表の側はいやな痛みなのに、そこに隠されていたのは純粋な喜びそのものでした。

 とても幼いころに、この喜びを感じたことがあったかも知れません。
でもずいぶん前に、すっかり忘れていました。
たぶん知らず知らずのうちに、自分で覆い隠してしまったのでしょう。

 まだ真っ暗な外に出て、空を眺めながらハートの「喜び」を味わいました。
やがて刻々と夜が明けてきました。

空のうろこ雲や地上の草木、夜明けとともに変わりゆく光景、ほおにそよぐ風、秋の虫の鳴き声、窓の中の温もりある明かり、動き出す人の営み、あらゆるものすべてが、何だかとてつもなくうれしくて、有り難くて、楽しくて、心がくすぐったくて、誰もいない芝生の上で1人でにこにこしたりケタケタ笑いながら、ずっと涙を流していました。
 (フーマンの言う「光」とは違うものかも知れませんが、こんな素敵な「喜び」を内に発見できたことは思いがけぬ成果です…)


 でもこの経験は、日常に大きな課題を与えました。
 今日仕事中にハートを感じようとしたら、そこには「非・喜び」「非・安心」ばかりがぎっしりと充満しています。
思い返してみれば、これが僕の内面の当たり前の“常態”でした。

 目の前の現象世界が自分の内側の投影だとしたら、「やすやすと喜んではいられない」出来事が次々と現れ続けて当然です。
 何ともこれまでの半生、ハートに無頓着に生きてきたことか。
そして内側の状態がそのまんま映し出された外側に、ひどく翻弄され続けてきたことか…。

 とはいえ、ハートの喜びを保持するのは容易なことではありません。
直接的に働きかけようとしてもたぶん無理でしょう。

 日常を過剰に禁欲的・修業的にならずに、心も体も楽しめるような時間を増やせば、少しずつでも本来ある「喜び」が内面の主となっていくのではないかなと思っています。
そうしたら目の前の世界も、喜びに満ちたものへと変わるのではないでしょうか。

 ハートがすべて。
外の世界は、単にそれが映し出されたもの。
外側には、私に対して何か影響を及ぼしてくるような力なんて全く無いはず。

 ただハートの在りようによっては、「自分は無力であってパワーは外側にある」としか思えない世界を容易に創造できてしまうみたいです。

 「パワーはこちら側にある!」
 これが、今回のリトリートを通じて導かれた、1つの教えです。

by M


倦まず弛まず…(リトリートの感想)

2009年9月26日(土) 晴れ by キヨタカ

Hさんよりリトリート感想のメールを頂いた。
リーラスペースのリトリートに参加する様になってまだ半年だが、確実に進歩している。
本人はその進歩がよく解らないかも知れないが…。

倦まず弛まず、是非とも瞑想の道を極めて欲しい。

キヨタカ

* * *

こんばんは

リトリートでお世話になりましたHです。
今回の感想を送らせていただきます。

今回はリトリートのかなり以前から徐々にプレゼンスの感覚があやしくなってきまして、リトリートが近づくころには、プレゼンスがよく分からないという状態にまでなってしまいました。

自分自身の探求の姿勢が真摯でないからこうなるのか、とかプレゼンスを随分と簡単に教えてもらっていたように思いましたが、それもやはり恩寵がなければこんな状態になってしまうのか等々、色々頭を駆け巡っていました。

リトリートをキャンセルしようとまでは思いませんでしたが、自分の中に情熱も感じられず、自分はこういう教えを学ぶほど成熟した状態にないと思い、今回行ったらしばらく間をあけたほうがよいかもしれないと思っていました。

当日、リトリートに参加してもプレゼンスが強まる様に感じられず、3日目の途中までは日常の意識の延長のような感じで、自分自身で納得がいくような状態にまでなりませんでした。
4泊5日だから良いものを2泊3日だったらもう終わっているよなぁ、などと思っていました。

ただ、そのような何も感じられないような状態のなかでも何か今までのプレゼンスとは違うもっと繊細な、もっと近いような、なんともよく分からないものが自分に伝えられているような気がしていました。

しかし、それにチューニングを合わず、それが何なのか分からないという感じでした。

3日目の午後にリクタさんのボディーワークを受けて、何かが変わったように思いました。
というより最初から、このタイミングを待っていたような感じがありました。

特に明らかに変わったのが、座る瞑想がだいぶ楽になったことでした。以前から長時間座っていると胸椎のあたりが、たまらなく苦しくなり発狂して叫びたくなるような感じがありましたが、その感じがなくなりました。

自分の中で今回のリトリートの流れが変わったと感じました。

3日目の夜に死の中に入る瞑想がありました。
以前似たようなことをしていたので、すごく馴染みやすい瞑想でした。

瞑想の中で、例え肉体が灰になり、感情や思考が消えてなくなっても決して消えることのない自己をハッキリと認識できました。

ただ、以前その全てが灰になっても残る自己を認識できるようになり、瞑想の中でそこに止まってみたのですが、なにも起こらないし、なにも変わらないということに非常にがっかりしていたので、もしこれがTHISだと言われたら本当に嫌だなぁと、とても気になりました。

すると次の日の夜たまたまキヨタカさんがサイレンスの中話しかけてきてくれたので、これ幸いとそのことについていくつか質問をさせていただきました。

すると今感じているのはプレゼンスでありそれをビーイングに落として広がっていくことが今後のステップだと説明を受けました。

今回の死の中に入る瞑想を通じて見出されたプレゼンスと今までのステートオブプレゼンスの訓練が結びついて少しプレゼンスの感じが変わりました。

今までも気づきに気づくという感じはもちろんありましたが、気づきが自分というより対象物のように感じられていました。

それが今回の瞑想を通じて、自分が肉体が灰になっても残るもの=何もないけど自己がある=原初の光のようなもの=プレゼンスであり、それに加えて気づきに気づく、という感じに変わりました。

プレゼンスと統合されたと言うか、プレゼンスが自分というようか、うまく言えませんがそんな感じです。
今回やっと瞑想の基盤ができたのではないかな、と感じました。


その後ワークはビーイングからハートへと流れていきました。
ハートのワークについていけているかは、正直かなり怪しいものがありました。

両脇の間に平安を感じてとか、ハートのスペースにくつろいでください、とか言われても、実際ほとんど何も感じないので、今回これだけの時間をかけてハートに働きかけてもらって、何も感じないというのは流石にどうなんだと通常の私は思いました。

ただ、意識上ではハートのワークはほとんど何も感じられないのですが、どこか深い深いところで、今非常に重要なことをしているということが感じられているような気がしたため、何も感じられなくても
焦ったりする気持ちがわいてくることがなく、そのうち分かるだろう、というか、どこか深い部分で分かっているんだろうと楽観的に感じられているような気がしました。

と言うわけで、なにくわぬ顔でハートのワークに参加し続けていました。

ただ感じないと言いましたが、最後の方でやった、ブッダを見つけて挨拶をするというのは本当に良かったです。


他にも一つ一つのワークに対して色々感想はありますが、かなり長くなりそうなので今回の感想はこんなところです。

とりあえず焦らず、と言いますか、倦まず弛まずステップバイステップで気長にやっていきたいと思います。

今回はスペシャルだからか分かりませんが、キッチンメンバーも増えてパワーアップしていたように思いました。
最後にあの納豆に何かいっぱい入っている納豆デラックスみたいなやつの作り方を教えていただけると、とてもうれしいです。

みなさん今回もお世話になりまして本当にありがとうございました。

圧巻は…(リトリートの感想)

2009年9月25日(金)  快晴  by キヨタカ

リトリートが無事終了した。
今回は天候に恵まれ、富士山も美しかった。
通常より2日も多い、豪華版リトリートだけに、参加者の瞑想も非常に深まったようで嬉しい。

Photo

さっそく、九州のOさんから、感想のメールを頂きました。
当日九州へ帰られるとの事で、ティー・シェアリングに参加出来ず残念!

* * *

お礼も満足に言えないまま、失礼させていただきました。

さて、今回の目標は
1.ビーングの感覚を深め、
2.前回体験させていただいた至福を再体験すること でした。

1.については、富士山イメージでコツがつかめました。
仕事中でもビーングを保つ訓練を続けます。

2.については、前回はブレスワーク直後、 突然、私はない至福の世界に放り込まれました。
今回はじわりと移行していきました。
同じ模様が無数に広がり、それが音楽にあわせ動いていく気持ちのいい映像でした。

圧巻はその後のハートを開く瞑想でした。
何とか光を意志で探そうとしましたが、あきらめた途端、ボーと金色の光が輝きだし、
その奥を見たいと望むと、金色の巨石の門が開き、中には鮮烈な黄金色を放つ 仏陀が現れました。

仏陀は、観音や、三角や六ぼう星などのの図形に私の思うがままに 姿を 変えつづけました。
私の、頭頂からは金色の光が体内から空間に吹き上げました。
いつまでもひたっていたい境地でした。

さて、今も瞑想すれば仏陀はハートにいますが、これは○○体験にも似ています。(ただし、維持は不能)味覚・聴覚が敏感になるのも同じです。


単なる幻想でしょうか?
どういうレベルに私は至っているのでしょうか?

パルバ様、ヨガビジャ様、クマール様ほかスタッフの方に魂からの感謝をお伝えください。

by O

* * *


リトリートお疲れ様でした。
今回はシェアリングに参加されず残念でした。

>単なる幻想でしょうか?
>どういうレベルに私は至っているのでしょうか?


これは単なる幻想ではありません。
ハートの奥にある神聖な次元の扉が開くと、そこから光が差し込み、様々な体験が起こります。
新しい領域へ踏み込んだのです。

おめでとうございます。

そうした体験をする事自体はとても素晴らしいのですが、「次のステップ」があります。

「仏陀」や「観音」や「いつまでも浸っていたい境地」を体験している私は誰か?…その体験の主体に留まる必要があります。

「探求者」を落として、体験の純粋な主体そのものへとシフトするのです。

思考や感情は、来ては去って行く、認識の対象物です。
それと同じく、あらゆる神秘体験に付随して起こるどんな素晴らしい出来事も、対象物に過ぎません。

どんな素晴らしい神や仏が訪れても、それは「来ては去って行く」対象物である事に、変わりはありません。

「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し…」という臨済禅師の教えをご存知でしょうか?

瞑想においては、どんな素晴らしい光や神様、仏様が降りて来ても、全部殺して、対象物の主体に留まる必要があります。

本当は、私たちが神や仏やを見る事は出来ません。

なぜなら、私たちこそが神や仏そのもですから!

光の探求者から、光へとシフトしましょう。

私たちの本体は、光そのもの、光の主体なのです。

私たちが光明燦然と輝く日が一歩近づいた事を、お祝いしましょう!!

第6回リーラ瞑想リトリート

2009年9月18日(金) 晴れ時々曇り   by キヨタカ

 いよいよ明日から、第6回リーラ瞑想リトリートが始まる。

ちょうど1年前にスタートした新しいコンセプトによるリトリートだが、どんどんと場のエネルギーが進化し続けている。

しばらく、日誌はお休みにして、全エネルギーをリトリートに捧げます!

リトリートが明けたら、ご報告します。

シルバーソード(本の感想)

2009年9月17日(木)  晴れ  by キヨタカ

 明後日からいよいよ、5デーズリトリートが始まる。
この5日間は、シルバーウィークと言われる5連休。
ゴールデンウィークに対して、秋の連休をさす言葉として1950年代から使われていたそうだ。

半世紀も生きているのに、知らなかった。
ゴールデンの様な派手なイメージはないが、秋に相応しく渋い響きがいい。

ところで「シルバー」と言うと、ハワイのマウナケアで見たシルバーソード(銀剣草)を思い起こす。
「恩寵の扉が開くまでⅡ」の中にも、一見見過ごし易い「これ」を象徴するイメージとして記述した。

Ginnkennsou

実はこの本そのものも、私にとってはシルバーソードの様に思える。
Part1の方は、私の人格の部分に対してもフーマンは精力的に働きかけてくれた。
だから、読者も解り易く共感を呼び易い。

しかしPart2の方は、私の人格を越えた所にダイレクトに働きかけているので、より微妙でなかなか共感を呼びにくいだろう。
「自分とは関係ない」と受け止められる可能性が大きい。
読者の方で、ある条件が整わないと、なかなかハートには響かないのではないかと思う。
ある条件とは、自分の人格を越えた部分に開くという事なのだが…。

Pさんから、感想のメールを頂いた。
この本を通してハートが開かれて行く様子が、非常にリアルに書かれている。
シルバーソードの様に渋い内容の価値が解って頂けて、とても感動した!

* * *

Beloved キヨタカ様

この感じがこれ以上
うすれないうちにかこうと
思います。

本の感想の前に、
今の自分の状態をかかせてください。

あるグループに参加したら、
とても評判のよいリーダーたちなのですが、
反抗心がわき、
自分だけ異端者のように感じ、
そんな自分に傷ついていました。

光は真実をみせるから、
闇があらわになるんだ。
(本来の光かもしれないが)
私は闇が、
イシュウがおおすぎて
きれいじゃない・・・。
マインドとの同一化なのでしょうが、
そんなふうにどうしても感じてしまいました。
そしてまた、
本当は光なのだと
だれもそれに気づかないのだと
思ってる自分もいました。

そのあとに、
サトルボディヒーリング個人セッションをはじめて
うけてから、
自分の居場所や仕事、
人と接するときの自分の反応、話すこと。
全部に自分と違和感を感じて
頭痛がする毎日でした。

仕事で消耗して、
瞑想もままなりませんが、
たまにしても
私の瞑想はマインドゲームにすぎないと
感じ、
フラストレーションがたまるばかりでした。

4月に参加した
新宿瞑想会は、
ちょっとこわかったものの、
終わったあと、
くつろぎ、
変な表現ですが、とっても効きました。

それに
グループなどに参加する費用をつくるために
仕事を探していたのですが、
瞑想会の2日後、
思ってもない職業に縁があり
あっけなくきまりました。

その後、
リーラのリトリートには、
惹かれてはいたものの、
仕事をやめずに続けるだけで精一杯だったことと、
参加する勇気がないのとで
遠のいていました。

久し振りに
リーラのHPをのぞいたところ、
「恩寵の扉が開くまで㈼」がでたことを知り、
絶対読まなくちゃ!って感じで注文しました。

㈵では、
フーマンと会えたキヨタカが羨ましかったものの、
フーマンが私に話かけてるように感じ
あたたかい感覚につつまれました。
表紙のフーマンの顔をみると、
なにかつながった感覚がわき、あたたかくなり、
ひとりで喜んでいました。

ですが
今回は、自分に言われているようには感じず、
ほんとうにただ
キヨタカのセッションを読んでるという感覚でした。

今の自分の立ち位置からしたら
キヨタカのいるところはあまりにも遠く、
(探究の日も浅く、ワークもそんなにしていない私と
キヨタカを比較するじたい傲慢なのですが)
過去生からつづくパターンや
マインドから離れられない自分をそれと比較して
読んでたところもあります。

ですが、
あまりにもマインドだらけで暗く、
頭がなにかかたいものをかぶせられてるように重いので、
本を読むのをやめて
今のこのときの自分を見守ろうと
座り目を閉じました。

この不快な感じ
怒りを通り越して痛みになっているこの
フィーリングをそのまま信頼しようと
ふいに感じ、
私は私のフィーリングを信頼しますと
内側で唱えながら見守りました。

さまざまな感覚や
思いがでてきました。
ハートには熱い炎のようなエネルギーを感じました。

そして、悔しさや悲しみは
過去生からずっともっていたものだと理解しました。

さわやかな涙が流れてから、
誤解を恐れずに言えば、
内側に神聖なものがあり、
それを認めたような感覚がありました。

そのあとに読み始めたところで、
その、認めたものを再び本のなかで(フーマンに)言われたように感じ、
それがメッセージのように感じました。

どこの部分でそう感じたのか
数時間以上たった今、探してみても
どこでそう感じたのかわからくて残念ですが、そのときは
本当にそうだったのです。

それから、
恩寵の光

あとがき
とくにあとがきが励まされました。

私は、
想像つくかと思いますが、
恩寵の光に導かれた「覚者」の個人的ガイダンスを切に望んでいました。
そして、
自分のブループリントを知りたいと、
(教えてほしいと)願ってもいます。
肉体にいたときのOSHOにも会ったことがないので
「覚者」に直接あいたい思いは人一倍あります。
ですが、
「一人の優れたマスターの時代はおわった」
と、キヨタカは本で書かれています。

認めたくないけど、
そうなんだろうな・・・。やっぱり・・・。

諦めの気持ちで読みすすみましたが、

マスターの時代が終っても
意識進化は終わらないのですね。
みんなで影響を与えあいながら
内なる光を大きな光に育てていく。

素晴らしい時代にはいっていったのだと感じました。

そして最後に

「だから信じてください
どんなにひとりぼっちで絶望的に思われても
あなたのその乾きのままに、
真摯に道を求め続ければ、願いは必ず叶えられます。」

自分が誰なのか
ハートが喜ぶ生き方は仕事はなにか
知りたいのに
わからず
必要だと感じるワークをしてきても
根っこは1ミリもかわってないことに
不毛感をかんじてる私ですが、

キヨタカの言葉が
ハートにはいってきて
涙が流れました。

自分の一部が砂漠のようでしたが、
希望が戻り、
みずみずしくなりました。

ありがとうございました。

好き勝手に
自分のことも書きつらねて
読み苦しかったら本当にごめんなさい。
読んでくださって
感謝します。
ありがとうございます。

らぶ・by P

勘違いは恩寵でした

9月17日(木) 晴れ by ヨガビジャ


今リトリートを2日後に控え、準備が佳境に入ってます。

今回のリトリートでは、まずスタッフの2名の人に今日の夕方到着するようにお願いしていました。


ところが、なぜだかキッチンのYさん、昨日の夕方来ちゃいました。

夕方5時半をまわった頃、Yさんから電話が入りました。


Yさん 「あの〜・・もしかして、今日からじゃなかった・・?」

よがび 「・・もしかして今、修善寺!?」

Yさん 「そう・・」


というわけで、
今、Yさんは富士見荘のキッチンで、お昼ご飯を作ってくれています。

電話があった時点で、まだ富士見荘は散らかっていてスタッフールームもできていない…と焦ったけど、朝からリトリートの玄米を炊いてもらって、今はキッチンから美味しそうな香りが・・。

Yさんの勘違い、私たちにとっては恩寵でした。


ちなみに、昨日はセイフーで夕食のためのコロッケを買ったのですが、自分の野菜コロッケとキヨタカのカニクリームコロッケ以外にじつはもう1つ、カレーコロッケを買っていたんです。
だからちょうどコロッケは3つ、まるで3人の夕食を予想していたかのよう。

私の「Knowing」は、こんな所に働くようです。。(^^ゞ

空海

2009年9月16日(水)  晴れ  by キヨタカ

思考や感情を、水面の波に例える話は、非常に解り易い。
おそらく、OSHOかラマナマハリシあたりの例えかなと思っていたのだが、先日「空海」が同じ事を語っていたのを知り、驚いた。
曰く:「波浪(はろう)の滅生(めっしょう)はただしこれ水なり、一心は本より湛然(たんねん)として澄(す)めり」〜秘蔵宝鑰(ほうやく)〜

「水面が波だったり波頭が立っても、水の本質は変わらない、表面がいくらざわめこうとも、心の底は静かに清く澄んでいる」

マインドと純粋意識は、対立するものと考えられがちだが、実は同じものから出来ている。
疾風怒濤の感情の嵐も、仏陀の沈黙も、本質は変わらない。
ただ、表面か深い水の底かの違いに過ぎない。

だから波立つ心を静めようとあくせくする必要もない。

ただ、「今」に深く深く寛げば良い。
自己の本性は、もともと静かだ。

実に解り易く、かつイメージが容易な喩えだ。
さすが、空海!

行きつく先は・・

9月16日(水) 晴れ by ヨガビジャ


“私は見るために目を閉じる。”

    ポール・ゴーギャン(フランス人画家)


最近、私がドキッとした言葉です。


私たちの五感は外側に向かって開いています。

視覚は対象物へ、聴覚は音へ、嗅覚は香りへ、味覚は口に含まれる物の味へ、触覚は外界からの刺激へと。

五感というものは単に外からの情報をインプットするための器官に過ぎず、それを認識する主体そのものではないのだと思います。

おそらくこの言葉から推測するとゴーギャンは、対象物の「像」が結ばれる先である<主体そのもの>として<在らん>がために “目を閉じる。”
・・そう感じました。

そして、思考や感情に触れられぬ「主体そのもので在る」状態とは、すべてを写し出す鏡のようなもの。

鏡は写し出した対象物そのものを、自身として「体験」する。

客体(対象物)は主体として認識され、主体はまた客体となる。
そこには2はなく1だけが存在する。


私は以前フーマンと対峙した時、「フーマンは私を体験してる」と感じました。

私が何を語ったとしても、それがどこからきていて、その背後になにがあるのか、その言葉は魂からのものなのか、パーソナリティからのものなのか・・
さらには、まだ顕現していない、私の種(たね)として宿っている本質や可能性、渇き、それらのすべてを知っていました。


このゴーギャンの言葉と出逢った時、すぐにこのフーマンとの体験を思い起こしました。

おそらくゴーギャンも、目を閉じ、描く対象物を自身の中に写し出し、それを「体験する」。
そして、すでに自身の内側存在する「完成された絵」をキャンバスに顕わしていった・・。そんな気がするのです。

また、彫刻家はよく削り出されたままの四角い石と向き合うと、すでに完成品は石の中に内包されており、自分は余分なものを取り除き、目には見えないが既にそこにある形態を顕わしているに過ぎないと言います。
これもきっと、彫刻家自身が石を体験しているからこその言葉だと感じます。


道は違えども、行き着く先はみな同じ。
人はなにによっても、行くべき所に辿り着く、、
そんな風に感じました。

本日3つ目の日誌(といえるか?)

9月15日(火) 曇り時々小雨 by ヨガビジャ


富士見荘は今、外壁塗装の工事中。


シンナーの臭いで、

逝っちゃいそうです・・・。(T_T)

222

9月15日(火) 曇り時々小雨 by ヨガビジャ


今、アピタの恒例「火曜特売」から戻り、買った野菜を冷蔵庫に入れて、パソコンの前に座りました。

日誌でも書こう♪と、今日の日にちを確認すべく左前方のデジタル時計に目をやったら、

11:15
 9:15
 2:22
 22

の数字が並んでいます。

そうだよねー。。
「今日は9月15日ね♪」と、日誌の一番上の行を入力して、ふとなにか不思議な感じがして、もう一度デジタル時計に目をやりました。


・・・( ・・ ?)。


「22」と「15」が2つ・・?

なんとなく気になって、ドリーン・バーチュー著「エンジェル・ナンバー」で数字の意味を調べてみたら・・・


 22…あなたの深い信念が、奇跡や、新たなすばらしい機会を
    生みだしてくれます。信じる心を持ち続けてください!

 15…あなたの考えを変え、向上させてください。
    アファーメーションや祈りを使って、考えや感情が否定的
    なものを超越するようにしてください。

222…信じる心をもってください。すべてはうまくいきます。
    この状況に関わっているすべての人にとって
    おのずとみごとに解決していきます。心配はいりません。

915…天に導かれた変化をとげ続けるにつれ、あなたのスピリ
    チュアルなパワーと与えられた才能がさらに強く成長して
    います。あなたとの強さとこれからの変化は、聖なる目的
    を果たすのにとても大切なものです。


なにか、とても一環するメッセージを感じられてうれしかったです。


今、困ったり悩んだりしている訳ではないのですが、最近自分や自分の周りでもいろんなことが起きていて、人によっては結構大変そうなので、自分とのかかわりの中で、私はなにをしてあげられるか?とか、自分はどうあるべきなのか?などを考えていました。

でも、いつも具体的な行動については思い浮かばす、ただ漠然と、自分らしくあってどんな状況でもハートから外れず明るい気持ちでいる、それが一番のことのように感じていました。

ですから、今回のこの数字のメッセージは、「それでいいんですよ。」と、自分の感じていることを後押しされたみたいでうれしかったのです。
 
 
存在は私たちに、常にいろんなメッセージを発しているのだそうです。
数字もその1つですが、こうったゾロ目の数字や自分にとって「あれっ?」と思う数字は、探して見つかるのではなく、ふとした時に目に飛び込んでくるそうです。
時にそれは、車のナンバープレートだったり、新聞の活字の中だったり・・。

それで話はデジタル時計に戻りますが、

11:15 →時間
 9:15 →日にち
 2:22 →?
 22   →気温

上から3番目の2:22が何の数字か分からなくて、手に取って確かめようとしたけど分かりませんでした。(カウントしているんですけど…)

ま、それはあまり気にとめず、その下の気温をよく見たら小数点以下の数字があって、なんとそれも「2」!

摂氏22.2℃でした!!

「2」のメッセージは「信頼」なんですよね。


うん、うん、、もう信じちゃうっ!!ヾ(≧▽≦)ノ

大いなる存在の意志

2009年9月15日(火) 曇り by キヨタカ

年がバレるが、以前「私はこれで会社を辞めました」と、中年男性が小指を突き出すCMが話題となった事がある。

昨日の日誌によれば、「私はグルジェフの映画で会社を辞めました」という事になる。
まさにその通りなのだが、実はStar Peopleの記事では全く別の事がきっかけで会社を辞めましたと書いた。(興味のあるかたは、ぜひ雑誌をご覧下さい)

それもまさにその通りで、間違いではない。
どちらが本当かと言うと、どちらも本当としか答えられない。

仏教では、「因縁」という事が説かれる。
春に苗を植えれば、秋にはお米が取れる。
だから、苗を植えるのが「因」、つまり原因だ。
しかし、雨が降り、日が照り、雑草を取り除き、適切な気候が整うという諸条件である「縁」が揃わないと、結果は出ない。

だから、私が会社を辞めた上記の理由は、「縁」に当たるだろう。

それでは、私が会社を辞めた本当の理由、つまり「因」は何かを深く掘り下げていくと、どうも良くわからない。

自分の内側から湧き起こる不条理な衝動を押さえられなくなった。
「自分」という枠を越えた、「大いなる存在の意志」が働いたとしか説明がつかない。
だからそれが「因」だと思えるのである。

一昨年のリーマンショック以降の、世界情勢の急激な変化には驚くべきものがある。
たとえば、オバマ大統領の登場一つをとっても、一年前には誰が予想していただろうか?
今回の民主党の大躍進も、また然り。

世の中のこうした動きは、人間の計らいを越えた「大いなる存在の意志」の働きが深く深く関わっている。

そしてその「大いなる存在の意志」は、森羅万象に遍く浸透していて、その個人的な部分を「魂」と呼ぶのだろう。

だから、「魂の意志で会社を辞めた」のである。

注目すべき人々との出会い

2009年9月14日(月) 晴れ  by キヨタカ

長年熱心に瞑想に取り組んでいるTさんから、DVDが送られて来た。
「ぜひ皆で見て下さい」との事。
タイトルは、グルジェフの「注目すべき人々の出会い」。
若き日のグルジェフが、真理を求めて旅をするプロセスを描いた傑作だ。

Photo

久しぶりに(7年振り?)に見たが、やはり素晴らしかった。
全編に渡り、探求者への重要なメッセージが織り込まれていて、一切の無駄がない。
さっそく、今週末のリトリート後泊の夜のオプションとして、グルジェフ映画鑑賞を候補にあげよう。

私がこの映画を最初に見たのは、1983年の春だった。
サラリーマンをしながら、OSHOセンターで瞑想に取り組んでいた時の事だ。

あれは確か下北沢の超マイナーな映画ばかりを上映する路地裏の映画館だったと思う。
映画はストーリーが非常に凝縮しているので、最初見た時はよく解らなかった。
しかし「脳天を殴られるような」衝撃を受けて、そのまま帰らずに2回目を見た。
そして翌週また同じ映画館に行った。

真理を見出す為には命すら惜しまないグルジェフの情熱と、サラリーマンの余暇に時々瞑想をしている自分とのギャップにショックし、このままではまずいと焦った。

そして結局、オレゴン(アメリカ)へ行く為、会社を辞める決意をしたのである。

オレゴンにはOSHOが建設途上のコミューン:ラジニーシプーラムがあり、私にとっては、グルジェフの追い求めたサルムング教団の様に思えた。

グルジェフの場合、サルムング教団で学ぶ事で、めでたくの秘教を伝授されたらしい。

だから私もラジニーシプーラムへ行けば、めでたくOSHOから真理を伝達されるのかと思ったが、それは大間違いだった。
半年も滞在し様々な素晴らしい体験をしたにも関わらず、結局真理は掴めないまま帰国の途についた。
それからしばらくは、会社を辞めてしまった事を非常に後悔したものである。

しかし一度始めた探求の旅は、途中で引き返す事は不可能だ。
挫折しそうになる度に、この映画のグルジェフに励まされた。

だからグルジェフにはとても感謝している。
もっとも、私の師がグルジェフではなくOSHOだった事を、実に有り難く思う。
グルジェフの在り方は本当に魅力的で凄いのだけれど、一般の人間はとてもついていけそうにない。
少なくとも、私には無理。
かつてグルジェフダンスの真似事をしようとしたが、30分持たずドロップしてしまった。

しかし、大いに参考になる。

真理の探求者必見の映画である。

見習う?

9月13日(日) 曇り後晴れ by ヨガビジャ


天気予報がぜんぜん当たらず、
片っ端から布団乾燥機をかけてます。。(^o^;


090913_001←ちーちゃんは家の中で、
 寝てるか、食べてるか、
 膝に乗ってるか・・。
 キヨタカはかなりうれしい♪らしい。

 ・・よがびも、ちーちゃん見習えば? ボソ( ̄。 ̄)

 ムカッ (−_−メ) 

青天の霹靂(へきれき)!

2009年9月13日(日)  晴れ  by キヨタカ

新刊本には、「帯」というのがよく付いている。
著名人や好きな人気作家なんかが推薦していたりすると、つい帯に惹かれて買ってしまう事もある。

この間出版された「恩寵の扉が開くまでⅡ」も、著名人に「帯」を書いてもらったらどうか?と、友人にサジェスチョンされた。

しかし残念ながら、「帯」で本の売り上げがアップする程の著名人とは面識がない。
村上春樹さんや吉本ばななさん、あるいは美輪明宏さんなんかが「帯」を書いてくれたら、売り上げ倍増間違いナシ!なのだが…。

とこが先日、なんとこの私に新刊本の「帯」書いて欲しい、という話が舞い込んで来た。
まさに、青天の霹靂(へきれき)である!
どう考えても、私が「帯」を書いたからといって発行部数がアップするとは思えないのだが、非常に光栄に思い、O.Kの返事をしてしまった。

その本とは、タロットで有名なマンガラの著書で、タイトルは「直感のタロット」。
「直感力」にかけては天下一品のマンガラの事だから、何か常識を越えた観点から私を指名してくれたに違いない。

Mangalabaw


この本はマンガラがコースで教え、セッションで使っているタロットのテキストブックだ。
実は、最初にマンガラが来日した時の通訳が、何とこの私だった。
何年間かオーガナイズをした事もある。
だからそのテキストの事は良く知っている。
初心者でもとりあえず、この本でリーディングできるという画期的な内容だ。

マンガラのタロットセッションは、毎年欠かさず受けていた。
私にとっては「魂の健康診断」の様なもので、彼女の直感と洞察は実に奥深い。
彼女の実力はよく知っているし、並々ならぬお世話にもなっている。
私がこの修善寺に根を下ろせたのも、彼女のお陰である。

だから、喜んで「帯」を書く大役を引き受けさせて頂いた。

市民出版社から出版されるそうなので、みなさん是非買って下さいネ!

ちなみに、私の書いた「帯」は下記の通り。
買いたくなるでしょ?

* * *
マンガラのタロットは占いを遥かに越えている。
それは魂を覚醒へと導く画期的なツールだ。
カードを引くたびに、あなたは魂の真実を知る!
* * *

PS マンガラの新刊本に、恩寵が燦々と降り注ぎます様に!

スイスイスイ〜ッ!

2009年9月12日(土) by キヨタカ


 一昨日のスランプが嘘の様に、スイスイスイ〜ッ!とStar People連載中の原稿を完了!
いったいあの産みの苦しみは何処へ行ってしまったのだろう?
確かに文章が出なくて、便秘より苦しんだ筈なのに、今はもうその記憶も定かではない。

以前アジズが、「いったん目覚めてしまうと、何故あれほど苦しんだのか忘れてしまう」と語っていたが、それと似ているね。

今回の記事は、「某石油会社に入社してから再び探求を始め、OSHOを知り会社を辞めるまで」の出来事。
今回の記事も面白く参考になると思うので、ぜひご覧下さい。
(…といっても、発行は11月ですが、、)

私がサラリーマンをしていた4年間は、「実社会を生きる事」と「魂の渇望」が相反していて、非常に苦しかった。
正反対の方向へ走ろうとする2頭の馬の両方にしがみついていたから…。
一昨日は、あの苦しみを追体験していたのだろう。

しかし結局は「魂の望む方向」へ導かれて行った。
その後も色々な苦しみがあったけれど、苦しみの後で必ず魂の成長が起こっている事に気づく。

だから、「苦しみ」とは魂の陣痛のようなものだから、それほど悪い事でもない。

そこで思い起こすのが…。
ベートーヴェンの有名な交響曲第9番第4楽章の「歓喜の歌」は、不協和音から始まる。(↑クリック)
例の、ジャーン、ジャジャジャジャジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ、ジャジャンジャン ジャン♪とうヤツ。
人間の葛藤の極地を音で表現している様に聞こえる。

その後で突然、男性が独唱で高らかに「オ〜友よ、その音はやめなさい!」と宣言する。
そうして、別の提案をする。

「歌おう、もっと喜びに満ちた歌を!尽きる事のない喜びに満ちた歌を…」

すると曲調が一変して「歓喜の歌」の合唱へと導かれる、とてもドラマチックでニクイ構成となっている。

いきなり「歓喜の歌」から始まったら、恐らく名曲中の名曲として音楽史に燦然と輝く事はなかっただろう。

我々の人生もまた然り。
完全な目覚めが起こって苦しんだ事を全部忘れてしまう前に、「苦しみ」をとことん味わいたいものである。
その方が人生の「歓喜の歌」を、より一層美しく奏でられるのだ。

キャベツだけ

9月11日(金) 曇り後 晴れ by ヨガビジャ


昨日の夕食は、かねてから気になっていたレシピにトライしてみました。

それは「キャベツのスープ、キャベツの混ぜごはん、おろしキャベツ、キャベツボール」という献立。
そうキャベツづくしなんです。
(このレシピを考えられた方は、青虫に負けないくらいキャベツ好きなんだそうです)

我が家の場合、酵素玄米にはおそらく混ぜご飯は合わないのと、すでにお味噌汁はあったので、作ったのはキャベツボールとおろしキャベツのみ。
それがとても簡単で、


<キャベツボール>
 ・キャベツの千切りに塩ひとつまみを振りかけ2〜3分放置。
 ・そこにニンニクのみじん切りと片栗粉を入れて混ぜてボール状に丸める。
 ・それをごま油を熱したフライパンで焼く。


<おろしキャベツ>
 ・キャベツボールで残したキャベツの芯を擦りおろす。
 ・酢、しょうゆ、ごま油を合わせたものをかける。


ね、簡単でしょ?

キャベツボールは思っていた以上に水分が出たので、ちゃんと固まるか心配でしたが大丈夫でした。

おろしキャベツは擦りおろしている最中にちょっとつまんでみたら、、

たしかに、青虫になった気分。。(^^;)


090910_010←その完成図がこちら。

 キャベツボール、少し焦げて見た目はイマイチだけど、
 シンプルな塩味にガーリックがきいていて美味しい♪
 火の通りが気になって平べったい形にしたけど、
 もっと丸くても大丈夫そう。。

 おろしキャベツは、酢・しょうゆ・ごま油の
 ドレッシングをかけたらぜんぜん青臭くなくて
 甘いおろし大根みたい!

う〜ん、このレシピ気に入っちゃった♪
私、こういうメニュー大好き。

このレシピの著者さんは、「1日30品目の食物を摂ると健康にいい」という、現代の栄養学に疑問を持っておられるようです。

我が家の主食は酵素玄米だし、長岡式酵素玄米の普及に努めておられる新井先生によると、お味噌汁とぬか漬けさえあればそれで十分とのことなので、このレシピはうちにはうってつけです。

このキャベツ以外でも、ニンジンだけでとか大根だけでというのもあるから、今後試してみようと思います。(^^)v

スランプ?

9月10日(木) 晴れ時々曇り by ヨガビジャ


ずいぶん秋らしくなってきましたねー♪

いつの間にか庭には彼岸花が咲いていて、駐車場には栗が数個落ちていました。・・とはいえ、日中はまだまだ日差しが強いです。


リトリートが近づいて来たので、お天気の週間予報をチョックしたら今日・明日と晴天のマークで、それ以外はお日様と雲のマークでした。
確かに今日は、朝から富士山もクッキリとみえる爽快な青空。
食堂棟の屋根の朝露が乾くのを待って、布団を干しました。
ついでに、いつも閉め切りで湿気りがちな是々庵の布団も少し干しました。

一通り干し終わって、富士見荘でお茶を飲んでいたら、なにやらあっという間に雲が広がってきて、陽が陰ってしまいました。


う〜ん・・・天気予報当たってないじゃない。。(−_−メ)


しばらく様子を見ても晴れる気配はなし。
もう布団を取り込もうかと思ったけど、このパターンで取り込んだ後また晴れてきたっていうことが何度もあったから、ここはじっと我慢。
するとすこーし晴れ間が出てきたので、3時頃までそのまま干しておくことにハラを決めました。

そして今、布団を取り込み終わってパソコンに向かってます。
やっぱりあまり布団はフカフカにはならなかったけど・・。
また明日も干そうっと。。


さて、今キヨタカは3ヶ月に1度の産みの苦しみまっ最中。
そう、『Ster Peolpe vol.31』の連載の〆切が迫っているのです。

じつは富士見荘、先日の地震で屋根に被害があって、今足場を組んで補修工事をしている最中なんです。だから家の中に居ると、工事の音が結構すごくてちーちゃんも日中はどっかに避難しているらしく、ほとんど姿を見せません。

そして、昨日おしゃれなカフェに行ってリフレッシュしたキヨタカは、今日は朝から記事の執筆に取りかかっていたのですが・・・。


よがびー! うるさくて集中できないっ!!(>_<)


…ということで、
朝から沼津の図書館に行ってがんばっていると思いきや数時間後、


よがびー! スランプで文章がでない・・。(T_T) 

それで、私は「温泉でも入ってリラックスしてみれば?( ・・;)」
とアドバイスして現在に至る・・。


う〜ん、、どんな顔して戻ってくるんだろう。。( ̄- ̄;)

999

2009年9月9日(水)曇り by キヨタカ

 
今日は、2009年9月9日で「999」のゾロ目。
数秘学によれば「9=究極」であるから、今日は「究極の完成」を現す特別な日かも知れない。

…と、2人の意見が一致して「お祝いをしよう」という事になり、外食をする事にした。

目指すレストランは、沼津の狩野川沿いにある「ブルーオォーター」という、素敵な雰囲気のお店だ。
かなり前から行きたいと思っていたのだが、ようやく念願がかなった。

狩野川が一望に見渡せるオープンテラス風になっていて、デートには抜群!

少し早いが、ヨガビの誕生日の前祝いという事で、ノンアルコールビールで乾杯!!

毎日、玄米菜食の食生活をしているので、ちょっとした外食が超豪華なディナーに思えるから不思議だ。

Photo_13

ワンネス

2009年9月8日(火)  晴れ時々曇り  by キヨタカ

昨日、パルバと出口さんと会い、10月の天命瞑想道場についての打ち合わせを行った。
これは、「競走馬」と「亀」とが、同じ土俵で真理を探求する非常にユニークで画期的なイベントだ。

世の中には2種類のタイプがいると、OSHOは言う。
「競走馬」タイプと「亀」タイプだ。
「競走馬」にとっての喜びとは、「する」事であり、達成する事や新しい物事を創造する事に価値を見出す。
一方、「亀」タイプにとっての喜びとは、「在る」事であり、なにもしなくても喜びは今ここにあるから、忙しく動き回る人々が奇妙に思える。

OSHOは自分を「亀」タイプだと公言しており、瞑想に興味を持つ人は「亀」タイプの人が多い。
しかしOSHOの素晴らしい所は、「競走馬」の事もよく理解している点にある。

もしあなたが「競走馬」タイプなら「亀」タイプの言う事を聞いてはならないと言う。
なぜなら「競走馬」が「亀」の真似をして「なにもしないで寛ごう」としたら、もっとストレスで一杯になるからだ。

そしてOSHOは「競走馬」にも瞑想の喜びを味わえるように、ダイナミック瞑想等様々な瞑想技法を開発したのである。


瞑想に惹かれるのが「亀」タイプであるのなら、天命に惹かれるのは「競走馬」タイプと言う事になる。
お互いに世界が違うのであるから、それぞれ違った分野でそれぞれの喜びを見出せば良かった。
20世紀においては…。

しかし今は21世紀であり、水瓶座の時代に入ったと言われている。
そのキーワードの一つが、「統合」であり「ワンネス」だ。

天命瞑想道場とは、一見するとキヨタカと出口さんとの出逢いによる単なるユニークなイベントに見えるが、その背後には「統合とワンネス」を強烈に押し進める宇宙の意志を強く感じるのである。

そしてこの「亀」と「競走馬」のエネルギータイプは、実は一人の中に両方存在している。

そして一見矛盾するこの2つのエネルギーを、瞑想を通して自己の内側で「統合」した時、宇宙とのワンネスが顕現し、宇宙の意志を天命としてパワフルにこの地上で生きる事が可能になると確信している。


この「ワンネス」は、南インドの「カルキ・バガヴァン」という聖者のキャッチフレーズともなっている。
ワンネス・ユニヴァーシティを設立し、数年前に日本でも一大ムーブメントが起こり南インドを訪れる人々が続出したので、ご存知の方も多いだろう。

実は天命瞑想道場打ち合わせの後、パルバに連れられて、日本のカルキ・ムーブメントの新しいセンターを訪れ、代表の大矢さんとお話しする機会を得た。

Oshoやアジズ・フーマンと言ったマスター路線を探求し続けた結果「外側を頼る事を止めた」私としては、バガヴァンのカリスマ性に敬意を表しつつも、外側のマスターへ頼りすぎるムーブメントに違和感を覚えていた。

しかし今回大矢さんにお話を伺い、単なる盲目的なマスターの恩寵ではなく、個人の「気づきや、意図、努力」も大切にしている事等を知った。
自分の中にあった偏見を率直に落とし、大矢さんや他のスタッフの愛を肌で感じる事が出来、非常に嬉しかった。

今、世界はとてつもなく急激に、ワンネスの真実へ向かっている事を肌で感じている。

ところで私は、数日前、ヒューレン博士の2デーズセミナーに参加した。
今や大ブームとなっている、ホ・オポノポノというハワイの秘法を世に広めた博士のセミナーである。
この手のセミナーに参加するとは私自身思ってもみなかったのだが、どうも「自分の意志を越えた何か」が作用したらしく、私は会場にいた。

博士のセミナーはシンプルさが売りで、はがき一枚でメッセージが伝わる。
このシンプルさが好きなのだが、しかし2時間も過ぎると、話があまりにもシンプル過ぎて非常に苦痛となった。
なんでいまさら私がここにいる必要があるのか、非常に場違いな感じがして自分が惨めになった。
何度も途中で帰ろうと思ったが、「自分の中にわき起こる苦痛」に直面し、それをクリーニングする絶好の機会と受け入れて、セミナーに参加し続けた。

そして予期せぬ結果として、「自分の中の偏見や価値観」をかなりクリーニングする事が出来た。
天命瞑想道場のより深い意義を見出せたのも、カルキセンター訪問を心から楽しめたのも、結果的にはこのセミナーのお陰である。
有り難う、愛してます!

…しかし、セミナーは2時間で十分だと思うのですが、、。
(生意気な事を言って、ご免なさい、許して下さい。)

また庭がボコボコです

9月8日(火) 晴れ by ヨガビジャ


090907_002←これ、なんの写真だと思います?

ここは本館の横にある竹林の(今はかなり竹を伐って2,3本しか残ってないけど)、廃材や切り株、枯れ葉などを捨てる場所で、ここの庭を管理しているNさんが手作りされたものです。
木の杭を打ち込み、建設資材などを使って高さ60センチくらいの壁を作ったもので、枯れ葉や切り株などが朽ち果てて腐葉土のように体積しています。

今日、その横の通路を通ろうとしたら、朽ちかけた切り株やら土が通路一面にはじき出されたかの様にばらまかれ、その60センチの壁の中は掘り返された大きな穴ができていました。

イノシシの仕業であることは分かるのですが、その穴の大きさや通路にはじき出された切り株の大きさを見ると、いったいどんな巨体のイノシシかと、ちょっと恐ろしくなる程です。

じつは、もう2ヶ月くらい前ですが、キヨタカが留守で、夜ちーちゃんとふたり(?)で富士見荘にいたら、下の倉庫(キヨタカがウエットスーツを干している扉のないスペース)から、バリバリというか、なんと表現をしていいのか分からない、尋常ではない音がしてきました。

ちーちゃんは怖がって私の傍からは慣れません。

その場所は階段の真下に位置していましたので、私はその音の主を特定するために階段に座って音を聞いていました。

すると、動き回ってそこにあるものを踏みつけているような、「バリバリ」という音と同時に、獣のような「フガフガ(ブヒッ?)」という声が聞こえます。
さらによく聞くと、その声は2種類で1頭は子供のようです。

おそらくイノシシの親子連れが、ちーちゃんのご飯を狙ってやってきたのでしょう。
自動給餌器を小突き回して、中のキャットフードを食べているようでした。

原因が分かったからまだよかったけど、最初はかなり怖かったです。

いつもまで経っても物音は止まらないし、どうしようもないのでその夜は寝る事にしました。


翌朝、恐る恐る倉庫を見に行ったら、案の定、ちーちゃんの自動給餌器は倒されてフタは外れてドロドロに汚れています。
キャットフードは少し残っていました。
壊れていないか心配でしたが、幸いちゃんと動きました。

じつはこの後も、何度かやってきては同じ事が繰り返され、さすがにちーちゃんといっしょにイノシシの親子まで養うつもりはないので、夕方ちーちゃんを富士見荘に入れる時に、自動給餌器もいっしょに玄関に入れることにして、一旦問題は解決したかのようにみえました、が。。

その後しばらく、この給餌器は問題なく動いていたのですが、先日とうとうデジタル表示がされなくなり修理に出しました。

キヨタカは保証書を探しましたが、取扱説明書にある使用環境は当然「室内で」と明記されていますから、無償修理になるはずがないですよね、常識で考えて。

屋外で使っていて、イノシシに小突かれました・・とは言えないし。( ̄⊥ ̄lll)

ふう〜・・、いろいろと想定外の出費が多いこの頃です。


それにしても、、
夜、駐車場から富士見荘まで向かう途中でイノシシとばったり会ったりしたら、どうしたらいいのかしら?

以前テレビで、イノシシと遭遇したらイノシシに向かってジャンプ傘を開くと逃げて行く、というのを見た事があるけど、傘、いつも持ってるわけじゃないし・・。( ̄- ̄;)

イノシシは木に登れないから、木に登るのがいいのかな?
でも、昔は「棒のぼり」が得意だったけど、今はたぶん登れないし。。

う〜ん、、夜は出歩きたくないです。。(ー’`ー;) 

(イノシシって冬眠するのかな?)

「恩寵の扉が開くまで」補足説明7

9月7日(月) 薄曇り by ヨガビジャ


<最後に>


2000年にアジズが初来日して以来、明らかに社会的状況のみならず目に見えないスピリチュアルな世界での状況も変わってきているように思われます。

最近時間の流れが、1日24時間あるように感じられない方も多いのではないでしょうか?


アジズの初期のリトリートでは1日に6,7時間、本当に多くの人が苦労して坐り続け、[SP]のワークに取り組みました。

でも今は、あの時と同じ時間とエネルギーを労さずして、プレゼンスの安定化が可能になっています。

(最近では、プレゼンス→ビーイング→ハートというワークの境界が曖昧に
 なり、プレゼンスとビーイングがセットでワークされている(起きている)
 ケースも見られます)

本当に驚くべき事ですが、リトリート初参加の方でも、場合によっては1回のリトリートで初期の頃の3,4回のリトリートに参加したくらいの理解と体験が得られる感じなのです。


フーマンはすべての準備を整えてボディを去った、そう感じます。

アジズやフーマンのワークをされて来た方々の中には、独自に瞑想会やヒーリングを始められている方もおられます。
おそらくフーマンは、このように自分の生徒たちが他の人々と坐り、彼らがそういった人々にエネルギー的に影響を与えることを意図していたのではないか?と私は感じています。

そして今は、本当に時代が私たちを後押ししています。
悟ったマスターが傍にいなくても、誠実に道を求めるなら必ず辿り着ける、そんな確信があるのです。

スピリチュアルな道を歩む時、もちろんひとりで歩む事もできますが、すでに何人かが通った道を、同じ想いを持った人々と歩むことで、その道中は理解を深める会話を楽しむ事もできるますし、お互い助け合う事もできます。

具体的にいうと、一度でも瞑想会などの機会で、ご自分の「理解と体験を確実なもの」にされましたら、その後のワークはより容易で、進歩が加速される可能性があることです。

先ほど「時代が後押ししている」と書きましたが、瞑想会ではそれにプラスして「場のエネルギー」も私たちを後押しをするのです。

なにかのご縁で「アジズとの対話」や「恩寵の扉が開くまで」を手に取っていただけたのですから、そのエッセンスを最大限に受け取っていただき、体験をされ、ご自身の成長の糧にしていただけたら、本当に幸いです。


とても長い文章となりましたが、僭越ながら何かの参考になればと思い書かせていただきました。
読んでいただいてありがとうございます。

ネコはネコ・・でした

9月6日(日) 晴れ by ヨガビジャ


いやー、まいりました〜〜。。


じつは昨日の朝食後から、ちーちゃんが行方不明でした。

1日、2日いなくなることはこれまでもあって、そんな時はだいたいキヨタカが心配して、私は「大丈夫〜。そのうち戻ってくるって♪」という感じなのですが、今回は気になって仕方なくて・・。


今朝はちーちゃんの名を呼びながら、この施設内を歩いたし、車で出掛けてはちーちゃんがいないか探してみたけど見当たらなくて。

昨日の日中、掃除のおばさんが是是庵を掃除していたから、もしかして是是庵に入り込んでそのまま閉じ込められてる!?と思って見に行ったけどいない。

食堂棟も、今富士見荘の修繕に来ている業者の人がトイレを使えるように開けてあるから、もしやと思って見てみたけどいない。。

帰ってくるかなあ〜・・・?と気にしつつ、一人の夕食を食べ終わって、ふと、、


本館、見てない・・。  ( ̄⊥ ̄;)

と思って、鍵を持ってちーちゃんの名前を呼びつつ本館の正面玄関へ向い、鍵を開けて一声。


「ちーちゃんっ!?」

すると、

「にゃおんっ!!」(とっ、とっ、とっ♪)←階段を駆け上がってくる音


いやー、感動しました==!
すぐに抱き上げたら、軽くなっていましたが。。


それにしても、気がついてよかった!!
あと数日放っといたら、本館でミイラになっていたかも?

ゴロゴロと体を擦り寄せてくるちーちゃんを下に降ろし、「ご飯、あげるからね!」と富士見荘に向かって歩き始めると、後をトコトコと付いて来ます。

さっそく、玄関で足や体を拭いて上にあげて、おかか入りキャットフードをあげたら、食べる、食べる・・・。
いつになく激しい喰いっぷりでした。
ご飯を食べ、お水も飲んで、毛繕いかな?って見ていたら、、


あ”っ===!
玄関に降りたっ!!
せっかく足を拭いたのに===!!!


やっと再会したのに、外に出たいって? (−_−メ) 


ま、1日と半日、本館に閉じ込められていた訳だから、外にいたい気持ちも分からなくはないけど・・・

私がどれだけ心配したと・・・


・・ネコってこうなのよね...。 ( ̄⊥ ̄)


私、ほんとはイヌ派なんです。。。


PS.今日、最後の「恩寵の扉が開くまで」補足説明アップするつもりでしたが、
  ちーちゃんの一件で脱力したのでお休みします。。

「恩寵の扉が開くまで」補足説明6

9月5日(土) 晴れ by ヨガビジャ


<フーマンの目に映るのは…>


あと「恩寵の扉が開くまで」を読まれる時に、意識して読まれるといいかも?と思う事が一つあります。

それはフーマンがキヨタカに語りかける時、通常私たちが一人の人間と対峙するのとは、違ったレベルで接しているということです。

分かりやすく言うと、パーソナリティ(人格)としてのキヨカタに語りかけている時と、「This」としてのキヨタカ(厳密にいうと「This」を体験しているキヨタカ)に語りかけている場合とがあるといえます。


「恩寵の扉…1」では、フーマンはキヨタカの様々な質問に答えました。

それは、おそらく想像ですが、キヨタカの質問に答える事で、彼に必要な情報を与える事と同時に、彼のマインドをリラックスさせる目的があったのではないかと思います。

マインドをリラックスさせることなしに、彼のプレゼンスをビーイングへと手放させ、さらに「This」の体験へと導いて行くことは不可能だったのでしょう。
この理由から「恩寵の扉…1」では、キヨタカのパーソナリティへの働きかけにウエイトが占められていたと思います。

それに対し「恩寵の扉…2」では、キヨタカのパーソナリティには極力触れず、「This」に目を向けさて、そこに留まることにエネルギーを注いでいました。

「2」においてフーマンは、

『もしあなたが私を「フーマン」にすると、あなたは「キヨタカ」という
 立場からやってくるようになる。』と言っています。
また、『私はフーマンではない』とも。
(私をフーマンにするとあなたはキヨタカになる、という事)

これはフーマンがキヨタカを、『自分と同じ「This」の違った表現』として見ていた事の顕われであり、またキヨタカ自身にもその事をみるように(理解するように)促しました。

フーマンの視点においては、目の前の相手は「魂でありThis」なのです。
フーマンはパーソナリティとしての相手には関心がなく、必要に応じてその人の人間の部分に繋がっているだけでした。


ですから、もしキヨタカを直接知っている人がこの本を読まれたら、フーマンの言うキヨタカ像と自分の中のキヨタカ像にギャップを感じたり、そのギャップからこの本の信憑性に疑いを持たれる方がみえるかもしれませんが、以上述べたように、フーマンの視点は私たちとは違う事を考慮すると、この辺の事も理解しやすいかもしれません。


私たちもフーマンのように、相手をパーソナリティとして見るのではなく、その奥にある魂/Thisとして認識できたら、私たちの人間関係は劇的に変化するのかもしれません。

(つづく)

パソコンの中に描いたイラストが反抗

9月4日(金) 曇り by ヨガビジャ


今日の日誌はすでにアップしたけど・・。

あんまり楽しいから追加のアップ。。


animator vs animation

http://www.atom.com/fun_games/animator_vs_animation/

animator vs animation 2

http://www.atom.com/fun_games/animator_vs_animation_2/


私こういうの大好きっ!ヾ(≧▽≦)ノ

「恩寵の扉が開くまで」補足説明5

9月4日(金)曇り by ヨガビジャ


<「恩寵の扉…2」で生じた混乱>
 
 
「恩寵の扉…2」が世に出た事で、アジズのワークがフーマンによって否定されたように感じて、これまでアジズのワークを継続されてきた方の中には、混乱されている方がみえるのではないか?と感じます。


なぜなら本の冒頭に、「恩寵の扉…2」を公表する事へのためらいがあったことが書かれていますが、それはアジズとフーマンの違ったサジェスチョンにより、キヨタカ自身が悩み混乱した経緯から、本を読みこれからこのワーク始めようとしている方やその途上の方に、自分と同じ混乱や誤解を招くではないか?と危惧したからです。
 
キヨタカは当時、アジスとフーマンのワークの矛盾で随分悩んでいました。

このことをなんとか自分の中で知的に理解して、納得のいくひとつの結論を導き出そうとしましたが、結局それはできませんでした。

ある段階でアジズとフーマンの矛盾するサジェスチョンから、フーマンの教えに沿っていくことを決めましたが、その後も「やはりアジズの方が…」という思いにかられました。

自分の選んだ道に疑心暗鬼になり「なにが正しいのか分からない…」
そんな悶々と過ぎて行く長い時間の末に、自ずと理解は訪れた、、、
そんな感じでした。

ですから、この本を読まれて今は腑に落ちずすっきりしない感じがあったとしても、無理に今結論を導き出そうとしないことも、一つの選択肢かと思われます。
  
「知らないことにくつろぐ」ことで、思考を超えた理解が訪れる、
そういうことがあるのだと思います。
 
ただもう一度明確にしておきますが、「…アジズの教えと彼の道は、成長のある特定の時期に必要なものであった…」とフーマンが語っているように、フーマンはアジズのワークを全面否定してるのではありません。

相手や状況によって、とても流動的かつスポンテニアスにフーマンは語りますので、そのニュアンスをぜひ感じ取っていただきたいと思います。

(つづく)

「恩寵の扉が開くまで」補足説明4

9月3日(木) 晴れ by ヨガビジャ

<別のプレゼンスのワーク>

この事に関しては、私には自分がフーマンに言われた事しか書けませんが、
参考までに書きます。

アジズ方式のプレゼンスのワークがサード・アイに意識を向けるように、私の場合は常にハートに留まるようにサジェスチョンを受けました。
なぜなら、そこにあなたのプレゼンスはあるからと。
それが私にとってのプレゼンスのワークでした。
それと同時に、ハートに寛ぎ消え去りなさいということでした。

これはサード・アイに意識を向けてプレゼンスに留まり、ビーイング(ハラ)に寛いでいく、アジズの方法と基本的には変わりはないと思います。
ただ、働きかける場所とタイミングが違うだけだと理解しています。

おそらくフーマンのワークを受けられた方は、それぞれにまた違ったサジェスチョンがあったと思います。

それが個人に対応したフーマンのワークのすばらしさではありますが、だからこそフーマンがボディを離れた今となっては、今後ワークを続ける上での困難さではあるでしょう。

これから「アジズとの対話」や「恩寵の扉が開くまで」を参考にワークをされようとしている方は、自分にとってこれと思われる事をしばらくやってみて、その瞬間瞬間、自分の感覚に繊細でいて「なにが自分に正しいか?」を<感じられる>ことをお勧めします。

フーマンは「スピリチュアルな道を歩む上での繊細さ」の必要を、私のセッションの中で語った事がありました。

私は、思考する事ではなく静かに在ることによって訪れる「知 - knowing 」が、私たちにはすでに備わっている感じがするのです。

マスターの臨在に元では、私たちはその自己「知」に目を向けることをしなくなりがちです。
でもマスター不在の今、ひとりひとりが自らの「知」に目覚めて行く事が、私には最善のことに思われます。
 
 
 
今回、なぜこれだけ細かい事を書くかというと、「アジズとの対話」の発売以降、本を読みながら独自に[SP]のワークをしていらっしゃる方が多くおられる事を知りました。
でも、ご自分で[SP]のワークしていく中で、実際自分が体験している事と本に書かれている事とが違っていたり、本に書かれているように進まない事で自分のやり方に疑心暗鬼になり、八方塞がりを感じられている方が少なくないのです。

ですから、個人差によって「必ずしも本の通りに行かなくてもいい」ということと、ご自身の感覚を信頼する事に慣れていくことを提案したいのです。

(つづく)

「恩寵の扉が開くまで」補足説明3

9月2日(水) 曇り時々 by ヨガビジャ


<ステート・オブ・プレゼンスのワークは自分には必要か?>


このことについて質問されることもあります。

(ここでいうステート・オブ・プレゼンスとは、アジズ方式のプレゼンスのワークを指します。以下[SP]とします)

この事を判断する一つの基準ですが(あくまでも私個人の考えです)、、

自分はマインドが強いと感じない(あまりマインドに振り回されない)、
瞑想には比較的すんなりと入る事ができる、
思考より感覚タイプだと感じる、、etc

一概にはいえませんが、こういった方は必ずしも、SP(アジズ式のです、念のため)のワークは必要ないのではないかと思います。

稀にこれらの方の中には、すでにハートや全身でプレゼンスの感覚を持っておられる方がおみえになるようです。

しかし、感情量が豊かでコントロールできない時があったり、様々な理由で瞑想に入る事が困難な方の場合には、[SP]に働きかける事はとても有効だと思います。
 
 
<プレゼンスのワークの重要性>


プレゼンズ(自分は在るという感覚)のワークがなぜ大切かというと、プレゼンスのないビーイング(くつろぎ)は単なるスペース・アウトした状態ですし、プレゼンスのないハートはただ無自覚な躁(または鬱)の状態をもたらします。

プレゼンスを安定化させることは、外側の出来事やパーソナティからの分離を可能とし、「魂としての自己」を認識する第一歩となります。
プレゼンズがないと、この肉体・思考・感情との同一性から完全に自由になるのは困難なのです。

(ここではあくまでもアジズとフーマンのワークを前提に書いています。それ以外のワークを否定するつもりはありません)

(つづく)

「恩寵の扉が開くまで」補足説明2

9月1日(火) 晴れ by ヨガビジャ


<教えと対象者について>


「恩寵の扉…2」において、一見するとフーマンはアジズのワークを否定しているかのような表現があります。

これらの箇所では、キヨタカ個人のワークのプロセスとして、もしくは、すでにアジズのワークを継続していて、次のステップに進もうとしている生徒たちを対象に話していると考えていいでしょう。

「一般論的」なアジズ云々というより、上記の対象者の「今のこの時期」においては、、という文脈で読まれると、理解しやすいかもしれません。

また、「フーマンはプレゼンスのワークを重視していない」と感じられる方もいらっしゃるようですが、フーマンは「プレゼンスのワークはすべての人に必要だ」とはっきりと語っています。
ただ、「必ずしもアジズのやり方だけがすべてではない」と言っているに過ぎません。

過去に禅の道を歩んだ方や、インテリでマインド志向の人には向いていると話していますね。

また、「女性にはプレゼンスのワークは必要ない」とは言ってはいません。
あくまでもその人のタイプと状態によると思われます。

あまりマインドの強くない人の場合は、頭(サード・アイ)に意識を集中させるやり方は不自然な状態を生み出すと、私には語っていました。

(つづく)

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