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「恩寵の扉が開くまで」補足説明6

9月5日(土) 晴れ by ヨガビジャ


<フーマンの目に映るのは…>


あと「恩寵の扉が開くまで」を読まれる時に、意識して読まれるといいかも?と思う事が一つあります。

それはフーマンがキヨタカに語りかける時、通常私たちが一人の人間と対峙するのとは、違ったレベルで接しているということです。

分かりやすく言うと、パーソナリティ(人格)としてのキヨカタに語りかけている時と、「This」としてのキヨタカ(厳密にいうと「This」を体験しているキヨタカ)に語りかけている場合とがあるといえます。


「恩寵の扉…1」では、フーマンはキヨタカの様々な質問に答えました。

それは、おそらく想像ですが、キヨタカの質問に答える事で、彼に必要な情報を与える事と同時に、彼のマインドをリラックスさせる目的があったのではないかと思います。

マインドをリラックスさせることなしに、彼のプレゼンスをビーイングへと手放させ、さらに「This」の体験へと導いて行くことは不可能だったのでしょう。
この理由から「恩寵の扉…1」では、キヨタカのパーソナリティへの働きかけにウエイトが占められていたと思います。

それに対し「恩寵の扉…2」では、キヨタカのパーソナリティには極力触れず、「This」に目を向けさて、そこに留まることにエネルギーを注いでいました。

「2」においてフーマンは、

『もしあなたが私を「フーマン」にすると、あなたは「キヨタカ」という
 立場からやってくるようになる。』と言っています。
また、『私はフーマンではない』とも。
(私をフーマンにするとあなたはキヨタカになる、という事)

これはフーマンがキヨタカを、『自分と同じ「This」の違った表現』として見ていた事の顕われであり、またキヨタカ自身にもその事をみるように(理解するように)促しました。

フーマンの視点においては、目の前の相手は「魂でありThis」なのです。
フーマンはパーソナリティとしての相手には関心がなく、必要に応じてその人の人間の部分に繋がっているだけでした。


ですから、もしキヨタカを直接知っている人がこの本を読まれたら、フーマンの言うキヨタカ像と自分の中のキヨタカ像にギャップを感じたり、そのギャップからこの本の信憑性に疑いを持たれる方がみえるかもしれませんが、以上述べたように、フーマンの視点は私たちとは違う事を考慮すると、この辺の事も理解しやすいかもしれません。


私たちもフーマンのように、相手をパーソナリティとして見るのではなく、その奥にある魂/Thisとして認識できたら、私たちの人間関係は劇的に変化するのかもしれません。

(つづく)

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