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結婚式が終わって

12月27日(月) 晴れ by ヨガビジャ

(つづき)

今回の結婚式にまつわる旅行では、たくさん気づかされることがあったんです。

まず自分に関してお話すると、ちょっと深刻になりがちな場面でも笑って受け流せるようになっていたことに驚きました。
昔は場の雰囲気に巻き込まれて、気が重くなったりいちいち感情的に反応していたのが、影響を受けずにそこにいられて、なおかつその場の空気を変えることができる。。

私はフーマンに、「この現実を深刻に捉えないように」とずっと言われていましたが、それがいつのまにかできていた…そんな感じなんです。
もしかしたら、ハートが強くなったのかもしれません。

その意味においても、今、家族の存在を大変ありがたく感じます。
10代から30代の頃のように避けるのではなく、きちんと直面したことで自分のハートの重しになっていたものが取り除かれたように感じるから。

自分にとって苦手なことや避けたいものには、なにかの「鍵」が隠されているようです。
痛みも、強くなるための筋トレのようなものかもしれないですね。。。


 ***

それから今回、親戚のことがいろいろと明らかになりました。

私の叔母(母の妹)は今70代ですが、ずっと独身で名古屋で一人暮らしをしています。

子供の頃、この叔母はたまに我が家を訪れては私と姉にチョコレートをくれました。だから「チョコのおばちゃん」と呼んでいました。

私は子供の頃からずっと、叔母は結婚を望まず自分の意志で独身を貫いているのだと思っていました。
それが今回、披露宴で席が隣同士だったことでゆっくり話すことができ、その時結婚をしたかったことを初めて聞かされ、とても驚きました。

夜、温泉でその事を母に告げると、誰にも話していないのだけど…と聞かせてくれた話で、大切な様々ことがクリアーになりました。

叔母はある病気のため、結婚をしたくてもできなかったのだそうです。
昔その病気の治療が家計を圧迫し家族に迷惑をかけたという負い目があったらしく、そのことが原因である時期うちの母と激しい言い争いになりしばらく断絶状態が続いたそうです。

この叔母には、頑固なところとちょっと拗ねたようなところがあります。
高齢で独り身なので姉がたまに様子をみているのですが、なにかにつけて否定的でケチをつけるらしく、この結婚式の前も姉がメールでぼやいてました。

でも今回母から聞いた話で、これまでの叔母の態度や言葉の本当の意味がやっと分かりました。
そして寂しさも・・・。

このことがなければ、「よく分からないけど、頑固でちょっと変わり者のおばさん…」と思い込んだまま関係は終わっていたと思います。


「理解されることより理解することを、私が求めますように」とはフランチェスコの祈りの言葉。

真に人を理解しようとすると、本当に嫌ったり憎めたりする人というのは存在しない気がします。
なぜなら、その人が今「そのようである」には必ず理由があるから。

このことは(以前この日誌にも書きましたが)うちの父に対して感じたものでした。

でも今回叔母のことを通して、自分が積極的に理解しようとしなければ、目の前の多くの人のことも知ってるつもりで全然知らなかった…そんな独善的で表面的な関わりしか持てないのだと気づきました。


…人を理解しようとすることは、慈悲の扉を開くことのように感じます。

この場合の「理解する」は「共鳴する」と同義語。
「知る」理解ではないんです。


 ***

私がこの叔母のいきさつを知り最初に考えたのは、「おばちゃんに何をしてあげられだろう?」「どうしたら楽しんでもらえるだろう?」ということでした。

でも、自分のこの考えにすぐ違和感を覚えました。

してあげる・・・?

それって、叔母を気の毒な存在として助けたいと思ってる?
同情??

と感じたら、すぐにフーマンが思い起こされました。

フーマンは常に目の前の相手(の魂)を「既に自由で完全な状態」と見なし、そこに向けて語ります。
きっとそうすることで、その人の「既に自由な完全な状態」が目覚めることを知っているからでしょう。

私はまさに、自分がその逆をしようとしていたことに気づきました。

もし「おばちゃんに会いに行く」という行動をとったとしても、それが先の同情をベースにしたものか、(本人は気づいてないけど)「既に自由で完全な状態」のおばちゃんに会いに行くのか・・・そこには雲泥の差が生じます。

そう思うと、人を助けるとかってなにか微妙なところで違うな…という感覚が訪れました。もちろん、言葉の用法的にも行動としても、なにも間違っていないけど。


フーマンのように目に映る幻想に惑わされることなく、既に自由で完全な状態の魂としての相手といられるようになりたいです。
それはやはりハートの機能なんでしょうね。。
感情レベルのハートではなく、聖なる次元の扉としてのハート・・・


私はフーマンとの最初のセッションで、「慈悲を理解すること、そこに鍵はあります」と言われていました。
今回期せずして、「慈悲」という言葉が指し示すものに触れられた気がします。
フーマンがボディを離れ5年の月日が流れましたが、ワークは生前の彼の言葉通り、継続されているようです。

誰にとっても、今、自分の置かれている状況にこそ成長の、源へと還る「鍵」があることを、私は確信しています。


姉に叔母のことを話そうと思います。
それを知れば叔母を理解し共感することができる。
きっと不必要な苛立ちから開放されると感じるから。


そして「たぶん」から「やっぱり」へと確信を強めたことは、、、

私はみんなに笑ってほしい、楽しんでほしいということ。
それが私の望みです。


長い日誌になりましたが、書きたい衝動に従いました。

コメントやメールをいただいた方々、ありがとうございます。
その声が耳に届かなければ、こんなには書かなかったと思います。

長文におつき合いいただき、ありがとうございます。<(_ _ )>

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コメント

理解とは愛の一つの現れ方なんですね。

日誌を読んでいてよく感じるのだけれど日々の何気ない出来事からほのかな幸せをシェアしてくれるヨガビさんステキです。

瞑想を現実の中に持ち込むって大げさなことではなくって、そよ風のような心地よさを感じ続け、それをみんなとシェアし続けるようなそんなイメージをもらいました。

そうですね、「瞑想を現実の中に持ち込む」って大げさなことじゃないですよね。。

昔スピリチュアルな探求は、出家に見られるように社会生活とは完全に分離したものと考えられていた時期があったけど、今はあらゆることが分離から統合へと移行していっているように、スピリチュアリティも日常生活へと浸透し、統合が始まっているのだと思います。

そうなることで個人の成長もよりバランスのとれたものとなり、その個人の集まりである社会自体も成長し進化していくことができるのでしょう。

まあ、いちいちそんな難しいことは考えてないですけど・・

夢をまことにと願うなら、
焦らずひとつひとつ築きなさい・・てね。。。

世界平和を祈るのも大切だけど、
同じだけ、自分の周囲の人の幸せに心を配るのも、
地道だけど大切だと思うんです。

身近な人の笑顔が見られると幸せですよね?
すると、人のためにすることは自分にしているのと変わらないなあ〜ってつくづく思うんです。。^^

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