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映画から

12月10日(金)晴れ by ヨガビジャ


先日私が一人で観に行った映画は「ハリー・ポッター」なんです。

このシリーズの1作目はキヨタカと映画館で観たのですが、もともとファンタジー?というか非現実的なストーリーがキヨタカは好きではないので、キヨタカと観たのはこの1本だけ。

2作目はDVDをレンタルして私ひとりで観たのだけど、ストーリーはあまり覚えていなくて・・・。
3作目以降は私も全然観ていなかったのですが、今上映されている最終章の予告編を観ていたらなんとなく観たくなりました。
それで1週間ほど前に、TUTAYAで3作目〜6作目の4本を借りてきて一気に観たのですが、とても興味深くて面白かったんです。
でも最後に2作目を観てからかなり時間が経っていたし登場人物や名前が覚えられなくて、結局1本につき2回ずつ観てなんとか内容を理解しました。
そして先日、最新作を観に行った次第です。


個人的には最近上映される多くの映画に、善と悪の単純な二元対立的なものの見方や価値観の時代は終わったというメッセージを感じます。

一昔前のハリウッド映画などでは、正義のヒーローが悪をやっつけてハッピーエンド的な内容が多かった気がします。(※注…私、映画それほど詳しくありません)
また、私が子供の頃は、ウルトラマンが悪の怪獣や宇宙人を苦戦の末に倒して、最後は「ありがとう!ウルトラマン」の言葉で終わるいくつものシーンが脳裏に焼き付いています。

でもいつの頃からか、ヒーローは非の打ち所がない完璧な存在ではなく、迷い悩みながら戦う過程で成長していく、私たちとあまり変わらないタイプのヒーロー像が登場し始めました。

それはなにか、弱者と強者、救う者と救われる者、善人と悪人等々、そういった対極の境界がぼやけ始め、限りなくグレーゾーンの幅が広がってきたように私には感じられます。


今回の借りたDVDのうちの一つのシーンですが、ダンブルドアが亡くなった後、ホグワーツ魔法学校の生徒と教師が横たわったダンブルドアの周りを囲み、その死を悼みます。
空には怪しい暗雲が垂れ込めています。
一人の教師が自分の杖を空に向けて掲げると、その場の皆がそれに倣うように空高く杖を掲げ始めます。
それぞれ杖の先には小さな光が灯り、その無数の小さな光が向けられた先にあった「闇の印」はその姿を崩し、そこだけ雲が切れ空が現れます。

とても象徴的なシーンに感じられました。

偉大なる師は去りました。
そして、たとえ「選ばれし者」でなくても、ひとりひとりが自らの光を掲げる時だと。
いえ、ある意味ではすべての人が選ばれし者なのだと。

その選ばれし理由ともいうべき「役割」はそれぞれに違うけど、もう誰もが傍観者ではいられない時代なんです。

ハリーは確かに選ばれし者だけど、その選ばれし者を選ばれし者として在らしめているのは、ロンやハーマイオニーほか大勢の人々。
宿敵のヴォルデモートですらその一人に過ぎない。
さらにいえばハリーですら、ヴォルデモートをヴォルデモートと在らしめている。

この無限に広がるタペストリー・・・
自分とは、そこに織り込まれた糸と糸とのたった一つの交差点に過ぎない。

今というこの時代、この宇宙的なタペストリーの中で自分の役割に目覚めるのか、目を逸らすのか・・・その選択を迫られている。

傍観者でいられる人は誰もいない。

映画による感覚と現実との感覚がミックスされ、そんなメッセージのような不思議な感覚を覚えました。

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コメント

『ハリーポッター』は以前夢中になって読んだことがある。想像力がかきたてられたものだ。だけど、映画の方にはがっかりした。でも、あの映画から「傍観者でいられる人は誰もいない」と言うメッセージを受け取るのはヨガビならではだね。
思えば、凄い時代がやって来たものだ。待ち望んだ好機であり、とてつもないチャレンジだ。
僕は意気揚々としてる時もあれば、気が重くなることもある。はたして自分は、やって来る試練に耐えることができるのだろうか? と。

本を先に読まれた方にとっては、
映画になると難しいものがあるかもしれませんね〜。
活字の方がそれぞれの人の感性によって、
より自由なものであることができますもんね。。

でも本当にすごい時代なんだと肌で感じます。
瞬間瞬間に「自分が誰であるか?」を問われている気がして。
でも自分にそれを決められる自由があることが嬉しくもあります。

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