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2011年5月

富士山に見送られ

5月31日(月) 曇り by ヨガビジャ


これから小山に向かいます。car


Img_3193_3←今朝の富士山。

 ここのところ雨続きで
 富士山が姿を現したのは
 久しぶりだけど・・・

 生まれたてみたいに
 瑞々しくて初々しい。。

 なんだか思考の中にいると時間は連続して流れて
 るみたいだけど、一瞬一瞬は常に新鮮で新しいん
 だなあ・・・などと感じさせる今朝の富士山。

行ってきます♪^^

一番大切なのは?

5月24日(火) 雨のち曇のち晴れ by ヨガビジャ


昨日キヨタカが出掛けた後、掃除が一段落してホッと一息ついていると電話が鳴りました。


キヨタカ:サイフ、なくしちゃったみたい!

     2階を探してーーー!!! ヾ( T▽T;)ノ


よがび:またか…

    いったい無免許&一文無しで、どこまで行った・・・(−_−メ) 


2階にはないことを告げて一旦電話を切り、とりあえず庭から駐車場周辺を探すことにしました。
そして外に落ちていないことを確認して富士見荘に戻る道すがら、キヨタカが昨日本館に行ったことを思い出しました。

本館は鍵がかかっているので、とりあえず窓の外から瞑想ホールやソファーの辺りを覗いてみたら、ありました。
ソファー横、木のサイドテーブルの上に茶色い財布が。
まるで保護色で擬態してるかのよう。。

そのことをキヨタカに伝えると間もなく帰宅。
サイフを手に、再び出掛けて行きました。


二度目のホッ… (;-_-) =3


キヨタカといるとキヨタカに費やされる時間が多いこと。。

こういう状況は私の側からすれば腹を立てる正当な理由のように思えます。


***


さて、ここからが本題です。(今日の日誌は長いです…)


ここには選択の余地があります。

・私には腹を立てる正当な理由があるので怒って不機嫌になる。
 (自分は被害者であり相手は反省すべきという姿勢…)

・たとえ自分にとって正当な理由があっても、その怒っている状態と
 それによりもたらされるであろう今後の状況は、自分にとって望ましい
 ものではないので、この一件のことはもう忘れてしまう。

他にも考えればいくつかあるかもしれませんね。


それで、なにが言いたいのかといいますと、、、

自分の正しさを主張しすぎると、本来望んでいるもの(平和とか調和とか楽しさとかetc)を失ってしまうのではないかということです。


正しさって、本当にそんなに大切なものでしょうか?


だいたい正しさの基準というのは人それぞれですし、時と場合によっても変わりうる流動的なものではないかと思うのです。

そして人はそれぞれ他人の目にはどう映ろうと、自分自身にとっての正しさに則って生きているわけで、そう考え、そう行動するには、その人なりの理由と理解があるはずです。

ですから、その人とは異なった自分の正しさを主張し過ぎることは、その人の正しさを否定すること(間違っていると断定すること)に繋がるのではないでしょうか?
でも、そうされて気分のいい人はまずいないと思います。

そしてここから、お互いがお互いの正しさを主張する議論が始まります。
そこには平和や楽しさはありません。

そもそも、正しさは必ず1つだけなのでしょうか?

人それぞれの立場やプロセス、例えば子供には子供の理解による正しさがあり、大人には大人の都合や正しさというものがあるように、どちらが上か下かということでもなく、それぞれの正しさがあって然るべきだと思うのです。


問われるべきは、
「自分は<本当には>なにを望んでいるのか?」に尽きる気がするのす。


自分の正しさを相手に認めさせようとすることの裏には何があるのでしょう?

自分で自分に自信が持てないから人の承認や賛同が必要なのでしょうか?
パワーを感じたいのでしょうか?

でも、人の承認も曖昧で異なるものです。

人の承認を求めるような「在り方」をしていたら自分自身を消耗させるだけですし、ますます自分に対する自信を喪失し、自己価値を下げてしまいます。


先日レナード・ジェイコブソンさんのワークショップに行ってきました。

その中で私に一番ヒットして大切だと感じたことをシェアします。

レナードさんはこんな話をされました。(正確な言い回しではありません)


***

 
誰かが私を批判したとします。


私はそれを聞いていい感じがしないので、
「お願いですから、私を批判しないでください」と言います。


しばらくしてまたその人は私を批判します。私は、
「お願いです。私はそれを聞いていい感じがしませんから止めてください」


そしてまた同じ人が私を批判しました。
「お願いだから、私を批判しないでください」


こう3回言っても相手が同じことをするようでしたら、私はこうします。
 
 
「さようなら・・・」 (* ̄ 。 ̄)ノ 

          ( ↑ 絵文字はよがびのフィーリング)


***


相手に分からせる事は、そんなに大事でしょうか?

そこに多くの時間とエネルギーを注ぐことが、自分にとってそれほど価値のあることでしょうか?

他にもっと大切なことはないのでしょうか?


互いの間に同意点が見つからないのであれば、お互いを尊重して離れればいいだけのことです。

「ワンネス」という言葉が一人歩きをして、誰もが一つの正しさと同じ価値観を持つべき・・・というはのはなにか違う感じがします。

ハートが開いていたらどんな相手も受け入れるべき・・・それも違う。
(受け入れる…ということの表現方法も人それぞれだと思いますし)

誰をも何をも非難することなく、もっと大きな俯瞰的な視点で自分の周囲を含む地球全体を観れば、自分の目にはどう映ろうとすべては必然で起き、必然で起きないのだ、ということの理解が訪れるのではないでしょうか。

平面的なあれかこれかという限られた選択肢から、そこにもう一つの視点を加えより立体的なビジョンを持つことで私たちの意識はより拡大され、もう一つ別な次元へと上ることができる、そんな気がするのです。


長くなったついでに具体的な例をあげてみましょう。

「恩寵の扉が開くまでの」の1冊目で、キヨタカがHPの掲示板問題を話題にした時フーマンはこう語っていました。

あるネガティブな書き込みをするKという人物に対し、


『彼は自己の真実の道をブロックしているだけでなく、
 他の人が真実へ向かう事もブロックしている。

 ・・・略・・・

 彼に影響を受ける人が出てきても、
 彼らはそうあるべきなのだ。

 彼らの内にあるネガティビティが、
 Kのネガティビティに惹きつけられる。

 ・・・略・・・

 探求者の中で彼に影響を受ける人がいるとしたら、
 それは彼らの宿命なのだ。
 だからそうあっていいのだ』


私たちはこのような状況下においては、反射的に善し悪しを判断して相手に説得を試みたり、状況を自分にとっての正しい状況に変えようと奮闘します。

しかしフーマンは、もっと高く、より大きな視野で事の全体を観、あらゆる人たちが彼らなりの導きの中で学んでいることに絶対の信頼を持っていたように私には感じられました。


今、私たち一人一人がそのような視野を獲得しなければならない時だと感じます。

平面上で、あれか、これか、どれか1つを選ぶ時代は終わりました。

いえ、というより、、、

それを終わらせない限り、

地上には互いの正しさを主張しあうための争いは絶えず、

人類に未来はないと感じます。


あなたが一番望んでいることはなんですか?

そのために必要なことはなんでしょう?

私たちは無意識に、

誰もが望んでいない現実を引寄せているのかもしれないのです。


110524_002_3
←ほら、

 ネコだって

 より高い視野を獲得してる。。cat


 (ネコ用網戸は強い♪)

ラジオ体操

5月23日(月) 雨 by ヨガビジャ


急激な変化は誰でもすぐに分かるけど、少しずつの変化はなかなか気づきにくいもの。

私は近所の温泉施設でたまにボディケア(マッサージ)を受けてるのだけど、そこのかかりつけのお兄さんから、


 相変わらず、すごいですね〜♪
 毎日少しでいいから、肩や首をほぐすといいですよ♡

 ラジオ体操を続けるだけでもかなり違いますよ〜。(*^ 。^)ノ 


と言われ続けて、はや何年?

さすがに重い腰を上げ、
You Tubeでラジオ体操を見つけてウン十年ぶりにやったら、ね・・・
 
 
ラジオ体操って、こんなにハードだっけ・・・?(o; _ _)o
 
 
すると、こんな ↓ コメントがありました。


***

ラジオ体操を全力でやってごらん。
すさまじい疲れと翌日には筋肉痛が襲ってくる!
ラジオ体操・・・あなどれない!?

***


激しく同意。。

オマケに今はラジオ体操『第4』なんてのもあるんですね。
素人がやったら健康どころか身体を壊しそうだけど。

精神世界だけじゃなくてラジオ体操も進化してたんだ。。。


ま、自分の体力年齢の方は
退化の一途を辿っていた事が判明しちゃったんだけどね…( ̄- ̄; )

手放すにはあまりに惜しい!

2011年5月17日(火) 雨 by キヨタカ

 一ヶ月くらい前の日誌(4/20 火宅とは言うけれど…)に、下記のコメントが入りました。

* * *
修善寺は天国のような場所ですね
心底うらやましいです

こちら東日本では大震災で住居を失った方々が大勢います

そんな訳で、このたび僕も、仕事の宿舎を明け渡し、晴れて職場内での生活をよぎなくされるはこびとなりました。というのも、僕は独身、宿舎は3LDK、広すぎですよね

問題は半年前に購入したばかりの新品の家具の数々

一式そろえるのに30万円以上掛けました

手放すにはあまりに惜しい

現在、すべての借家は満員御礼、今後、どこかの借家が空くというわずかな可能性に賭け、これらの家具は、知り合いに預かってもらっておりますが、それでいいんでしょうかね?

この際、ボランティアと思って、誰か必要な人にくれてしまった方がいいのか悩んでいます

ハートの声に従えればいいのですが、ハートはなにも答えてくれません

よきアドバイスを・・・

* * *

コメント有り難うございます。

大震災大変でしたね。
私の実家は栃木県でしたので、それなりの被害がありましたが、東北地方の惨状を知ると本当に心が痛みます。
東海地震の発生確率は87%と言われているし、とても他人事ではありません。

広い宿舎を手放すのは残念でしょうが、とにかく無事に震災を乗り切れて良かったですね。

さて「高額の新品の家具をどうするか?」という事ですが、今私が実践中の「断・捨・離」を応用する事をおすすめします。
既にマスコミで何度も取り上げられていますのでご存知だと思いますが、これは元々ヨガの行法の概念を日常生活に応用したもので、非常に奥が深くかつ実践的で、瞑想とも繋がっています。
(提唱者の山下さんともお会いしましたが、とても聡明で素敵な方でした。)

根本原理はとても単純。
「もの」との関係を、「今必要か?」「自分にとって重要か?」という2つの視点から捉えます。
つまり、時間軸を「今」に、重要軸を「自分」に置きます。

瞑想で言う、「I AM」の視点と共通するものがあり、とても面白いです。

(1)時間軸について…

マインドは、過去か未来に視点があります。
ですからマインドで判断すると、「昔は必需品だった」「あの時役立った」「将来役立つだろう」という思いが入り込み、なかなかものを手放す事が出来ません。

しかし私が在る(I AM)のは、必ず「今」です。
「今」必要かどうか、で判断すると自ずと答えがやってきます。

(2)重要軸について…

また、その「もの」が「自分にとって重要か」で判断する事も大切です。

他の人にとっては絶対に手放せなくとも、「今の自分」にとってはもう重要ではない、というものが沢山あります。

どうぞ、シンプルに上記の基準に沿って、判断して下さい。

判断には自己責任が伴います。

捨ててしまってから、「やっぱり捨てなければよかった!」と思っても、どうかキヨタカや断捨離の先生の責任にはしないように、お願いします。

瞑想的には、「手放す事こそが瞑想のアート」と言えるでしょう。


…そう言う訳で、他人へのアドヴァイスはとても簡単です。
でもいざ自分の問題となると、断・捨・離はそれほど簡単ではありませんね。

例えば私の場合、数年前に○×の会に入会し、いつの間にかそこのセミナーの講師をする状況となり背広を何着か揃えました。
今はその会を退会したので、背広を着る機会はなくなりましたし、今後も背広は着る必要の無い人生を送ろうと願っています。

しかし、今は絶対に必要ではなく、自分にはもう重要ではない筈の背広が未だに処分出来ずにいます。

「手放すのはあまりに惜しい!」

そう叫んでいるのはマインドなのですが…。

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ブラックスワン -光と闇-

5月12日(木) 雨 by ヨガビジャ

映画「ブラックスワン」について私の感じた事を書こうと思います。
実際は映画の感想というより自分の感じた事を映画のほんの一部を使って書いているだけなのですが。(ネタばれあり)

一般的にホワイトは光や善、ブラックは闇や悪を連想しがちですが、この映画を観るとそんな単純なものではないと感じました。

主人公のニナは母親との関係が彼女の人格形成に大きな影響を与えているとはいえ、完璧さと緻密さ、純粋さを兼ね備えたホワイトスワンをそのまま象徴するような女性。
対してプリマを勝ち取ったニナの代役となったリリーは、ニナとは対照的に豊かな生命力と女性としてのセクシーさを合わせ持った自由奔放な女性。

そんなリリーに、ニナはプリマの座を奪われる怖れと同時に、ブラックスワンを演じることができないプレッシャーにより徐々に精神を病んでいきます。


人は誰にも、光と闇の側面があると感じます。

ニナはこれまで光の側面だけで生きてきましたが、ブラックスワンを演じることで経験のない闇の側面を表現しなければならなくなりました。
いえ、実際ニナには闇の側の経験がなかった訳ではなく、それを避け見ないように抑圧していただけでした。
そのことは母親とのやりとりの中で描かれています。
彼女は大人の身体を持った12才の少女のままでした。


ここから先に進む前に・・・
私にとって、光はより神聖なるもの、進化へと駆り立てるもの、崇高さ、純粋さ、上へと上昇するもの。
闇は人をこの地上につなぎ止め、生存に関わる、より原初的に存在するもの。私たちを現状へと引き止める。自分を守るもの。

人間はその狭間で、揺らめき戸惑う存在のように思われます。
それが、人は神と動物の間の存在と言われる所以。
人は相反するこの矛盾と微妙なバランスの中で生きているのではないか?


ニナは自分の中の闇を受け入れることができなかった。
彼女は純粋で完璧でありたかったがために、闇を怖れ闇を排除したかった。

それは公演初日、ブラックスワンの衣装で楽屋にいたリリーを(彼女の幻想の中で)殺してしまったことで描かれている。

しかし最期の結末で血を流していたのは、ホワイトスワンの衣装を身にまとった彼女自身だった。

彼女は自分自身の半身を拒絶することで、自分自身を殺してしまった。


闇は原初的な生命エネルギーの根源なのではないだろうか?
それを受け入れられなかったニナは、純粋で繊細だけど億病で活き活きとはしていなかった。


「マトリックス」以降、闇と光の関係について考えさせられる。

闇と戦うことでは解決はなにも見いだされない。

そもそも闇という概念自体、光に囚われた者の見方に過ぎないのかもしれない。当然その逆もまた然り。

闇と光のどちらにも捕われないものにとって、それは意味をなさない。
その状態を統合とでも言うのだろうか?

そんなかすかな予感だけはあるが、今の私にとってそれは明確に断言できるものでもなく曖昧な靄がかかったままだ。
その居心地の悪さの中に今は潔くいようと思う。

この映画では、ニナは死んでしまった。
あれだけの経験をしたニナが、ホワイトとブラックを合わせ持った大人の女性として、また芸術家としての人生の終止符をうってしまったことが残念でならない。統合されたその後の彼女が見たかった。

それが、この映画を観終わった後の後味の悪さだと気づいたのは随分時間が経ってからだ。
そして今これを書き終えて、統合されたその後とは自分の生の中で知るべきなのだと感じた。

ブラックスワン

2011年5月11日(水) 雨  by キヨタカ

 ゴールデンウィークリトリート後、東京でレナードさん関連のイベント等で多忙が続いたが、今日はヨガビと映画「ブラックスワン」を見に行った。

Photo


主演ナタリー・ポートマンの迫真の演技には圧倒されっぱなしで、アカデミー主演女優賞に輝いたのも当然だろう。

純真無垢なヒロインは、「ホワイトスワン」を踊るのを得意とする。
しかし「白鳥の湖」の主役に抜擢された彼女は、官能的で邪悪な「ブラックスワン」も踊る必要があり、自己の内面に封印されていたダークサイドに直面して行き、やがて精神崩壊へと突き進み始めて…。

ネタバレ防止の為、これ以上は書けない。
ぜひ劇場で見て欲しい。
R+15指定とある通り、性的描写やサイコスリラー的要素もあるので万人受けする映画ではないが、「覚醒」を求める方つまりこの日誌を読んでいるあなたには是非見る事をお勧めする。

人は誰もが官能的で邪悪な部分、つまりブラックスワン的要素を持っている。

しかし私の様に真面目で純粋な人程(…今の私を見ると信じられないだろうが、30年前の私は本当に真面目で純粋であろうともがいていた)、ブラックスワン的要素を抑圧し潜在意識の奥底へと封印してしまう。

しかしこのブラックスワンこそが潜在エネルギーの宝庫であり、このエネルギーを封印してしまうと、我々は社会にとっては安全だが去勢された家畜の様な人畜無害の人生を送るはめに陥る。

我々は、本来無限のエネルギーを内面に携えている。
一般社会にとっては不都合な真実を生きる反逆者であり、古い人類が創り出した既成の価値観を破壊し新しい人類と新しい世界を創造する先駆者として生きる力を秘めているのだ!

どうやってこの封印されたブラックスワンを安全に解放して、そのエネルギーをより高い次元へと上昇させるのか、それこそがスピリチュアルワークであり、愛と瞑想が重要な鍵となる。

この映画では、ブラックスワンが解放され芸術的創造性への飛翔と同時に狂気へ陥る危うさが見事に描かれている。

舞踏家のニジンスキーや作家のニーチェ、画家のゴッホ等々、芸術と狂気は紙一重である例は多い。

無意識にブラックスワンを解放すると、狂気と破滅に陥る危険性が大いにある。

愛と瞑想性を携えてブラックスワンを解放すると、無限の創造的エネルギーに満たされてホワイトスワンは新しく再誕生するのである。

私は私で在る(I AM)

2011年5月10日(火) 曇り by キヨタカ

 ゴールデンウィークリトリート終了後、休む間もなくレナードさん関連のイベントに参加、昨日雑誌(スター・ピープル)の対談を済ませた。

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レナード・ジェイコブソンさんは、オーストラリア人で現在はアメリカで活動中の”覚者”。
日本ではまだ無名だが、西洋では知られており、英語版の本やDVD等が多数出版されている。

ゴールデンウィークリトリートの直前に、彼を招待したナチュラルスピリットから雑誌の対談依頼を受け、著書が送られて来た。

リトリート中に本を読むわけにもいかず困っていた所、リトリート直後に予定されていたレナードさんのワークショップに招待され、その体験を踏まえての対談となった。

数年前に「自己の光を唯一の拠り所とする」事を決意して以来、外側の覚者を探す事は一切止めた。
しかし自分からは求めなくとも、こうした形で”覚者”との出逢いが続いている。
これぞ恩寵の導き以外のなにものでもない。
感謝、感謝。

10歳年上で自分の兄貴分の様な親しみ易さがあり、しかも実はOSHOの影響をかなり受けた人だったと対談中に知り、とても楽しかった。
私個人としてはもう少し深く突っ込んだ話にしたかったのだが、雑誌の性格上やむを得ないと思う。
対談終了後、ナチュラルスピリットの社長のIさんから「とても良かった」と言われた。

しかし対談の間中、自分の立ち位置に関する違和感を感じた。
実はレナードさんから話を引き出す為に、敢えて探求者の立場に立ち「まだまだ覚醒の途上なのですが…」というスタンスでの対談となった。
あらかじめその事をレナードさんに伝えた筈だったのだが、対談中にレナードさんが私に個人セッションをする状況が起った。

本当は、自分はもう探求者の立場にいない事を知っていて、探求者のゲームを演じる事に辟易している部分がある。
しかしその事にこだわると、対談の流れが止まってしまうので、あえてゲームを演じてしまった。

だから、違和感を感じたのだ。

しかし”覚醒”の方へ完全にシフトする事をためらわせるものがあった事は事実。
だからこそ、対談中に個人面談みないな状況が起ったのだろう。

瞑想会を自分でリードしながら、ここ数年私の中に大きなジレンマがあった。

自分の光は、仏陀やキリスト等の偉大なマスターの光に比べて取るに足らない感じがあり、これをシェアしたからといってどうなの?という思いにしばしば苛まれていた。

自分がどんなに”覚醒”しても、「仏陀やキリストやフーマンの境地からは程遠く、本当の覚醒はまだまだ先だ」という思いが消えず、「またアジズ(アナディ)のリトリートにでも行こう」と、魂とは裏腹のマインドの声が聞こえてくるのである。


しかし今回レナードさんと接する事を通して、”覚者”とか”覚醒”に関する余分なイメージが払拭された。

”覚醒”とはシンプルに”今ここ”に私がある(I AM)事に目覚めている事であり、本来の自然な在り方に過ぎない。
私が”覚醒”しても、仏陀やキリストやフーマンになれるわけではない。

同じ様に、仏陀やキリストやフーマンが覚醒しても、キヨタカになれるわけでもない。

私が”覚醒”したら、シンプルに私が私で在る(I AM)事に過ぎない。


なんとま〜、当たり前の事だろう。

”覚醒”とはこんなにも簡単な事で、”覚者”とは、このあまりにも当たり前の、私が私で在る(I AM)事だったとは!

恩寵の不可思議な計らいによる、レナードさんとの新たな出逢に、感謝と喜びの余韻に浸っている。

明日からリトリート

5月2日(月) 晴れ by キヨタカ

 今リーラスペースは一年で最も花々の美しい季節を迎えている。
オオテマリ、コテマリ、ハナミズキ…

明日からは、リーラスペースでリトリートが行われる。
自然の花々の美しさに誘われて、私達も魂のユニークな花々をそれぞれに咲かせるだろう。

今回は、震災の影響で参加者限定のリトリートとなった。
参加をお断りした方もあり、申し訳けない。

7月には、通常のリトリートを開催する予定です。
お楽しみに!

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