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"これ"とは?

2011年7月27日 雨 by キヨタカ

「"これ"で一切がととのう!」

最近私がしみじみと感じ入って、一人悦に浸っている心境である。

フーマンは、私へのセッションで何度も"これ"と表現しているし、OSHOには、「"これ " "これ" "これ"千回も"これ"」と言う決めゼリフがあった!

しかし、知的アプローチが必要な探求者にとっては、"これ"だけでは到底納得がいくまい。
さらに"これ"と言われても、ダイレクトな伝達なしでは受け手はどの様にでも解釈が可能であり、正しい理解は起こるまい。

そこで、古来より"これ"に対する様々な言葉が使われている。

悟り、仏性、真実の自己、アートマン、神の分霊、魂、真我、大いなる自己、大我、無空、無我、純粋意識、等々様々な言葉が思い浮かぶ。

しかし、こうした美しい言葉には大きな罠が潜んでいる。
それをどんなに正確に語ろうとも、あるいは雄弁に美しく語れば語るほど、聞き手はその言葉が約束する特定の境地を連想する。
そして、"これ"を求めて達成すべき未来を創り出してしまう危険性だ。

「悟り」とは「今」にある事を耳にタコが出来るほど聞いても、悟りの境地を追い求めて修業に邁進し、あるいはあれやこれやのセラピーやワークショップに出続けて、未来の境地を探し続ける。

「悟り」とは、何とも罪作りな言葉だ。
他の言葉も、似たり寄ったり(~_~;)

釈迦といふ いたずらものが世にいでて
おほくの人を まよはするかな

と詠んだ一休禅師の洞察に、我が意を得たりgoodの思いだ。

「おほくの人をまよはす」くらいなら、いっそのこと「悟り」やその類の言葉を一掃してしまったらどうか!?

でも、それに変わる言葉として、"これ" "これ" "これ"では、あまりにも味気ない。

そこで、私の体験上最も実践的で役に立つ言葉を紹介しよう。

それは、「I AM(私は在る)」と言う言葉だ。

「私は悟っている」と言っても、誰も信じないだろうし、かつての瞑想仲間からは笑われるか石でも投げられるのがオチだ。

けれども、「私は在る」はどうか?
誰もが私の実在には同意するし、それは未来ではなく、「今、ここ」で成就している。

「私が在る」事には、それに先立つ条件がない。
私が善人でも悪人でも、金持ちでも貧乏でも、努力家でも怠け者でも、子供でも老人でも、健康でも病人でも、「私が在る」と言う実在は、微動だにしない。

これ程端的に真実をダイレクトに表す言葉は、他に見当たらない。

実に奥が深い言葉だ。

しかも、非常に古い言葉でもあり、旧約聖書の中で(『出エジプト記』第3章第14節)既に登場しているから、驚きだ!

実のところ「私が在る」とは、この世で最大の奇跡なのである。

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コメント

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          こ れ          

僕も今、ひたすらI AM に取り組んでいます。

最も身近で当たり前であるゆえに、かえって見落としている「私は在る」。

進化も深化もある垂直の次元の私(I)の探求は、延期したり欺瞞に陥ることのない確かなプロセスだと思います。

まあくん

熟睡中も、「私は在る!

ナラヤナさん

生まれてから死ぬまで、同じなのに、進化も深化もある!
実に神秘的ですね。
全生命を捧げる価値があります。
共に取組んで行きましょう。

この確かな道を歩めるのも、キヨタカの本と恩寵の御蔭です。

願わくは、目覚めのエネルギーが加速度的に活性化しているこの時代、さらに多くの人々が、この光の恩恵に与れますように。

色々と紆余曲折はありましたが、これとともに在る、ということこそが本当に意義のあることだと段々わかってきました。まだぶれることもあるかもしれませんが、これをしっかりと定着させていきたいです。

私は、睡眠中は完全にスペースアウトしてしまっていて、「私は在る」の感覚はありません。

キヨタカには、それがあるのですか?

睡眠中どころか、わたしには目覚めているときでさえ「私は在る」の感覚がない。
わたしはマインドの「考え」「思い」という過去のデータで再構築したものしか捉えていない。

それにしても、この胸のこのあたりにある「この感覚」はなんなのだろう。
喜びと愛と満ち足りた幸せがジンワーリと湧き出してくるような感覚はなんだろう。

「いま・ここ」に在ることができるならと・・・
今この瞬間と、この胸のあたりに現れている「これのようなもの」に注意を最大限向けて、
意識をバキバキにしてみる。

う~む。
疲れる。
こんなこと、意味ないな・・・と思った。

とりあえず、このポワポワした感じの「これのようなもの」がここにあるだけで、
あとは待つことにしよう。

う・・・「これのようもの」ってやつは、ときどき絞り出すような切なさに変わることがある。

「これ」は「これのようなもの」とは違うのだろうか?
「これのようなもの」に酔ってるわたしは、
そう、はぁ~みたいに酔っているわたしは、
妄想の中にあるのだろうか。

「これのようなもの」は一体なんなのだろう。
自分では明らかに「これ」ではないんだろうと思っているのだけれど・・・。

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