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月と太陽

2011年11月9日(水) 曇り by キヨタカ

 今日は曇りで、富士山は見えない。
でも富士山は、雲の背後にリアリティとして始めから凛として存在している。
だから山岡鉄舟は、富士山を真我に例えた次の名言を残した。

 晴れてよし 曇りてもよし 冨士の山
  もとの姿は 変わらざりけり

この詩を読んで、直ちに雲(マインド)から富士山(真我)へと自己の同一性をシフト出来る人は幸いだ。

しかし、大抵のマインドは密かに呟く…

 「…理屈はわかるけど、でもやっぱり晴れた日の富士山の方がいいに決まってるよ!」

そして雲(マインド)を晴らすべく、あれこれと画策をし続ける。

そうするとエネルギーを雲に注ぎ続ける事となり、富士山は相変わらず雲の背後に隠れたまま、未来に顕われるであろう富士山を追い求める事になる。

本人は真剣にスピリチュアルな道を歩んでいるつもりなのに…マインドというマトリックスから脱出する事が出来ない。

マインドとは実に巧妙だ。

ところで先日、本棚を整理していたら、ふとラマナ・マハリシの下記の文章が目にとまった。

月をマインド、太陽をハートとしたアナロジーは、実にシンプルでダイレクトにハートに響いた。

* * *

月は太陽の光の反射で輝く。
太陽が沈んでしまうと、月が対象物を照らし出すのに役立つ。
太陽が昇ってしまうと、まだ空には月がかかっていても、
誰も月を必要としない。

マインドとハートの関係はそのようである。
マインドは、その反射された光によって役立つようになる。
それは対象物を見るために使われる。

マインドが内面に向けられると、
光明の源が自ずと光り輝き、
マインドは昼間の月のように役立たなくなる。

    〜ラマナ・マハリシの教え P106より〜

* * *

何から何まで 真っ暗闇よ
右を向いても 左を見ても…

と鶴田浩二の歌の様に、人生に苦悩し、もがき苦しむ事は実は悪い事ではない。
今の人生のままでは暗闇だと気づいて初めて、人は光を探し求め始めるからだ。

そうして真剣に探した人は必ず、一条の光を見出すだろう。
それが優れた本や教典やマスター達の教えとの出逢いだ。
そうした教えは、真っ暗闇だった人生に大いに役に立つものとなる。
ちょうど、暗闇を照らす月の様だ。

しかし月はそれ自身が輝いている訳ではない。
だから、月を照らす太陽を崇め奉らざるを得ない。

しかし本当の覚醒とは、自らが太陽となって光明燦然と輝く事だ。
するとマインドは、その力を失いどうでも良くなる。

それは、マインドに働きかけたからではなく、太陽が昇ったからだ。

光と闇の戦いとは、文学や映画でおなじみのテーマだが、実は光と闇とは本質的な違いがある。

光と闇とは共存出来ない。

どんなに深い闇でも、ローソク一本の光を照らせば闇は消え失せる。

闇は、光の前では全くの無力となる。


今、私達一人ひとりが、太陽として輝く時代が到来しつつある!
そしてそれが、またたく間に地球全体へと広がって行く!
そんな予感がして、ならない。

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コメント

勇気百倍。 ありがとう!

白隠禅師のころ、庵原(いはら)に山梨平四郎という人がいたそうな。
庵原は、今の東名清水インターから程近い小さな山里。
この人、「仏ほっとけ」というような仏教ぎらいで、瞑想も何もしたことがなかったのですが、ある日誰かが次のような仏教のスートラを読んでいるのを耳にしました。

勇猛の衆生の為には成仏一念にあり
懈怠の衆生の為には涅槃三祇に亘る
 
トータルで勇敢な瞑想者は、わずかこの一念でブッダとなる。
グズグズと煮え切らない瞑想者は、永遠の間瞑想しても覚ることはない。

色々人生に思い悩んでいた平四郎さんこれを聞いて、よしそれならというので決心し、日が暮れると浴室に閉じこもって猛烈な坐禅を始めたということです。

記録には次のようにあります。(意訳)

マインドに侵されては取って返し、また侵されては取って返し、目を見開き気力をふりしぼって座っているうちに、やがて大三昧の中に入り込んで行く。自分では何が起こっているのか皆目わからない。というか自分というものを探すのだがどこにも見つからない。ただただ歓びがこみあげてくるのみである。気がつくともう夜が明けようとしていた。
あまりに不思議なので、次の晩にも同じようにやってみると、程なくしてやはり同じ境地に達した。朝をむかえて外に出てみると、見るものすべてが何やら尋常ではない。
驚いて、菩提寺(一乗寺)の和尚さんをたずねたが、そんなことはワシにはわからないから、原(今の沼津市)の白隠さんのところへ言って訊ねてみなさいという。
そこで白隠さんのところへ向かったのだが、その途中サッタ峠から駿河湾を見渡すと、草木国土悉皆成仏、全てが光明を放っているように見える。
(サッタ峠は昔の東海道。今は東名が真下を通る崖の上にあり、車がやっと一台通れるだけの細い道です。)

さすがの白隠禅師も、彼に面会して驚愕したということです。一夜にして大悟していたのです。
この伝説は今でも禅門で語り継がれ、十二月の接心(リトリート)になると、修行者たちを鼓舞し続けています。

この話には、他にも面白いエピソードが付属しているのですが、さすがにもう止めましょう。

わずかに一念でブッダになるというこのトータルさはいったいどういうものなのでしょう。
それを論じたかったのですが、今日はもう疲れました。

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