あと2時間
2011年12月31日(土) 晴れ by キヨタカ
今年も、あと2時間足らず。
実に様々な出来事がありましたが、過ぎてしまえばみな夢の如し。
来年もまた宜しく!
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2011年12月31日(土) 晴れ by キヨタカ
今年も、あと2時間足らず。
実に様々な出来事がありましたが、過ぎてしまえばみな夢の如し。
来年もまた宜しく!
2011年12月29日(木) 晴れ by キヨタカ
あなたは真我だ、仏だ、神の分霊(わけみたま)だ、と言われても、最初は信じられない。
周囲の人々を見ても、自分を見ても、煩悩丸出しのエゴの塊だけが見える。
しかし、ちょうど昼の星の様に、「見えぬけれどもある」のである。
正しい時節が到来すれば、やがてそれは誰の目にも明らかになる。
…しかしまだ時節が到来する前にそれに気づいた人は、眠りこけた人々には思いもよらない苦悩を味わう事になるのだろう。
大正末期〜昭和初期に活躍しながら26歳という若さでこの世を去った金子みすゞ
の詩を読みながら、今という時代に生まれる事の出来た幸せを噛み締めている。
<星とたんぽぽ>
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
散つてすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春がくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
<私 >
どこにだって私がいるの、
私のほかに、私がいるの。
通りじゃ店の硝子のなかに、
うちへ帰れば時計のなかに。
お台所じゃお盆にいるし、
雨のふる日は、路にまでいるの。
けれでもなぜか、いつ見ても、
お空にゃ決していないのよ。
〜『金子みすゞ全集』(JULA出版局)〜
2011年12月28日(水) 晴れ by キヨタカ
母が「ギックリ腰」で寝たきりとなったため、例年より早く帰省し、今は実家に滞在中。
母の症状は予想通りかなり悪くて、一人でトイレに行けない。
特に夜中に何度かトイレに行く必要があり、その都度介護が必要なため、「ナイト・プラクティス」を実践する事態となっている。
私がインドでアジズのリトリートに初参加したのは、今から11年前。
当時は「ナイト・プラクティス(Night Practice)」と言う、非常にパワフルな瞑想が行われていた。
これはリトリート中に夜の瞑想が終了後、就寝中の真夜中の午前2時頃に起きて瞑想ホールに集合し、30分程度瞑想して、また就寝するというもの。
睡眠を強制的に中断して目を覚ます事により、マインドという夢からの目覚めを加速化させるテクニックだ。
確かに非常にパワフルで、エネルギー的にも異様にハイになる。
しかし、不眠症や身体的不調等の副作用が起る弊害もあり、アジズは数年後には中止してしまった。
ナイト・プラクティスを始めとして極端な修行系の瞑想は、未成熟な果実を無理矢理もぎ取る様なものだ。
例え覚醒が早まったとしても、結果的にその人の成長が歪んでしまう可能性がある。
ちょうど熟した果物が自然に木から落ちる様に、瞑想という果実もなるべく自然な形で成熟させる方が望ましい。
特にフーマンは、そうした修行は「探究者のエゴを助長してしまう」と警告していた事もあり、ナイト・プラクティスはあれからやっていない。
しかし、今回は思わぬ状況で、ナイト・プラクティスが復活したのである。
全て起る事は必然であり、この世に偶然はないと言う。
今夜も、何度かナイト・プラクティスを行う事になるが、私にとって必要な事と肚をくくり、楽しもうと思っている。
2011年12月25日(日) 晴れ by キヨタカ
メリークリスマス!
震災の影響で、今年のクリスマスイブは家で過ごす人々が8割という話だそうだが、私達は毎年近所の喫茶店でケーキとコーヒーを飲んでおしまい。
最近はダイエットに精進しているのでケーキもなしにしようと思っていたが…
ダイエットの反動も怖いので、体重が12キロ減ったお祝いを兼ねて、今年はシャンペンとシュークリームを買って、家でお祝いした。
ついでに軽いノリの映画を見ようという事になり、ディズニーSFファンタジー映画「トロン・レガシー」をレンタル。
1982年の映画の続編だそうで、子供向けの内容とばかり思っていたが、コンピューターゲームとは全く無縁の人生を歩んで来たせいか、ストーリーについて行く事にちょっと苦労した。
ヨガビは「攻殻機動隊」の大ファンで、この手の話は大好き。
だから時々ヨガビの解説入りで、最後まで楽しむ事が出来た。
ディスクを投げ合って試合をする感覚なんかがよく解らず、「なんで銃や刀などの武器を使わないの…?」とヨガビに質問して、呆れられた。
どうも、最近の若者の感覚とはかなりのズレを感じるのは、私の歳のせい?
歳をとっても、頭が固くなっても、…にもかかわらず私は在るという事で、クリスマスイブを楽しんだ。
12月24日(土) 晴れ by ヨガビジャ
今日、本館の瞑想ホールのガラスに当たって墜ちたらしい鳥が1羽いました。
ウグイス色の鳩みたいです。(あとで調べたらアオバトという鳥らしいです)
私の足音を怖れて飛び立とうとしますが、ジャンプしてはすぐに落ちてしまいよろよろと歩いて遠ざかろうとします。
どうも右の羽根と足を傷めているように見えるのですが、このままではノラネコに襲われてしまうかもしれず、とりあえずそっと捕まえて手で包むようにヒーリング(?)していましたが、しばらくしたらやはり逃げようとします。
あまり逃げたがるので傍らにあったテーブルに置いてあげたら、パタパタと2、3メートル飛んでまた地面に降りました。
とりあえず、この鳥の意志を尊重してそのままそ
っとしておくことにしましたが、念のために遠隔
でヒーリング波動を送り(送れてるのかは不明)
あとは(普段そんなこと思いも寄らないけど)
精霊や妖精に「この子のことお願いね♪」と言っ
てその場を離れました。
数時間後、もうそこにはいないことを願いつつ
戻ってみると同じ所でうずくまっていました。
陽は傾いてくるしこのままにはできなくて、一旦箱に入れて富士見荘に連れて行き暖めてお水をあげることにしました。富士見荘の玄関に着いて羽にのっている落ち葉をとってあげようとしたら、私の手を口ばしで突つき警戒心からか抵抗します。
実は夕べ「4つのいのち」という映画を観ました。
放牧をしているおじいさんがある朝亡くなり、同じ朝おじいさんのやぎの群れで子やぎが生まれ、成長したその子やぎは初めての放牧で迷子になって大きな木の根元で短い生を終える。その大きな木は村の祭りのために伐り出され、祭りが終わると炭になって村人に家へと運ばれる。
これだけのことを一切のセリフはなく、長閑な小さな村の景色や自然の映像だけで淡々と語られていました。人間、動物、植物、鉱物(炭)という4つの命を通して、すべての生命のつながりを描き出す映像詩というのでしょうか。
この映画を観たせいもあるかもしれませんが、今目の前の鳥が私を警戒する姿に生命としての尊厳のようなものを感じました。
死は生の一部にすぎない。
いいものでも悪いものでもない。
生にしても死にしても、
この鳥が怖れることなく穏やかでいられますように
という想いがやってきました。
可哀想という想いは傲慢なのかもしれない…
富士見荘からそっと見守っています。
2011年12月23日(金) 曇り by キヨタカ
今年90歳になる母が昨日ぎっくり腰になったそうで、母の様子を見るために年末の帰省が早まりそう。
肉体的に衰えているので、踏み台を使って高い所へ昇ったり、重いものを持ったり、無理な旅行はしない様に等々と、口癖の様に伝えているのだが…
今回は重い石油ストーブを物置から運んだのが原因。
母がいつまでも元気でいれる様に、「頼むから〜しないで」とお願いすると、決まって「〜」をしてその度に怪我したり病気になったりして病院通いをしている。
母親が子供に対して、「〜するな」というと、子供は決まってそれをしたがる傾向があるが、母の場合その逆バージョンである。
母の事でこの先の予定が立てにくくなりつつあるが、この歳になってもまだ親孝行が出来る状況を、シンプルに有り難いと思う。
2011年12月22日(木) 曇り by キヨタカ
今日の天気予報では、午後から良い風が吹くとの情報だったので、沼津の海へ行く。
久しぶりのウェブ・コンディション(強風で高波の状態)となり、喜々としてウィンドに興じた。
途中で風が強まった為、セールを小さいもの(4.1m2)に張り替えた所、抜群に走る!
調子に載って普段は行かないずっとずっと沖の方までカッ飛んで行ったところ、さらに風が吹き上がり波ももっと高くなって、帰るに帰れない!!
何度ボードに乗っても、強風で飛ばされてしまう。
ウィンドと言えば、御前崎。冬は強風と高波が毎日吹いて、ウィンド・サーファーの聖地だ。
いづれ御前崎に行こうと思っていたが、この技量では行かないでホント〜に良かった。
もし御前崎だったら、確実に溺死していたと思う。
幸い沼津は3方が湾に囲まれていて、流されてもかなりの確率で岸へたどり着く。
だから安心して高波に揉まれ続けていたが、「死ぬかも?」と言う思いが頭をよぎった。
私は死ぬし、あなたも死ぬ。
人間は誰でも必ず死ぬ。
自分が死に臨んで慌てふためかない様に、今から準備して置く事は非常に大切だ。
さて問題は、どの様な死を迎えるか、なのだが…
フーマンの影響もあるが、「海で死ぬ」と言うのは、私の憧れる選択肢の一つ。
荒れ狂う波を漂いながら、ハワイのミュージシャン、IZの歌「Somewhere Over the Rainbow」が頭の中を流れた。
ターコイズブルーの海と真っ白な砂浜とヤシの木の緑と…空には虹がかかって…そのまま昇天したい気分に駆られた。
…しかし、ここは真冬の日本で、沼津の海岸はゴミでいっぱい。
ハワイの白い砂浜ならいいけど、沼津の海岸で昇天した我が輩の姿はどうも美的センスに欠ける。
それに、まだまだこの世でやり残した事がある。
気を取り直した私は必死でボードにしがみついて、なんとかゴミと一緒に無事海岸へと打ち上げられた。
お陰で、道具も身体も砂だらけにゴミだらけ!
いやはや、生と死は表裏一体だという真実をちょっぴり垣間見る事が出来た一日だった。
しかし、今日はいつにもまして「生きている」という充実感に溢れている。
自分が死ぬ事をほんの少しでも意識すると、より生が充実して輝き出す様だ。
ただ生きているだけなのに、生命は輝いている。
ただひたすらに、有り難い。
2011年12月21日(水) 晴れ by キヨタカ
昔、小指を突き出して「私はコレで会社を辞めました!」と言うCMがあったが…
私はコレ↓で会社を辞めた。
「グルジェフの注目すべき人々との出会い」という映画である。
若きグルジェフの探究遍歴を描いたもので、生死を賭けた不屈の探究の末に遂に目指す伝説の秘密教団であるサンムルグへとたどり着く。
部屋の中に案内されると、教団のリーダーと思しき人物が待ち構えていて、グルジェフの目をしばらくじっと見つめた後でおもむろに語りかける。
その場面が痺れるくらいにジーンと来て、私もグルジェフみたいに秘密教団へ参入すべく会社を辞める決意をしたのである。
今でもそのシーンが脳裏に焼き付いている。
リーダー:とうとう、この場所を見つけたね。
君は、子ヒツジの様にやって来た。
しかし君の内にあるオオカミも忘れるな。
この2つの相反する力(フォース)を、君のうちに共存させる事が
可能かね?
いいかね。
ただその事を考えたり夢見たり待ったりしてもダメだ。
オオカミはいつヒツジを襲うかも知れない。
そして責任を持つという意味を学ばなければならない。
これは精密科学だ。
それを学ぶ為に、あなたはここへ来たのだ。
昨日の日誌では、この2つの力は「サヌキとアワ」として紹介したが、グルジェフは「オオカミとヒツジ」と表現している。
当時の私にとって、サンムルグ教団に相当する場所が、オレンゴンにあったOSHOのラジニーシプーラムであった。
東京都23区くらいの広大な敷地で、私にとっては夢の様な場所で、グルジェフのスクールに相当する様々なプログラムが用意されていた。
片っ端から様々なプログラムを受け続けた私は、ある日ティアサと言うカリスマ性豊なリーダーと対面する。
ティアサは、ちょうどあの映画のリーダーと同じ様に、私が部屋に入ると待ち構えていて、私の目をしばらくじっと見つめた後でおもむろに語りかけた。
ティアサ:君はさぼっている。
キヨタカ:いえ、私は全力でやってます。
ティアサ:いや、君は関係性に入る事をさぼっている。
キヨタカ:私は世俗的な事よりも、本当の愛を知りたいのですが…
ティアサ:女性の一人も愛せないあなたが、神を愛せる筈が無い。
神を見つける前に、まずガールフレンドを見つける事から始めなさい!
グルジェフへのサジェスチョンとは、雲泥の差がある。
グルジェフの場合、オオカミは既に結晶化されていた。
しかるに私の場合、オオカミは完全に抑圧されていてガールフレンドも見つけられない程オオカミの部分が去勢されていた。
だからまずオオカミのパワーを取り戻す事から始める必要があったのである。
そのために随分と遠回りをしてしまった様に思うが、この相反する2つの力を十分に知り尽くして始めて、共存させ統合させる事が可能になるのだ。
やはりそのための時間が必要だ。
「急がば回れ」である。
2011年12月20日(火) 晴れ by キヨタカ
私が瞑想カウンセリングを行っているやまねの家には小さな図書室がある。
もともとは単なる小部屋で事務室になっていたのだが、「ここに本棚を置いて皆が気軽に寛げるスペースを創ったら…」とヨガビがオーナーのSさんに提案したら、本当にそうしてくれた。
おまけに本の貸し出しまでO.K.
そこでさっそく、「<サヌキ・アワ>のサトリについて」という風変わりな本を借りた。
詳しい事は知らないが、カタカムナの研究で有名な楢崎皐月のお弟子さんが書かれた本らしい。
サヌキ・アワとは、上古代史(古事記より前の時代で旧辞や本辞などが書かれたとされる時代:縄文時代以前の旧石器時代末期)の研究から導かれた性格分類の一種で、非常に大雑把に概説すると、サヌキ=男性原理、アワ=女性原理に対応している。
いきなり本書の冒頭から、対象となる読者は世の「少数者」であり「アワ性の強い者」という条件つき、と書かれている。
少しばかり高慢な印象も受けるが、しかし世の「少数者」と言われると、ついその仲間なのではないか?と思ってニンマリしてしまう。
私は28歳で会社を辞めるまでは、違和感を覚えつつもなんとか頑張って世の「多数者」の価値観を生きて来た。
しかし、OSHOと出逢ってからは、ついに「少数者」の道を選び始めた。
それからと言うもの、いつも気がつくと「少数者」の方を選んでいる。
正確に言うと、私のサヌキ的マインドは拡大路線を指向して「多数者」の方へ歩もうとそれなりの努力をするのだが、結局は「少数者」の道を歩まされる事になる。
元来アワ的性質が強いので、それを補うべくサヌキ的な力を持とうと頑張るのだが、結局は自分の本性には逆らえない様だ。
数年前、私は魂を現象世界で生きる事(天命)を意図して、○△×の会に入会した事がある。
その時に、私の事を非常に憂いてこの会の参入に強行に反対したのがSさんだった。
その時にSさんが持ち出した論理が、この「サヌキ・アワ」の概念だった。
Sさん曰く、潜在アワ量の少ない「サヌキ型人間」は、知能のよい者ほど、現象界の役割を果たす為の欲望追求に忙しく…そうした人々の中にいると私は魂の道から外れる…という様な話を延々とされた事を覚えている。
私の方は、瞑想に興味を覚える人々はアワ的要素が強過ぎて、現実社会のお荷物になっている様な人々が多い事を憂いて、この会へ入会する意義を説いたと思う。
数年後の結論はと言うと…、結局のところ「サヌキ型人間」の集まりには馴染めず、退会してしまった。
そして相変わらず「少数者」の道を歩んでいる。
もっとも以前なら、「歩まされている」という感覚だったが、今は「少数者」の道を歩むのを楽しめる様になった。
(いづれ大勢の人々がそれに目覚めて欲しいという願いはあるが…)
ところで、サヌキとアワについてググっていたら、性格診断サヌキとアワなるHPを見つけた。
さっそく診断(ホームの右の診断をクリック)したところ、
サヌキ(男性)度43% アワ(女性)度57%と出た。
なかなか良いバランスだと自画自賛♪
しかし私が○△×の会に関わらなかったら、サヌキ度はもっと低くバランスも悪かった筈なので、やはりあの会に参加した効果はそれなりにあったのだろう。
それにしても、Sさんは、アワ的要素が多いとつくづく思う。
あの貸しスペースを「やまねの家」と名付けた所なんか、サヌキ型人間には絶対に真似出来ないだろう。
世の中には、こうした性格分類の学説が多数存在する。
いづれもそれなりに役立つのだが、どうしても相手をカテゴリーにくくってしまい、「あるものをあるがままに見る」という、瞑想の王道から逸れてしまう危険性もはらんでいる。
十分に注意しなければならない所だ。
2011年12月19日(月) 晴れ by キヨタカ
リトリート中だったので日誌に載せるタイミングをすっかり失ってしまったが、「覚者を求めて」という連載記事が載っている雑誌:Star People 最新号(Vo.39)が 既に発売になっている。
前回はアジズについてだったが、今回はいよいよフーマンの登場である。
実は次回の原稿も先日編集者に送付済みなのだが、編集者から
「前回の続きが気になっていたので、いっきに読んでしまいました。」
というメールを頂いた。
ぜひ皆さんにも、読ん欲しい。
雑誌は、大手書店で取り扱っている。
Star Peopleはその取り扱う内容が非常に幅広く、登場するテーマや人物も実に様々。
一般的にはオシャレなニューエージ系の内容が多く、私の記事なんかちょっと場違いで他の記事とはズレている感じもするが、それはそれで”異彩”を放っている…という事にしておこう。
特に今回は内容がフーマンだけに、一般読者の反応が楽しみである。
2011年12月18日(日) 晴れ by キヨタカ
久しぶりに、友人のSからメールがあった。
「恩寵の扉が開くまで・完結編」を注文してくれて、非常に嬉しい。
彼と出逢ったのは、今から30年前。
私がまだ生真面目なサラリーマンの時、OSHO(当時はバグワンと言われていた)の本を読んで感銘を受けた私は、バグワン瞑想センターへ瞑想を学びに出かけた。
当時のサニヤシン(バグワンの弟子)は赤い服にマラ(バグワンの顔写真入りロケット)を首から下げており、長髪で社会からドロップアウトしたヒッピー達が多数を占めていた。
Sは当時の典型的なサニヤシンで、いつもセンターにたむろして竹笛(虚鐸)を吹いて遊んでいた。
聞けば定職はなく時々アルバイトをしていると言う。
話し振りがハートフルでのんびりしていて、とても印象深かった。
背広姿で会社帰りにセンターを訪れていた私は、本格的にOSHO瞑想をやりたいと思った。
しかしサニヤシンになると、赤い服にマラを下げなければならない。
大企業だったから、赤い服とマラを下げたままサラリーマンは勤まらない。当然会社も辞めざるを得ない。
彼の姿をしげしげと見ながら「本格的に瞑想するには、ここまで身を落とさねばならないのか!?」と、愕然としながらも、気軽な彼の人生を羨ましく思ったものである。
やがて20年の歳月が流れた。
私は会社を辞めてOSHOの下へ…遂に彼と同じく定職もない典型的なサニヤシン人生を歩み出し、紆余曲折の末にアジズと出逢う。
そして、アジズの長期リトリートにSも参加してくれたのである。
その頃Sは結婚して2児の父親となり、世間で真面目に働く様になっていたのだから、人生とは先がどうなるか解らないものである。
それはともかく、当時のアジズスタイルのリトリートは禅寺修行と同じ程厳しくて、ステート・オブ・プレゼンス(SP)を目指して一日中坐り続けるものだった。
ハート指向の彼にとっては、SP修行は非常に困難だった様で、何日経っても、「さっぱり解らない」という。
せっかく参加してくれたのに、このまま終わってしまうのはオーガナイザーとして非常に残念である。
そこで、私は昼休みに彼を、車で12分くらいの所ある「旭滝」へ連れて行った。
そこは知る人ぞ知るパワースポットで、昔は修行僧が本格的な滝行に励んだ場所である。
その頃、趣味で滝行をしていた私は、Sと一緒に裸で滝に打たれた。
滝に打たれると、思考や感情が吹き飛んで、プレゼンスが求めなくとも向こうからやって来る!
滝行のお陰で、ようやくSもプレゼンスを体験する事が出来たのである。
あれから10年の歳月が達った。
当時に比べると、「意識の加速化」には実に驚くべきものがある。
間もなく、誰もが当たり前に悟りを生きる時代が訪れるだろう。
2011年12月17日(土) 晴れ by キヨタカ
昨日の日誌のコメントに、ピーター・ラッセルの事が書かれていた。
実はこの地球カレンダーは、コメントにある通り「進化の加速化」を示している。
博士は、地球の歴史46億年を世界貿易センタービル(400メートル、108F)にあてはめる。
すると地球カレンダーで14秒前だったキリストの出現は、ビルの最上階の天井のペンキの厚さに相当するそうだ。
そして21世紀に入ってからの10年間は、地球カレンダーで僅か0.1秒、厚さは顕微鏡でも見えないくらいなのに、その間の意識の進化は驚くべきものがある。
アジズが初来日した2000年当時、ステート・オブ・プレゼンスがなかなか理解出来ない参加者が大勢いた。
しかるに、前回のリトリートでは、ハートの覚醒が集合的なレベルで起こり始めている。
2012年12月には、本当に意識の特異点が訪れるのはあるまいか?
これからの一日一日が、非常に大切なものとなるだろう。
しかし、本当の特異点とは、来年起る出来事ではない。
時間も長さもないところ、0秒、厚さ0ミリ、つまり「今」という事になる。
それは父母が生まれる前、アブラハムが生まれる前からあり、今もあり、未来永劫にある。
2011年12月16日(金) 晴れ by キヨタカ
魂が目覚めるのは簡単だ。
しかし、マインドが「魂の目覚めは簡単だ」と理解するには少し時間がかかる。
そして目覚めた魂として、この世を生きるには、もう少し時間がかかる。
それはハイハイしている赤ん坊が、立って歩ける様になるのと似ている。
赤ん坊が立って歩ける様になるまで、何度も何度も転ぶ。
赤ん坊にとっては、立って歩く事は奇跡に等しい。
しかし大人にとって、それは当たり前の事で、歩けなかった記憶すらない。
人類は、まだ誕生したばかりで、人間で言うと赤ん坊のレベルだ。
だから、魂として生きるのは、奇跡に近い。
しかし人類はようやく少し進化して、魂としての自己を生きる事が当たり前になる時代が到来しようとしている。
地球カレンダーというものがある。
地球が誕生してから46億年、それを1年(365日)で表したものだ。
それによると…
1月1日午前0時:原始地球の誕生
1月12日:地球と月が分離
2月9日:陸と海に分離
2月25日:原始生命の誕生
3月29日:バクテリアの誕生
…という訳で、春になってもバクテリア止まり。
9月27日:多細胞生物の誕生
11月20日:魚類の誕生
11月29日:両生類の誕生
…という訳で、秋の終わりにようやくカエルがケロケロ♪
ワニなどの爬虫類が誕生するのは、真珠湾攻撃の前日(12月7日)。
12月13日にようやく恐竜が登場。
今日(12月16日)になっても、まだ空には鳥が飛んでいない。
12月19日まで、待つ必要がある。
そして恐竜が絶滅したのが、暮も押し迫った12月26日なのだが、まだまだ人間は登場しない。
なんと、現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生したのは、12月31日。
しかも紅白歌合戦も終了した午後11時37分の事だと言う。
わずか23分前、という事になる。
そしてキリストが愛を説いたのが、午後11時59分46秒、つまり14秒前の事である。
こうしてみると、人類がまだ愛を生きる事が出来ないのも、納得がいく。
まだ、人類は始まったばかり。
幼児期のレベルだからだ。
だから、幼児期のレベルでありながら、魂としての自己を生きようとしている人々は、自分に対して
「よくやっているよ♡」と、褒めてあげよう。
動物と人類の差は、マインドにある。
そして、人類と新人類の差は、魂の目覚めにある。
辛抱強く何度も転んでは起き上がって、新人類の仲間入りを果たそう!
2011年12月15日(木) 晴れ by キヨタカ
リトリート参加者のKさんから、「リトリート 超良かったです。体験談書いてみたけど、A4が3ページ分の長文になってしまいちょっと削除しようと思っているところ…」というメールを頂いた。
「長文だと日誌を読んでくれない人もいるので、短縮したものを送って下さい」と返事したところ、短かくまとめた文章を送ってくれた。
しかし私の個人的な参考までに長文の送付も依頼した所、とても感動的な内容だった。割愛するには惜しいので、修善寺日誌始まって以来の長い日誌となるが、それも載せる事にする。
特に、Kさんが私との個人面談の際に「フーマンだ!」と感動した場面なんか、その時の様子がありありと蘇って来て、すごく嬉しかった!
実は私もKさんと全く同じ体験をした事があるので、彼女の気持ちが手に取る様に解る。
フーマン自身「この私はただのThisであり、フーマンではない」と語っているのだが、しかし私としては「フーマンだ!」という表現しかあり得ない、フーマン体験なのである。
私のフーマン体験とは…
今から5年前、私はカナダのジョンというマスターのセミナーに4回も参加した。しかし彼の話は難解で、全く行き詰まっていた。
4回目のセミナーは一週間以上の長期に渡るものだったが、全く時間を無駄にしている感じだった。
しかし、セミナーも終わり近づいた頃に、思いがけなくフーマン体験が起った!
その様子を「恩寵の扉が開くまで・完結編」から抜粋しよう。
* * *
(4)フーマンがやって来た!
エドモントンの冬は厳しい。 気温がマイナス5度くら
いだと、「今日はやけに暖かいね」とい う挨拶を当り
前にするのである。
ジョンの生徒達は非常に真面目で知性的、なおかつ親
切だった。
4度目の訪問だったので顔馴染みも多く、ジョンの生徒達と一 緒にいるのはとても居心地がいい。
しかしジョンの難解さは相変わらずで、もう知的に理解する事 は諦めただエネルギーにチューニングを合わせる事に専念してい た。
セミナー7日目の夜、それまでいつも通りに話していたジョン が突然口調を変えて「私の背後にあるこれとともに在りなさい」 と語った。
そしてそのまま沈黙してしまったのである。
会場全体に沈黙が広がり、一瞬にして瞑想リトリートの様相を 呈した。
やがて、あの懐かしい感覚が蘇って来た。 フーマンとの個人セッションやリトリートで何度も味わった「こ れ」の感覚である。
そして、「フーマンがやって来た!」と声にならない叫びが心の 奥底から響いた。
その会場には私の他にフーマンの生徒が2人いたが、後で私の体験をシェアすると、2人とも私と全く同じ体験をしていた事を 知り、互いに驚いたのである。
その翌日、私は導かれるかの様に質問席に座り、恩寵について 質問をした。
どうせ理解出来ないだろうと覚悟の上での事だったが、驚く程 明快な答えが返って来た。4回目にして初めて、まともな質疑応 答が起ったのである。
それはあたかも、ジョンを介してフーマンが降りてきたかのよ うだった。
……
* * *
そしてハイライトであるジョンとの質疑応答へと続くのだが、詳細はぜひ本を読んで下さい。
それでは、Kさんの体験記を掲載します。
* * 短縮版 * *
感謝の気持ちでいっぱい
キヨタカさんありがとう!
自分にふさわしい時期が来て 行けたなという感じがしている。
プレゼンス
私は今まで、自分の概念、社会の常識、周りの人の思惑、無意識の抑圧や恐怖などから自由になりたいと思い、オショウ瞑想をタントラやジベリッシュなど5年間やってきて、随分心は自由になったと思っていた。
しかし、ワーク中や自宅では、ハートはひらいて くつろいで 無邪気に のびのびやっていたけど、
社会にいくと、ゴミを人に投げてくる人はたくさんいて、それを上手くやり過ごせなかった。
自分の中心に定まる
今まで その意味が わかるようなわからないような だったけど、
「プレゼンスだ~」と、今納得しています。
周りからのジャッヂ ゴミを
プレゼンスができていると あまり気にならなくなる。
社会の中にいても 自分の中心に定まるという強さのコツがわかり とっても嬉しいです。
あと、今回、キヨタカさんとの個人相談の時
とてもビューティフルな「無の境地」を体験できたんですが
その時 最後の最後まで自分にへばりついて残っていたのが
自分のスピリチュアルエゴ(自分が培ってきた過去の瞑想体験など)でした。
それをキヨタカさんにはがされ、何もないとこに行った時
エゴがめっちゃうろたえていた。「どうしよう、何もなくなってしまう!!」と。
こうやってエゴが機能するんだ、とわかりました。
無の境地は インドに行った時、タントラ瞑想時など、ひょんなことから体験していたけど
自分から行こうと思ってもあまり完全には行けなかった。
解放がすすんだときの、偶然の産物だった。
それが今回、最後の最後の持ち物、「マインド、エゴ」の正体に気付けたので
やっと故郷への帰り方がはっきりわかった感じ。
よく迷子になっていた。
スピリチュアルエゴ(マインド)と自分の同一化をはがされて、距離を置いて確認できたので、
自分はスピリチュアルエゴをすごく気に入っていたんだ、ということもよく自覚できた。
どんなに過去にいい体験をしてそれをマインドが言語化して、いい学びのストーリーを持っていたとしても、
完全に今ここの「無の境地」はあまりに次元が違いすぎて かなうはずがない、と実感した。
だからまかせちゃっていいんだ~、と思った。
井の中の蛙が、大海を見てしまいました。
何もないからなんでもある。なんでも来る。めっちゃ豊かなとこ。
毎瞬毎瞬がめっちゃ豊かだから、貯金しなきゃ、自分の分をキープしなきゃ、かしこくないと、と心配する必要がないんだね。
だから本当にとっても嬉しくって
リトリートが終わって2週間たったけど
今でも喜びをかみしめています。
リトリート中は背中とお尻が悲鳴を上げていて(普段が猫背なので3日間激しい筋肉痛。。)
静かに座るのが一番へたくそなのでは?、私は劣等生だ、と心配していたけど
帰ってから 自分がすごく成長したことに気付いた。
ワーク後2、3日は、毎瞬毎瞬 コナキじじいのような過去の記憶をばっさばっさ落として身軽になって楽しんだ。
夫とのトラブルのときには コナキじじいを落としづらくてすごく何倍も苦戦したけど、
「ああ、それが夫への依存、カルマなんだな」と気付けた。
今でも古い習慣に浸ったりしていますが、戻り方がわかったので安心している。
今回のリトリート、自分の中でのすごい転機になりました。
思いきって参加してよかったです!!
今後もよろしくお願いします☆☆
ラブ by K
* * 長文バージョン * *
タントラからオショウの道に入り、インドに行き、5年となるが、もともと静かに座るのが苦手な私。それが1年前キヨカタさんの本とワンデイ瞑想会に出会い、「I am」「自己想起」の具体的な方法を知り、私の中でセンセーショナルに。
(オショウも「観照者」と言っているが、自分の理解はなんとなく程度で、あまりピンと来てなかった。)
今回のリトリートでは、まず3日間、身体的にとてもつらかった。
私は普段が猫背なので、背筋をのばして座り続けるのが、めっちゃ筋肉痛になり、すごく大変だった。特に2日目の夜はピークで、背中もお尻も悲鳴を上げていて、beingにくつろくどころではない感じ。
もう次は長く座ることのないように、と祈りながら休憩時間を過ごしていた。
そんで内面のことは、・・・書くと目白押しで大変。何が起こったかとか。
タントラやノーマインド瞑想(ジベリッシュ)などで今まで瞑想で過ごしてきたけど、もともとの私の瞑想目的は「自分や周囲の常識や概念、無意識層からくる恐怖不安、諸々から自由になり、よりナチュラルな自分になること」だった。
そんな私が健全な無邪気さ(自分で言うと恥ずかしいんだけど)を「今ここ」で体験していくこと、が目下の日常の課題だったんだけど、
私がやっていたこの「健全な無邪気さ(抑圧とか概念からの自由、無意識層からの恐怖に気付いていること)&今ここ」が「プレゼンス」「I am」とちょっと違うということに気付かされた。
これは私にとってちょっとしたショックでした。
私は普段も自然の中で暮しているので、花や木々とお友達で(人間以上に)、自分と隔たりがない。
そんなんで、リーラスペースのお庭でお花とかみかんの木とか見かけると、ワクワクして「おーい、元気?」とか「わーい☆」と話しかけて遊ぶんだけど、リトリートでは「対物に焦点を合わせないで自分に常に返す」ことが大切なので、花を見ても「花を見ているこの人は誰?」と自分に徹底して矢印を向け返さないといけない、と2日目に個人質問で知った。
え~、やだな~,遊びたい、真面目でシリアスだな~」と言うエゴの思い半分、「それが今回の目的だから、そりゃそうだ」と思うの半分で、それ(I am)を実践し続けることに。
3日目の「笑い泣き」の瞑想では、・・「笑い」は大好きで、得意感すらあったけど。しかしこのときは笑おうとしても泣いてしまった。
「今まで私が無邪気に遊ぼうとしたら抑圧してきたじゃないか。今更遅いんだよ」ってすごい恨みが。笑いを起こそうとするとすぐ泣きに変換されてしまう。
なんどもオショウの笑いのインストラクトを思い出して、今ここで笑おうと試みても激しい泣きにすぐさま取って代わられる。
笑いと泣きの声が似ていたから他の人に迷惑かけることはなかったと思うけど、それを10回以上トライしては失敗し、を繰り返した。
この感じなら「泣き」なら今日はいいだろうけど、参ったな~と思って・・・。
「記憶を消したらできるはず、今ここなんだから」と「えいっ!」やったら、なんとか20回目くらいで成功。踊り笑いした☆
そしたら泣きの時間になったらさ、さっきの泣きのはげしい恨みやテンションはきれいさっぱりなくなって、空っぽに。到底泣けないよ~ってなってしまった。
ま~、そのうちすぐ泣けたけど、違う理由でだった。
(筋肉痛とか)
前後になるけど、今回一番の大きな体験が、2日目のお昼ころ、キヨカタさんとの個人相談の時に訪れた。
キヨタカさんに「どうですか、調子は」と聞かれた。
私は、頭の中で「休憩時間は30分ちょいしかないから、質問も20-30分でしないといけない。
このリトリートを有意義なものにするために、瞑想中に起こりうるありとあらゆる疑問を解決したい。
座っているときにマインドがいいわけできないように。」という意図が背後にあった。
おばさんがセール品で取りこぼしのないように買わないと、みたいな感じの。
だから瞑想にまつわる心配事を話した。
いつも陥りやすい自分の罠、みたいな。ここまでは分析しているんだけど、みたいな。内容はうっすらしかおぼえていないけど。
「本当に自分の求めているスペースに行こうとすると、紐のないバンジージャンプのようなもので、怖い。宇宙船の無重力空間で命綱が切れる感覚で・・」
そんなようなこと言って、最後は力んでキーとなって「普段から毎瞬毎瞬今ここであれるようにトライをし続けているんだけど。」みたいなことを言った(自分もビックリ、こんなにがんばって自分をプッシュしてたんだな〜と)ら、
キヨカタさん:「わかった、わかった。・・・それはKのストーリーですよね。過去の瞑想での失敗とか恐怖とか。・・・今ここにそれがありますか?」
K:「・・・?」
キ:「今ここです。この瞬間にいてください。・・・今ここです。何がありますか。」
K:「・・・あれ!?」あわてだすKのエゴ。
個室でキヨタカさんとK、二人だけで見つめあう。他に何もない。
今ここに、夫も家も仕事場もない。
しかも私の持ち込んだ過去のエピソードさえ奪われたら、何もなくなってしまう!
K:「え~・・・、じゃあ、何もなくなってしまいます!どうしよう!」
キ:「何もないですか?今ここ、です!」
K:「お~~!これか!無だ。お~~!でもひまになっちゃう。お~、無だ!」
エゴは逃げ場がなく混乱。そして「I am」「無」「プレゼンス」発見&体感で、喜びと興奮。
そのとき、キヨタカさんの姿でキヨタカさんの口が「今ここです」としゃべっているんだけど、私の視界が変わって(さっきと同じ物を見ているんだけど)、フーマンに見えた。
目の前にいる人はキヨタカだけどフーマンであり私でもある。
私はキヨタカでもありフーマンでもあり私でもある。
二人が向き合っているが意識に境がなかった感覚になった。
私はフーマンに会ったことはないけど、フーマンの本のセリフにあるヴァイブレーションを知っていて、それそのものだったんだ。
一瞬で空飛んでしまいそうな私の大好きなフーマンのくだり「あなたに語りかけているこの口を持っているこの者はただのthisであり・・・」このヴァイブレーション。
「フーマンだ!」と私は心の中で叫んだ。
しかし恥ずかしいから「フーマンみたい」と変えて発した。
もう「わかった〜〜!」という感じ。
それを知ってしまったからにはーみたいな、そのあと呼吸法して寝ながらジベリッシュのワークがすぐあったが、久々の深い大泣き。
だってあのフーマンスペース(キヨタカさんはフーマンだけでなくオショウやいろんな人の言ってきたスペースだよというけど、やっぱりヴァイブレーションとかが私の知っている中でフーマンに感じたし視覚的にも見たし。ピュアマインド、純粋意識だからなんでもいいのかもしれないけど。)と自分の普段の隔たりを知ってしまったから。
ゴミを捨てるべく激しく振りまくった。
3日目のダイナミックでもゴミを振り払い、サイレンスの時、そのビューティフルなピュアスペースに出会えた。
インドやタントラ瞑想などで、時々出会っていたスペースだったけど、それが何かよくわからないから、おもしろ~いと思いつつ、それを深められないでいた。
あの個人セッションが私の中で大きく何か気付かせました。
今まで日常で「無邪気に今ここ」と上手くやっていたつもりでも、
自分の中でかなり自由にやっていたつもりだったが、それでも無意識に過去の記憶を持ち寄っていたし(背後のマインドのテープレコーダーは切れない、切れた状態を知らなかったから)
内側も見るけど、外側の自然や木々、動物にもバンバン意識が向かっていた。
(これだと外側の要求に振り回されることもある。ネコが餌くれ〜と言ってきたり。さっきあげたばかりなのに、心が揺れ動く、とか。)
より自由に、は達成したけど、強さはどうすればつくのだろう、とそういえば悩んでいた。
プレゼンス、だね。
あと、自分は自分のエゴをめっちゃ気に入っているんだ、とはっきり認識した。
スピリチュアルエゴ。
いい学びを私のエゴは紡ぎ出す。
なかなかいいこと言うじゃないか、と自分でほれぼれしている。
しかしね、今回、それより 今ここで 空っぽになって プレゼンスで いることの喜びを知ってしまいました。
無 のほうが 私が気に入っている 過去からの日常や瞑想の体験よりも
今ここ の 無 プレゼンス の方が 贈り物は豊かで 想像を絶する。
私のエゴが握りしめていた 過去の記憶 過去の体験からの叡智 よりも
今ここ の 無 I am の方が 計り知れない喜び 制限のない喜び 予想できないギフト
何もない故のすべてある。何もない故のなんでも来る。
小さな小川から大海へ。
自由だし 心配することないし くつろいでいるし。
すご〜〜い。
リトリート中は、ものすごいいいこと学べたけど、プレゼンスとか今イチなほうだったのかな~と思っていた。
目を閉じて静かに座るのはやっぱり少し苦手感が残っていたので。
しかし、その後、日常に戻ったら、自分がめっちゃ成長していることに気付く。
両親に車で向かえてもらったんだけど、5時間くらい。
瞑想後は静かに浸りたいかな、親といて大丈夫かな、とちょっと心配したんだけど、大丈夫。
ストレスなく、楽しく大声でしりとり歌合戦しながら、時々プレゼンス思い出しながら、帰れたし。
翌日は初めてお店のIKEAデビュー。
西船橋のインテリアとか雑貨の大型店。
(よりによって瞑想の次の日に、なんだけど)ここでも大丈夫。プレゼンスでめっちゃ楽しかった~~。即座に、過去の記憶をコナキじじいを振り落とすかの用に、ドサッツと落として、毎瞬毎瞬「脱皮」。
軽いわ~~、と思いつつ。
6時間くらいいてさすがに疲れたけど、帰りもおもしろいことが起きた。
電車&高速バスで帰るのに、買いすぎた荷物の山をみてちょっとブルー。
重い荷物で肩がくいこんですごくいたかった。しかし。プレゼンスするとまたコナキじじいが落ちて、うすら恍惚表情で、疲れは吹き飛び、肩の痛みは半分以下に。麻酔でも打っているのかという感じ。
帰ったら、なんだか夫があらぬ理由で激しい言いがかりを。
え~なんで?気持ちよく帰ってきたのに。
こんなときもプレゼンス☆、と思うのだが、夫のときは難しかった。
なかなかプレゼンスに自分ができない。
ああ、これが夫への執着と依存なんだな、と気付く。
エピソードと過去の記憶のテープが自分の中でしっかりしていると はずすのに大変。
それに気付いたら 間もなくプレゼンスできた。
そのためのチャレンジだったな、という感じ。
そのくらいありえないことで言いがかりされたんだ。
私が夫より犬に先にたのしそうにあいさつしてたから(ハートが開いていたから犬にめっちゃハグしてあいさつしてた。)、とかいう・・・。
いつまでこのワークでつちかったプレゼンスが続くかな~と思っていたけど、1週間経つと家のエナジー、いつもの習慣にやられ始める。
しかし今回は自覚がはっきりしているので、外側で似た感じになっていても、何か変わって来るだろう。
ドロドロの習慣にまみれても、時々入浴中とか園芸中とか、あのピュアスペースにピューと行ける。自分の選択次第で。
エゴともまた違ったいい関係が築けるだろう。適度な距離を保って。
体験談もようやく書けるようになった。
変容中は文章を書く気にならない。
今回リトリートに思いきって参加してよかったです~~!!
ご飯もおいしかった!!
2011年12月14日(水) 曇り by キヨタカ
リトリートに参加するにあたり、是非読んで欲しい本がある。
それは、OSHOの「ディヤン・スートラ〜瞑想の道〜」
これはOSHOがまだ世界的に有名になる前、直接瞑想リトリートをリードしていた頃の講話記録だが、瞑想に対する基本的心構えのABCを語っている。
瞑想初心者の方はもちろん、長年瞑想をしている方にも、お勧めする。
特にその本で述べられているポイントの一つ:「楽観的」である事、は見落とされがちだがとても大切な要素だ。
伝統的な瞑想修業は、非常に重く深刻になってしまう事が多い。
誠実ではあるが、深刻にならずに「楽観的」である事。
そして瞑想で「起った事」に感謝してそれを育み、「起らなかった事」についてエネルギーを注ぐ事をしない事、が瞑想のコツだ。
Uさんはこの本をしっかり読みこなしてから参加されたそうで、初参加ながらとても実りあるリトリートとなったようです。
Uさんの、体験記を紹介します。
* * *
初参加だったリトリートで体験したことをシェアしたいと思います。
初日はプレゼンスにフォーカスした瞑想でした。
独りで瞑想しているときは「恐らくこれがステイト・オブ・プレゼンスの状態ではないか?」という些か自信のなさが付きまとっていたのですが、初日の瞑想が始まって間もなく「やはり、これだな」という確信が持てました。
プレゼンスの状態がどういう状態なのか、あるいは自分がプレゼンスと感じているものが本当にそうなのか自信が持てない方にとって、なぜ確信を得たのか、何を感じたのかという部分が一番知りたいところだと思うのですが、なかなか言葉に落とし込むのは難しく、体験を通して感じていただくのが一番ではないかと思います。
はっきりと言えることとして、独りで瞑想をしているときは非常に集中する努力が必要だったのですが、この集中がさほど必要なく、あっさりとプレゼンスの状態を感じることができたということと、必死にならずに信頼して委ねてしまう方が楽だということです。
今回のリトリートに参加するにあたり「楽観的」であろうしたことが、とても役に立ったと感じています。
これはOSHOの「瞑想の道」に書かれてあることで、リトリートに望むにあたってこの本を事前に読んでおくことはとても助けになることが多いのでお勧めします。
OSHOは言っています。
「この三日間は、ごく楽天的な気分を保ちなさい。今晩寝るときは、楽観に満ちて眠りにつきなさい。そして明日の朝起きたら何かが起こるだろう、何かが起こるはずだ、何かが為されるはずだという確信とともに眠りなさい。」
私はこれまで様々なワークショップへ参加したことがあるのですが、どうしても結果や成果を期待しすぎてしまい、期待通りに「起こらないこと」にフォーカスしてしまい落胆することが多かったように思います。しかしOSHOは「瞑想の道」の中で「起こること」にフォーカスすることを推奨しています。どんな些細なことでも「起こること」にフォーカスすることで体験がまったく違ったものへ変わるように思います。
OSHOは以下のように言っています。
「この三日間は自分に起こることだけを考えるように--起こらないことに思いをめぐらせてはいけない。この三日間、何が起ころうとも見ていなさい。そして起こらないことは忘れてしまいなさい。実際に体験したことだけを覚えておくこと。もしささやかな安らぎ、静寂を味わったのなら、それをはぐくみなさい・・・」
数度の瞑想のあと、キヨタカさんから声をかけていただきマンツーマンで状況をヒアリングしていただきました。
ヒアリングは2日目にもしていただきましたが、このヒアリングがとても助けになります。
ケアしていただいているという安心感は直ぐに信頼感となり不安や疑問を簡単に手放すことができたように思います。
2日目はビーイングにフォーカスした瞑想でした。
独りで瞑想しているときに数度だけ「ふわっ」と広がる感覚のあと、とても心地よさを感じることがあったため、「これがビーイングじゃないか?」というふうに思っていました。
この「ふわっ」とした感覚は文字通りの感覚でとても独特な感じです。
実はこの体験が落とし穴となりました。
リトリート2日目の瞑想中に、どこかで「あの感覚」を求めてしまっていました。あの感覚が再現されれば、それがビーイングの状態だという確信が持てるという「期待」をしてしまっていました。しかし、なかなかあの「ふわっ」とした感覚は訪れず、それどころかプレゼンスの状態さえ希薄になったかのように感じ始めていました。
このとき、「これまでのワークショップと同じで、何も起こらないのではないか」という不安がよぎったと同時に、OSHOの言葉を思い出しました。起こらないことに思いをめぐらさずに・・・、楽観的に・・・。
そしてそのとき、チベッタンボウルの音が「ゴ~ン」と響きました。
(午後はチベッタンボウルを利用した瞑想でした)
「あぁ、懐かしい響きだなぁ」と感じながら体の力がすっと抜けていく気がしました。
そして、気づくと自分の感覚がとても大きくなったように感じました。
「ふわっ」とした感覚はありませんでしたが、この心地よさは以前に体験したものと同じものでした。独りで体験したときの広がりは体を覆う程度(両手を広げたよりも少し広い程度)だったのですが、このときはもっと大きく、ちょうど参加者の方々が座っている円陣と同じくらいの大きさに感じました。
まるで雲の中にいるような感じで、とても平和で居心地の良い空間でした。
同時に「やっとたどり着いた」という感覚とともに涙が溢れてきました。
ずっとこの状態に留まりたいという思いとは裏腹に少しずつその心地よい空間が薄らいできて、「もう終わりか」と思っていると、またチベッタンボールの音が「ゴーン」と響きます。そして、またその濃密な空間の感覚が戻ってきました。
何度かそういう揺らぎを感じつつ、その瞑想は終わりましたが、しばらくその恍惚とした感覚は心地よく残っていました。
3日目はハートにフォーカスした瞑想でした。
独りで瞑想してきたなかで唯一これまでに「これだ!」という体験がなかったのがハートに関する体験でした。
ただ、瞑想中に胸に冷たい(逆に熱いとも言えるかもしれないですが)雫が触れるような感覚だけは感じたことがありました。
3日間を通して、これまでに体験したことのない瞑想方法の連続だったのですが、笑う瞑想のあとに行った泣く瞑想のときに、ちょっと不思議な体験をしました。
しばらく座っていると周りの参加者の方々の泣き声がとても悲しく響いてきました。
そして共鳴するように私自身もとても悲しい気持ちになってきたときに、何かの「意識」を感じました。
とても慈悲に満ちたその「意識」も悲しんでいるかのように感じられたと同時に、その愛情の深さに涙がこみ上げてきました。
瞑想中のどのような体験に対しても客観的であるべきだという考えがよぎって努めてプレゼンスを保とうという意識が働いたのですが、結局その時は委ねました。
そして、その慈悲のなかに神性を感じた瞬間、総毛立つ感覚と共に暖かなベールで全身が覆われたような感覚を覚え、「どうぞ私をお使いください」という思いがこんこんと湧き出てくるとともに涙が溢れました。
以上が3日間のリトリートの体験です。
そして、リトリートが終了してから1週間後、興味深いことが起こりました。
まるで岩に水が染み入るようにリトリートで体験したことが日常に浸透してきているように感じます。
ただ歩いているだけで、見慣れた風景がとても新鮮に感じられ、とても柔らかくて優しくて暖かい心地よさで満たされたように感じたり、接する人がとても優しく親切に感じられたり、出会った人をハグしたくなるような衝動に駆られたりと、なんだかとてもピースフルな感覚がときおりジワっとやってきます。
さらに、体にも変化がありました。
気力も体力も充実していて活動的な気分なのですが、突然の腰痛と風邪で安静を余儀なくされました。腰痛が治ったかと思うと今朝は寝違えたかのように背中の筋が痛み右腕が上げづらくなってしまいました。
まるで、「静かにしてなさい」と言わんばかりです。
体ともしっかり向き合う必要があるようですが、どうも要領がわかりません・・・。
今後はもうちょっと体にも目を向けてみようと思います。
それから、口にする物にも気を配る必要がありそうです。
初参加のリトリートでしたが、本当にすばらしい機会を得たことに感激するとともに、リトリートを提供してくださった皆さんに感謝しています。
今後もあまり一喜一憂することなく淡々と瞑想を続けていきたいと思います。
ありがとうございました。
2011年12月13日(火) 快晴 by キヨタカ
「キヨタカよ、剣を取れ!」
フーマンが私への個人面談の時、実際に剣を高々と掲げて私にデモンストレーションした勇姿が、まるで映画の名場面の様に今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。
* * *
(フーマンは席から立ち上がって窓際に行き、窓枠の上部に手を伸 ばして、何かをスッと取り出した)
これだ。
――アッ、剣ですか!
(それは中近東風のエキゾチックな剣の飾り物だった。剣を掲げた フーマンの姿は、スルタンの様に威厳に満ちていた)
フーマン そう。
ただ剣を手にしなさい。そうすれば、あなたは思い起こす。
あなたは、ずっとずっと昔に、剣を落としてしまった。
そしてこの様に(顔を手で覆い隠して)、パワーを手放してしまっ たのだ。
それから自分を疑い始めた。
ずっと昔に、何かが起こったのだ。 それ以来、あなたは混乱した状態のままだ。
それからのあなたは、自分自身でいる事をしていない。
あなたの一部を失ったままだ。 自分自身に戻って、以前持っていたパワーを取り戻す事をしていない。
――なるほど。
* * *
ずっとずっと昔に、何故パワーを手放してしまったのだろう?
ある霊能者によると、昔々日本のどこかの国の領主だった時、戦争で領民を大勢死なせてしまい、権力を持った事を後悔して本来持っていたパワーを自ら封印してしまったんだとか…?
過去生の事は定かではないが、今生では自分のパワーを自分で放棄してしまった事が何度もある。
例えば中学一年生の時、同級生のIさんに初恋をした♡
彼女は才色兼備でピアノが上手く、1学期の期末テストは学年で1番だった。
そこで私は何とか彼女の注意を惹きたくて、猛勉強に励み、2学期の期末テストで1番(彼女は2番)となった。
ブラスバンド部でトランペット奏者だった私は、サッカー部にも入り大活躍、おまけに生徒会副会長に当選し、次期生徒会長候補No1となった。
学校一の人気者になった私に対して、当然Iさんも注目し、ある日の休み時間に彼女が数学の問題集を携えて私に近づいて来て、そっと囁いた…
「この問題がよく解らないの、教えてネ♡」
疾風怒濤の青春時代の始まりの最高の瞬間だった。
しかしこの最高の瞬間はほどなく、漠然とした不安感と孤独感に襲われた。
「こんなに上手く行く筈がない」という思考に苛まれたのである。
そして、「お前は本当はダメな人間だ。」という声が聞こえ始めた。
「1番になったら後は落ちるだけ…」「頭悪いくせに…」「目立つと嫌われる」「音楽の才能はないし、数学は苦手だし、運動神経も悪い…」「注目されると危険だゾ」「人間失格だぞ」…etc.、いかに今の自分の状態がダメで危ういか、ネガティブ思考がダダーッと津波の様に押し寄せて来る。
やがて、級友の羨望の眼差しを避けるために、敢えて某教師と激しく対立して生徒会会長への立候補も自分から頑なに固辞。
成績も下がり始め、おまけに先天性疾患を抱えていた目の状態が非常に悪くなってしまう。
そして最期のトドメは…Iさんの転校・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
「ああ、思った通りやっぱり自分はダメな人間で、物事は上手くいかないんだな〜」
と、妙に納得して、灰色の暗い青春時代へと突入して行くのである。
あの時剣を落とさなければ、全く違った人生があった筈だ。
しかし人は、失って始めて、その価値の尊さを知る。
しかしあまり長い間失っていると、自分がそもそもパワーを持っていた事すら忘れてしまう。
瞑想とは、自分が本来持っていたパワーを取り戻すプロセスでもある。
そのパワーとは、権力とかエゴではない。
魂としての自己、神聖な次元、神の領域と繋がった、自己本来のパワーの事である。
Sさんから、個人カウンセリングの感想を頂きました。
Sさんも、失われた自己本来のパワーを取り戻し始めた様です!
* * *
キヨタカ様
昨日は、有難うございました。
おかげで新生した気持ちで帰宅できました。ハートがポッと暖かく街に煌めくイルミネーションをいつになく幸せな気持ちで見ながら帰ることができました。
また、お礼が遅くなりましたが11月のリトリートの際も本当に有難うございました。
毎回リトリートで起きることは自己を成長させてくれる珠玉の体験ばかりで、今回のリトリートでもダイナミック瞑想中、沈黙のスペースが広がる体験をし「この広がる空間は私だ」という感覚を強く感じたり、
昼食でお蕎麦を戴いている時、お蕎麦をお代わりし、お椀に適当な大きさに分けようとしている最中、なかなか上手くいかず、箸でこねくり回している瞬間、
まるで映画を観ているような感覚になり、箸も蕎麦も自分の手も勝手に動いていて自分が動かしているという感じが全くないという不思議な体験(これがプレゼンスの立場から物事をみた時の感覚?)をしたり等と着実に自己の本性を思い出しつつあると実感しています。
しかし反面、最近、今まで眠っていたネガティブなものもより強烈に顕在化していきている様で、「痛み」や「恐れ」「疑い」の感覚も強くなってきていました。
そのせいで、まるで退化しているようにさえ感じることがあり、「前より性格悪くなってるじゃん」と密かに思い悩んでいたりしていたのです。
それはとても深い所から出てくるようで、例えばハートを開きたいのだけれども、それが抵抗しているようにも感じますし、またそれが自己卑下の元になっているようにも感じていました。
これとどう付き合うべきかをセッションでヒントを頂こうと思い、昨日は臨みました。
結果、参加してよかったぁ~(心の底から&今でもしみじみ…)。
ちょっと驚きだったのはボディワークでした(ボデーワーカーだったとは知らず失礼しました)。
ワーク中、なぜか強力なプレゼンスととても心地よい寛ぎが同時に襲い?、かつ身体がどんどん熱くなりました。
(どんな施術をされたのですか?)そして、その後に頂いた言葉で合点がいきました。
「自分でパワーを封印した」
・・・その通りだ!と腑に落ちました。
そこで分かったことがありました。
11月のリトリートでは、やたら泣け、一年分の涙を流したのですが、あの涙の意味が分かりました。
あれは「悔し涙」でした。
本来持ってる力、見失ってしまった力、それを蘇らせたいのに出し切れないでいる自分に対する腹立たしさ、悔しさ。その悔しささえも封印させていて、ついにリトリートで爆発したんだと今回のセッションを通して理解しました。
どうも私は、封印癖?があるようです(笑)。
でもそのパワーの取り戻し方についても教えていただいたので、これはもう1億円もらうより嬉しいです(笑)答えは常に自分の内にあるということですね。
改めて確認させて頂きました。私は毎年自分にテーマを持つようにしていますが、来年のテーマは決まりました。
「自分に許可を与える」です。
そしてネガティブな感情は、魂の成長を見守ってくれているガードマンだと受け入れて、上手にお付き合いしていきます。
そして何よりも「I AM」に留まって、それを軸に生活していきます。
本当に有難うございました。
2011年12月12日(月) 晴れ by キヨタカ
やまねの家での瞑想カウンセリングが終了し、そのまま実家の小山に滞在中。
やまねの家でのカウンセリングはこれで3回目だが、修善寺でのリトリートや新宿瞑想会と同じく非常に大きな恩寵の光にサポートされて、とてもスムーズで内容の濃いセッションとなった。
宣伝不足で申し訳けないが、実は私はプロのボディワーカーとしてオアシスというボディワークセンターを運営していた事がある。
(今では、その頃の話をするとなんだか過去生を語っている気分になるが…)
瞑想カウンセリングでは単なる質疑応答には止まらず、言葉を超えたエネルギー体験をダイレクトに伝達する事を大切にしている。
そしてその為に、ボディワークがとても役に立つ。
だから私の瞑想カウンセリングではエネルギー的伝達を意図して、非常に簡単なボディワークも行っているが、それが予想以上に好評の様で嬉しい。
ただ光が降り注ぐ事のみを意図し、後は全てを光に委ねるとてもシンプルなボディワークだが、クライアントに必要な事がジャストのタイミングで起こり続けていて、私自身が毎回驚かされている。
まだリトリートの感想アップも終わっていませんが、関西方面からわざわざ参加して下さったIさんが帰りの新幹線の中から感想を送って下さったので、さっそくアップします。
Iさんは、ちょうど新月の時にスタートした前回のリトリートに参加、そして今回の満月(しかも月食!)の時にセッションを受けてくれた。
恩寵の光もよりパワフルに降り注いだ様で、「まるで光りが降り注ぐ海の中に漂う…」との事です。
次回は1月21日(土)22日(日)を予定しています。
おかげさまで、毎回満員御礼になってしまいます。
まだ来年の話ですが、「善は急げ」という事で希望者はお早めに連絡を下さい。
また前日の1月20日(金)の夜は、やまねの家の瞑想会があるので、それに参加するのも楽しみ♪
* * *
今日は素晴らしい体験をありがとうございました。
初めて瞑想を味わった気分です。
ボディワークも素晴らしくまるで光りが降り注ぐ海の中に漂うかのような心地良さの中、あのまま目を覚ましたくなかったです。
最後のハートの瞑想では寛ぐという事をはっきり体験できました。
二週間前の新月の日の自己紹介の時に私は主体性を持つと言ったように思いますが、主体性がなかったのではなく魂の導きのままリトリートに参加していたんだなと思いました。満月の日にマインドではなく魂が主体性を持っていることに気がつきました。
今ハートの瞑想の余韻を大切に胸に抱きながら新幹線の中で寛いでいます。
ありがとうございました。
2011年12月9日(金) 雨のち曇り by キヨタカ
明日から瞑想カウンセリングのため、西荻のやまねの家へ行く。
やまねの家では月2回(新月と満月)ペースで瞑想会が行われていて、今日がその瞑想会だったので参加した。
とてもアットホームで静かさと寛ぎが広がり、明日からのカンセリングの最高の準備となった。
懐かしい面々とも再会出来て、瞑想会の後の食事会も楽しかった。
最近の瞑想会はいつもリードする側に廻ってしまっているが、こうして参加者として関わるのもとても楽しい。
瞑想ももちろん良かったが、最後の祈りの部分が最高だった。
祈りに始まり、祈りに終わる。そんな瞑想会の新しいヴィジョンを垣間見る事が出来た。
2011年12月9日(金) 雨のち曇り by ヨガビジャ
昼過ぎに雨が上がったので、またもみじ林に散歩に行きました。
いつの道を歩いていると
別荘の生け垣も真っ赤に色づいています。
さらに進むと、さっきの赤とは対蹠的な
紳士服のヘリンボーン柄を思わせる
シックな葉っぱ。
もみじ林。
今年の紅葉はイマイチとの噂でしたが
観光バスのお客さんで賑わってました。
落葉で埋め尽くされた地面も
赤く染まっています。
芝生広場へと向かう途中、
虹の郷の園内を走る赤い機関車が見えました。
枝から離れ土へと還る前に一休み。
よそ様の葉っぱの上でなに想う?
木の幹には自然の生け花・・・
写真に夢中になっていたら
雲間から陽が射してきました。
一瞬で世界が変わるようです。
ずっとそこにあるけどいつだって新しい。
2011年12月8日(木) 雨 by ヨガビジャ
リトリートの後、スタッフと修善寺という地名の由来のお寺「修禅寺」に行きました。
最近、修善寺の温泉街は以前の閑散とした様子が信じられないくらい平日も賑わっています。
今は特に紅葉を観に来られている方が多いのでしょう。
私たちはこんな近くに住んでいながら、この時期に修禅寺のお寺を訪れたのは初めてのような気がします。
境内の木々もきれいに紅葉していました。
ベンチに腰掛けた女性が連れていたワンちゃん
がかわいかったのでしばしスキンシップ♪
とてもおとなしい子でソワソワとはしゃいだりし
ないけど、私たちといる事を楽しんでくれてるよ
うでした。
言葉がなくても
その存在から伝わるものがあります。
ただここにいてくれるだけで、しあわせが内から満ちてくる。
<在る>は一番ダイレクトで誤解のないコミュニケーションね、きっと。^^
2011年12月7日(水) 晴れ by キヨタカ
『リーラスペースのリーラ(leela)とは、
インドの古い言葉で
「神の遊び」という意味です。
あなたが自己の本性に目覚める時、
あなたの生は喜びに満ち溢れ、
新しい生き方が始まります。』
これはリーラスペースホームページに載せている文章だ。
そろそろ新しい文章に切り替えようかと思うのだが、最近増々その通りだと確信しつつあるので、そのままにしている。
この地上は太古の昔から、痛みや苦しみ、不条理な出来事で一杯だ。
人間はなんとかこの痛みから逃れるべく、ありとあらゆる試みを行ってきた。
しかしそれは不可能だったし、今後も不可能だろう。
なぜなら痛みとは生きている事の証でもあるから…。
この地上に生きる肉体人間が自分だと思い込んでいる限り、望みはない。
唯一の可能性、それは自己の本性に目覚める事だ。
来ては去って行くこの現象世界が夢である事に気づいて、本当の自分はその背後にある永遠なるものだという事に目覚めるのだ。
すると今までの痛みや苦しみは、夢だった事が解る。
もちろん生きている限り、現象世界では様々な出来事が相変わらず起り続ける。
しかし何が起こっても、例え会社を首になっても恋人にふられても病気になっても、その全てが「神の遊び」の一部なのだと思える様になる。
すると事態は全く深刻ではなくなり、人生という演劇の主人公を演ずる様になれる。
そして、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、痛かったり気持ちよかったり、あるがままの私に寛ぎ始める。
やがて、泣いたり笑ったりしている他の人々がとてもいとおしく感じる様になり、そっと寄り添える様にすらなる。
そんな人々が、新しい地球と人類の未来を創って行くのだろう。
本来そうであるべき新しい人類の実現なのだ。
そんな人類のひとりMさんから、リトリートの感想を頂きましたので掲載します。
Mさんはもう何年も前から目覚めのワークに取り組んでいる。
Mさんの、今後の活躍がとても楽しみ♡
* * *
第13回リーラ瞑想リトリートの感想
「戦った?」。りくたのセッションの際に開口一番、言われた言葉です。
その時はぴんと来ませんでした。
セッションの最後にハートのとても深いところに入っていくと、そこにはとてつもない痛みがありました。
でも不思議とそれは排除すべきものではなく懐かしいものでもあり、抱きしめていたいものでした。
同時に自分が肉体をまとってここにいる理由がそれであることがわかりました。
リトリートのハートに向けたブレスワークの時にまた、深いスペースに入っていくと、そこには痛みがありました。
とてつもなく大きい痛みです。
涙が出てきて、でもその涙は心地よいものでした。
2回目のダイナミック瞑想のストップのステージである洞察がありました。
それは、Ithirst.渇きです。
あのハートの痛みは、渇きだという理解がやってきたのです。
生まれ落ちたときの痛み。
分離した痛み。
「生まれ落ちる」とはうまくいったものです。
だからこそ、源泉に帰るための渇望が生まれる。
それから、あの痛みは個人的なものだけではないような気がします。
もしかしたらすべての人たちが持っている痛み=渇きのような気がしてなりません。
だとしたら、我々はそこから繋がることができる。
そんな可能性を感じています。
だから、それを実現した時は個人の実現だけではなく、人類の実現でもあるわけですよね。
リトリートの後、家である写真集を見ていました。
大震災の写真を見たときに、理解したのです。
私は「戦って」いました。
震災を機にいろいろな不条理が手に取るように我々の前にあぶりだされてきて。
私はそれと戦っていました。
怒っていました。
また職場で、人間関係でいろいろな不条理に怒っていました。
まるでドンキホーテのように。
自分でも滑稽ですが、そうでした。
どおりで肩がこり、背中が痛むわけですよね。
怒りのもとにあるのは分離感。
渇望してもとても及ばない非力さ、焦燥感、現実とのあまりのギャップ。
今回のリトリートは私自身の節目となるものでした。
今までのプロセスがひと段落しました。
そして肉体をもちながら、ハートのスペースと統合していくというテーマが見えてきました。
参加したすべての方、どうもありがとうございました!
2011年12月6日(火) 曇り by ヨガビジャ
今日は寒いですね。。
昨日キヨタカがランニングから戻ってきて、
もみじ林、すごい人だったよ!
よがびも早く行かないと終わっちゃうよ!!ヽ(; ̄∇ ̄)ノ
というので、今朝デジカメを持って行ってきました。
キヨタカ、コンタクトレンズをはずして
走ってるからよく見えなかったのかな?
僅かな紅葉をカメラに納めてうちに戻って来たら、こっちのがはるかに紅葉してました。灯台下暗し。。(* ̄ o ̄)
そういえばうちの庭の「ゆきやなぎ」、
紅葉しながら白い小さな花を咲かせてました。
花が咲くのは春だったばず・・・。ちょっと不思議な光景です。
実はここの庭では山ツツジや大手鞠も葉っぱがないのに、
小さな花を少しだけ咲かせているのです。
季節もワンネスし始めているのでしょうか??
そうそう、アップするタイミングを逃してしまった写真があったので
ここで紹介。
ハート♡が落ちてました♪(*^ 。^)
2011年12月5日(月) by キヨタカ
「悟ろうと悟るまいと〜にも関わらず私は在る(I AM)」という事が解ると、意識の加速化が進む。
しかし、そう言うと…
「あたたは既に悟っているから修行も何もする必要はない」と主張するアドヴァイタ系の教えと同じじゃないか?」
と思われるかも知れない。
しかしアジズが似非(えせ)アドヴァイタとして非難していた教えとは、大きく違う。
いわゆる似非アドヴァイタは、マインドが「自分は既に悟っている」と解釈して、マインドが悟りを宣言してしまうものだ。
しかしリーラスペースのリトリートでは、実際に肉体や思考、感情の背後にある気づきの主体としてのプレゼンス(動かないもの、始めからあるもの、来ては去って行かないもの、永遠なるもの…etc、)即ちI AMをエネルギー的に体験して、そこに立ち位置をシフトする。
この気づきの主体としてのプレゼンスは、広大な意識の海そのものではない。
広大な意識の海へとジャンプする為の、「飛び込み台」の様なものだ。
そこに自分をシフトして初めて、ジャンプが可能となる。
そうして永遠なるものへ溶け去って行く…。
この「飛び込み台」つまりプレゼンスを明確に体験しない限り、どんなにスピリチュアルな本を読みあさり修行に邁進しても、意識の加速化は難しいだろう。
今回リトリートに参加された方のほぼ全員が、I AMを実際に体験された様だ。
はじまりは、ほんの些細なシフトの様に感じられるだろうが、遅かれ早かれ今までの自分とは夢そのものだった事を知るだろう。
I さんから、感想のメールを頂いた。
今回で3度回目の参加で、家でも継続的に瞑想を続けておられる。
もう既にこの広大な意識の海を堪能しておられる様で、驚いている。
あれからまだ5ヶ月なのに!
意識の進化の加速化は、私の予想を遥かに超えている様だ。
* * *
キヨタカ様、ヨガビジャ様。
リトリートでは大変お世話になりました。
今回のリトリートは私にとって特別なものになりました。
今もリーラスペースを思い出すとその場所に居るかのような暖かい気持ちになり、すっかりくつろいでしまいます。
もはやリーラは私の故郷のような気分?・・・
なんだろ~二回目の参加まではそんな風に思わなかったのに。
考えてみたら「にもかかわらず私が在る」と気付いた場所なんだから当然と言えば当然ですよね。
マインドの私ではなく本当の私がそう感じているのでしょうか。
今こうしている時も湖のような静かなハートとプレゼンスを感じています。
実は参加する直前にキヨタカさんのブログを読み焦りました。
(↑注:修善寺日誌「大きな新しい光」2011.11.24参照)
10人が悟る~~?
一体何人参加なの?
着いてみれば参加者は12人。
きゃ~もう無理だ私・・・
と本来のマイナス思考のマインドが諦め宣言をする始末。
でもでもここからが今までの私と違うところ。
「悟ろうと悟るまいと私は在る。気付かなくても私はあるんだ」
それで悟りなんてどうでもよくなって今ここに在ろうと思いました。
これが人生最後のダイナミック瞑想。
これが人生最後のクンダリーニ瞑想。
家でしているよりもずっと身体は自由な動きをみせマインドはどんどん小さくなっていきました。
最終日のハートの瞑想のときには今まで存在する場所さえ実感できなかったハートが湖のようにあることに気がつき静かに私が広がっていきました。
今もすぐに感じることが出来ます。
にもかかわらず私は在る・・・これはすっかり定着したようです。
ありがとうございました。
2011年12月4日(日) 晴れ by キヨタカ
早いもので、リトリートから一週間が経とうとしている。
今日は朝から快晴で、雪の帽子を深く被った富士山が非常に美しい。
遠方のアルプスまでが、よく見える。
Mさんから、リトリート後のご報告を頂いた。
リトリートに参加される度に、より繊細な部分が開かれつつある様だ。
リトリートを受けると、ちょうど今日の富士山の様にマインドや感情の雲が晴れ渡り、富士山に象徴される自己の本性(I AM)が非常にクリヤーになる。
すると自己本来の非常に繊細なスペースが開くので、「今ここのリアリティー」をマインドや感情の雲を通さずにダイレクトに感じられる。
リーラスペースの様に、周囲が安全で守られていてI AMがサポートされている環境にいる間は良いのだが、ひとたび世間に戻るとそういう訳には行かない。
最初は、あまりにもその繊細なスペースが開かれ過ぎてしまう場合もある。
すると、ちょうど皮膚が剥がされて生身の肉がダイレクトに外界に晒された様な状態になってしまう。
すると今まではなんでもなかった事(人との会話やテレビの音や都会の騒音等々)が、実は非常に荒い波動で殆ど耐え切れなくなってしまう事もよく起こる。
そうした場合、再び自己を閉じて以前と同じ生活パターンに戻るか、その繊細さを育める様に日常生活をより意識的に選択して行くか、トリート後の日常生活の中での過ごし方が非常に大切なものとなる。
この繊細さを育みつつ、ぜひ日常の中で上手にチューニングして行って欲しい。
ぜひまた、リトリートに参加して下さい。
* * *
キヨタカ 様
リトリート後は留守中の後始末に明け暮れ、今日やっと一日ゆっくりすることができました。
・・・で、リトリートに思いを馳せて瞑想でも・・・と思いきや、ディープ・パープルのDVD鑑賞で半日が過ぎました。
もしかして私って悟りたくないのかも・・・と思いながら車を運転中、不思議なことに気が付きました。
恩寵の光は常に降り注いでいる。
それをしっかりと感じている自分がいる。
それの中に溶け込んでひとつになっている自分がある。
だけど、日常のマインドのレベルではそれは決してキャッチできない。
!!!にもかかわらず!!!
リトリート後の今、IAM にいたりいなかったりを繰り返すことでマインドが少し変化?しようとしています。
後泊時のOさんのシンギング・ボウル?を聞いたときにリトリートで振動し始めた繊細なエネルギーを守るためなのかハートが閉じる感じがしました。
あの体験はおもしろかったです。
山に籠って修行していた人が里に下りたら人々のエネルギーの荒さに耐えられずまた山に戻っていく。
そんな感じでしょうか。
生悟り?!
でも、リトリートで生悟り経験をした私は日常の生活に戻ったときに別の体験をしました。
思いっきり渇いていた人みたいに日常生活に飛びこんだ。
そして不思議なことに人間的な日常のなかで自然にまだら状態ながらIAM体験をしています。
どちらも楽しい。
真っ白な永遠の今にひろがるスクリーンの体験も、そのスクリーンに来ては去っていく日常の喜怒哀楽や忙しさにどっぷりと浸かっているのも。
これはリトリート効果です。
たぶん日常のマインドレベルがアップしたのだと思います。
そしてふとこんな風に思いました。
これがどんどん定着していったら、マインドが日常のレベルにずっと留まっているとしても結構いける!
(まぁ、完全に定着するにはまだリトリートが必要かもしれませんが)
それで、こんな状態の私の意識が人類意識にポワ~ンと波動を送ることで人類意識も少~し変容したりして~。
そうしたらみんなが今よりももう少し心の平和を感じていられるようになるかもしれない。
素敵~!
・・・というわけで、悟ることよりもむしろ悟りに至る道のおもしろさみたいなものに目覚めた私は次回のリトリートも参加すると思います。
それまではこのまだら悟り状態をうんと楽しむつもりです。
以上のことは、リトリート後の自分のエネルギーを日常のレベルにチューニングする過程で混乱を経験しながら得られた感覚です。
今回はチューニングするのに結構苦労しましたがその過程で例のシンギング・ボウルの体験が生きてきました。
ハートは一時的にふさがれても一度開く方向にシフトすればその状態にチューニングすることで必ず元に戻ります。
ハートが開くという運命には逆らえない。
なんとありがたい運命!?
また何かあれば報告します。
by M
2011年12月3日(雨) by キヨタカ
何か良い事があった場合、そっと胸の内に秘めてそれを育む人と、その体験を他の人に告げずにはおれない人がいる。
それは魂の質の違いだから、どちらが良いとか悪いとかは言えない。
しかしオーガナイザーの場合、後者のタイプが圧倒的に多い。
かく言う私も、典型的な後者。
優れたワークショップや指導者に出逢うと、直ぐに同じ道を歩む人々に話してセッションを受けさせたくなる。
インドのOSHOアシュラム滞在中は通訳を買って出て 仲間がセッションを受けるお手伝いを続けていた。
そして日本に帰ってからは ワークショップやリトリートをオーガナイズする様になった。
「人に告げたくなる」という性分が、為せる業だ。
しかし自分の気に入ったものがあまりにも素晴らしい場合、なんだか他の人に教えるのを躊躇してしまう事もある。
ものすごく気に入った静かで落ち着いた雰囲気のレストランとか、個人リトリートに最適な避暑地とか、幻の名演奏CDとか等々…
マスコミ等で広まったりして他の人々に知れ渡ると、なんだかその醍醐味が失われてしまいそうで ためらいがある。
私が初めてフーマンを知った時もそうだった。「知る人ぞ知るマスター」として、誰にも知らせずにそっとしておくべきだと思った。
だからフーマンのリトリートの時は、殆ど積極的な宣伝はしなかったのだが、いつもリトリートは満杯で新規参加者をお断りする事が重なって 心苦しい想いをしたものである。
先日参加された M.Sさんがリトリートの感想を寄せてくれた。
「正直なところ、誰にも知らせずに、このままの規模で受け続けたくなる”隠れ家的”な瞑想セミナー」と表現して頂き、オーガナイザーとして冥利に尽きる。
M.Sさん、思い切って参加して頂き有り難う。
幸い(?)フーマンの時と違って、リーラ瞑想リトリートはいつも参加枠に余裕がありますので どんどん他の方にも薦めて下さい。
2度、3度と時間を置いて継続的に参加されますと、その醍醐味をさらに深く味わえます。
ご自分のペースで、またの参加をお待ちしております。
* * *
長年追い求めていた疑問の答えを得ることができました
(第13回リーラ瞑想リトリートに参加して)」
東京在住 30代 M.S 職業:起業準備中
私がリーラ瞑想リトリート主催者の天野清貴さんの存在を知ったのは、2ヶ月前のこと。
欧米のアドヴァイタや禅で悟った人々を紹介するブログで、その存在を知ったのがキッカケです。
ホームページに紹介されている本「アジズとの対話」を読んで、「これは、私の長年求めていたものだ!」という強い感覚が起こり、続くフーマン3部作も一気に読み(止まりませんでした!)、「これは実際に一度、参加してみたい!」と強く感じ、新宿のワンデイセミナーを受けてみました。
そこで行われていた「私は在る」→「Beingにくつろぐ」→「ハートを開く」という目的に沿った緩急自在のプログラムと、リードする天野清貴さんの気さくで暖かい人柄にひかれ、初心者にもかかわらず思い切って2週間後の第13回リーラスペース・リトリート(伊豆・修善寺にて開催)に初参加させていただきました。
そこで、リーダーの清貴さんの暖かいリードと参加者一同の真剣な取り組み、そしてスタッフの方々のさりげないバックアップのもと、長年私が悩み、求め続けていた
「愛・至福の感覚と繋がる」
「抑圧意識を手放す」
「愛の感覚を、実際のビジネスとして展開する」
という私個人にとって最も重要であった3つのテーマの答えときっかけを、今回の参加で掴ませていただくことができたと感じています。
あとは、自分の生活に定着させていくだけです。
(もちろん、これがなにより重要ですが)
伊豆の修善寺にあるリーラスペースのロケーションも素晴らしかったです。
2日目、瞑想に疲れて窓の外を見て、「ハッ」としました。
手前に見える山々の上にかかる雲海のさらに上から、なんと透き通るような深青色の富士山がニョキッと頭を出しているのです。
チベットの宗教絵のように幻想的で、「瞑想をもっと頑張ろう!」という気力が心の奥深くから湧きあがってくるようでした。
温泉も気持ちよく、リラックスしながら気分転換することができます。
唯一の欠点が、スタッフの方々が作る菜食料理が、おいしすぎることです。
瞑想リトリートなのに、つい食べ過ぎてしまいました(笑)
同種のセミナー等に比べて、この内容は大変リーズナブルだと感じます。
オーダーメード的な内容で(清貴さんが、個別の相談時間を取ってくださいました)、人数も15人程度です。
終了後の後泊(オプション)も楽しく、夜には清貴さんが会社を辞めるきっかけになった(!)というグルジェフの映画を観たり、様々なスピリチュアル談義をしたりと、とても楽しく、また勉強になるひとときでした。
最後にはなんと、清貴さんから「これ、読んでみると良いよ」と、今の私にとってタイムリーな本をプレゼントして頂きました。
全体的にアットホームさと緊張感のバランスがよく、大満足の参加となりました。
本当〜に参加して良かったです。
正直なところ、誰にも知らせずに、このままの規模で受け続けたくなる”隠れ家的”な瞑想セミナーです。
* * *
2011年12月2日(金) 曇り時々雨 by ヨガビジャ
動物病院ではありません。
今日、ネコ好きな先生がいる沼津の眼科に行ってきました
いつもはコンタクトレンズの定期検診で訪れる病院ですが、今日はリトリート前から頼んでいメガネができていたのでそのメガネの検査のため訪れました。
ここはとても人気のある病院で、いつ行っても混んでいます。
でも今日は待合室が空いていたので「これはすぐに終わるな〜♪」と思って待っていたのですが・・・全然呼ばれる気配はなし。
待つこと30分。
やっと呼ばれて診察室に入りましたが、先生は前の患者さんのことで呼ばれて出て行ってしまいました。
私はひとり診察室に取り残され、薄暗く所狭しと検査機器や先生の趣味っぽいモノで埋め尽くされた部屋をコソコソと i Phoneで撮影を始めました。
ネコは何匹??(・・?)
画像が荒いけど、
ピンクのネコとちーちゃんに似た子を発見。
最初は子供の気をひくためにネコを付けてると
思ってたけど、どうも純粋に先生の趣味みたい。
だって・・・
パソコンのスクリーンセイバーはネコ。
壁掛け時計は(でぶ)ネコ。
(狭い部屋に5つはあったね、ねこカレンダー)
そのカレンダーを押さえるのもネコ。
足元にもなぜかネコ。
なかなか戻らない先生を気にしてか、
あたりをキョロキョロと観察している私を不審に
思ったのか…
看護婦さん、
診察券までネコで驚いたでしょ?^^;
私:そうですね〜。。。(*^ 。^)
(内心/いえいえ、先生のキャラとのギャップが楽しいです♪)
カレンダーがもらえるし、来年もまたこの時期に来ようっと。o(^-^)o
2011年12月2日(金) 雨 by キヨタカ
昨日リトリート参加者Oさんのブログを紹介したが、下記の感想を送って下さったHさんもブログでリトリートの事を紹介して下さった。
ブログを開いてビックリ!
とても素敵なリーラスペースからの風景写真が載っていた。
おまけに、楽しい絵まで…
この場所とリトリートの素晴らしさを私も色々と紹介して来たつもりだが、主催者が行うには限界がある。
さらにまた、主催者側がその素晴らしさを強調すると、紹介された方はうさん臭く思ったり逆にシラケてしまうものだ。
Hさんのブログの様に、参加者の立場から参加者の目線で紹介して頂くのが、最も自然な形で伝わって行くものなのだと思う。
Hさん、是非またリトリートに参加して下さいね!
* * *
キヨタカさん、ヨガビジャさん、こんばんわー。
リトリートでは大変お世話になりました。
ホント、すばらしかったで~す。
もう一生の思い出になると思いました。
わたしは、この日のために自宅でダイナミック瞑想とクンダリーニ瞑想を2ヶ月間ずっと続けてきました。
はじめのうちは、運動嫌いなわたしはダイナミックが苦痛でたまりませんでしたが、キヨタカさんの「もう、毎日やればやるほどいい」という言葉に励まされて続けてきました。
そのうちに、体が勝手に曲に合わせて踊ったり、カタルシスを出したりするのをただ傍観していると、まるで自分のことなのに「へー?何ー?」と驚きを隠せませんでした。
それも、毎日毎日、動きが違うし、出てくる感情の波や質も違っているのです。
まったく驚きです。
だんだんと楽しくなってきましたが、家ではカタルシスが出しきれず、少しだけ不消化な思いがありました。
そして、ついにリトリートを迎え、わたしは完全に消化しきりました。
それも、「こんなにも激しく踊れるのかー!」とまた自分自身の変化にびっくりです。
けして「激しく踊ろう」と決めたのではなく、体が勝手に自分の動きを作り出すのです。
でも、マインドはときどき「もう無理~!やめて~!」とあえいでいます。
それでも、とにかくもう動き出したら止まらない。
まさに、そんな感じです。
「笑い」と「泣き」の瞑想では、「こんなん、何もなしに笑えるわけないやん~!」と思えたのが、いつの間にか笑いながら叫んでいて、「泣き」のときでさえ、絶叫しながら泣いていました。
とにかく感情の波が押し寄せ、させられるがままという感じです。
まさに「これがヒステリーってやつか!」ともうほとんど動かなくなったマインドが小さく悲鳴をあげました。
「自分の中にこんなに激しいのもがあったんや!」とただただ驚くばかりです。
前回のリトで、わたしは、それなりにプレゼンスとビーングとハートを理解したつもりでした。
でも、時間がたつにつれて、だんだんとそのことを完全に忘れてしまっていました。
ただ、強烈なプレゼンスの基となる額のチャクラが、ときどきうずくようになりました。
そんなときは、クンダリーニ瞑想をすると、全体が整うことがわかりました。
だから、クンダリーニ瞑想も毎日欠かせなくなっていったのです。
今回のリトでは、完全に「これ」を理解したつもりでいます。
キヨタカさんの鳴らすティンシャの音で、プレゼンスを意識して。
Oさんのシンギングボウルの音で、富士山のようなビーイングを理解しました。
そして、ハートを一番に感じたのは、リト最後の場面でのおばばさんからの力強いハグです。
(おばばさんは、ハウルの動く城のソフィーみたいな方です。大好きです!)
今でも、「これ」を生活の中で思い出すときに、この3人の人々との場面を思い出すと容易に「これ」に留まれます。
2日目にビーイングを理解したときに、「目を開けてビーイングに留まってください」と言われ、わたしは目を開けたまま微動だにせず不動にいれる自分に驚きました。
わ、目を開けたまま瞑想できるんや!
そう思うと、もっともっと瞑想したい気分でいっぱいでした。
1日目の最初に、頭の上にコップを載せて瞑想するときは、あんなにぐらぐらだったのに!
確実に、たくさんの技法でマインドのゴミがどんどん落ちてくのを実感しました。
ずいぶんとハートも開けてきました。
カラダ全体の変化を感じます。
今でも、「これ」に留まると、こころがとても穏やかです。
ものすごい浄化とエネルギーでした。
いつまでも、瞑想していたかったです。
座りすぎて、右側の足の甲に座りダコができ、一皮むけてもぜんぜん気になりませんでした。
3日目にキヨタカさんから「本当のわたしとは何か」とご指導を受けられてよかったです。
また、そのへんがマインドが働きすぎてあいまいになりつつありましたから。
「本当のわたし」と「肉体のわたし」のどちらを主体に選ぶかを、いつも意識していないと、やはりマインドが勝ってしまいます。
これからは、本当にすべてハートのなすがまま、ステートオブプレゼンスを常に意識して生きることができればすばらしいと思います。
そんな人生への第1歩を引き出してくださった、キヨタカさん、ヨガビジャさんをはじめとしたスタッフの皆様に深い感謝の気持ちでいっぱいです。
そしてまた、わたしのブログにも感想を記載いたしました。
稚拙ではありますが、こちらもご覧いただければと思います。
http://ginironoryu.blog24.fc2.com/blog-entry-147.html
リーラスペースは、本当に自然に恵まれた素晴らしい場所です。
わたしは、本当は銀マットを敷いて寝袋に入り、一晩中、降るような星をながめていたかったです。
(本当に持っていくべきかとか考えてもいましたが、寝不足で瞑想のさまたげになるのではと思いやめました)
また、芝生の上で裸足であるきまわったりして、とても気持ちよかったですが、手入れされた芝生を痛めたかもしれないので、それは少し恐縮しています。
でも、ぜひまた、リーラスペースで瞑想したいと、心からそう願います。
これからも、修善寺日誌を楽しみにしております。
今後のリーラスペースのご活躍をご期待いたします。
by H
2011年12月1日(木) 雨 by キヨタカ
リトリートの感想が参加者の方から次々と送られてきている。
また、自分のブログやSNSに感想を書かれている方も何人かいて、とても嬉しい。
昨年から熱心にリーラスペースの瞑想会等に参加しているOさんも、そんな一人。
Oさんが最初にリーラスペースの瞑想会に来られたのは昨年の夏だったと思うが、もう遥か昔に思えて来る。
意識の進化は、ちょうど多段式のロケットの様だ。
加速化しながら進む。
パワフルだけれども用済みのロケットを切り離す事で、次のロケットが点火してさらなる高みへと上昇して行く。
上昇すればする程、より繊細で捉え難い領域が開いて行く。
1段目のロケットに身を置くと、2段目3段目のロケットは小さくて繊細で、なんだか頼りない感じがする。
しかし用済み(1段目)のロケットを切り離して初めて、2段目がその役目を果たし始める。
その時初めて、2段目の意味を知りさらなる加速化が起る。
リーラスペースでお伝えしている、「プレゼンス→ビーイング→ハート」という図式も、その人が何段目にいるかにより体験が全く違ったものとなる。
Oさんの進化が楽しみである。
下記はOさんのブログに載せられた感想です。
* * *
先日に泊りがけで、リーラスペースが主催する瞑想リトリートに参加してきた。
http://www.leela.jp/index.html
一年前に初めて参加し、今年のゴールデンウィークに次いで、今回で参加が三回目となる。毎回落ち着いて心地よく瞑想することができて、しかも大きな成果があったが、今回も今までに負けず劣らず大いに楽しめた。
初日が主にプレゼンス(気付き)、二日目がビイーング(寛ぎ)最終日がハートに関して焦点を当てて行われた。気付きと寛ぎに関しては、日常生活でも理解が深まってきており、リトリート中でも日常で体験するものと大きな差はなく、今回は日常時と瞑想時の違いがないということを理解するための参加であったかと途中までは感じていた。
それがハートの瞑想を行う際に、ハートに向けて呼吸をすることをしたが、最初の一息でハートが更に大きく開いていく感覚が生じた。それまでは比較的安定して座っていたが、若干瞑想にだらけてきた感もあったのだが、ハートが開くことでそれが消し飛んでしまった。以前のリトリートでかなりハートが開いて、深奥なスペースを感じていたのだが、まだまだそのスペースが深く大きく広がる余地があるのだとわかった。
本来のハートの広さは計り知れないものだが、それを私たちは思考や感情や肉体などにとらわれることで、小さく狭いものにしてしまっている。それが本来の広大無辺な空間にとどまることができると、内面が静かに安定し、恩寵をしっかりと感じ取ることができるようになる。このことは他の何と比較しても比較することができないものである。
以前は集中的に瞑想しても、そのときはいいのだがすぐに効果が消えてしまったり、弱まってしまうことが多かった。しかし、昨年から参加しているリトリートにおいて、効果がすぐに無くなってしまうことがなく、日常生活において、リトリートで体験したことがむしろ深まっていくのがわかる。今までは粗雑なエネルギーや心に働きかけていたのが、より繊細なものにアプローチしているのだろう。それは簡単に消え去ることはない。
以前は気付きや寛ぎやハートの体験も、ダイナミックに感じていたのだが、今回は劇的な体験や体感というのではなく、より深く繊細な領域に浸透していく感じがした。少しずつフーマンが言うところの「これ」が熟してきているように思う。今は多くの人が惑い、社会もぐちゃぐちゃになっているが、少しずつ目覚める人が出てきているようにも思える。
恩寵は常に降りてきているが、それをほとんどの人が感じ取れていない。恩寵を受け取れる人が少しずつ増えてくることでそれらは共鳴していき、個人や社会の変容をもたらしていくことになるかもしれない。そうなるといいと思うが、あまり過度な期待をすることもなく、ただあるということをより体得し、ハートを開いていくことで、そういうことが自然に起こってくるのではないかと今は感じている。
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