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I AM で一切がととのう

2012年9月22日(土)  晴れ by キヨタカ

 「一切事は不生でととのう」とは、江戸時代のマスター:盤珪禅師の有名な言葉だ。
有名とは言っても、禅の伝統そのものが消えつつある現代の日本では、あまり馴染みのない人も多い。

17歳で出家した盤珪禅師は、非常に激しい修業に打ち込むが、その修業が半端ではなかった。
飲まず食わず眠りもせず一週間も坐り続けたり、川の中に立ったまま修業したり、岩の上に坐り続けたために痔に悩まされたり…。

坐禅=苦行という風潮があった当時は、リーラスペースの様な温泉付き瞑想ホールも無いからその様な修業方法も仕方がないけれども。

とにかく、身体を無視してあまり熱心に坐禅をしたため肺結核になり死の直前まで追い込まれる。

ところがそこで大転換が起こり、「全ては不生であった」事を悟る。

やがて「不生禅」と言われる禅風で、大名から庶民にいたるまで多くの人々に法を説いた。

Unknown


「仏心は不生にして 一切事はととのいまするわいの」とは、魂に響く名言だ。

他にも…様々な名言を残している。


「迷わにゃ、活きた仏でござるから、悟ることもいりませぬ。仏になろうとするよりも、仏で居るが造作がなくて近道でござるわいの」

「今、この場にござる衆は、一人も凡夫(ぼんぶ)はござらぬ。みな人々、不生の仏心ばかりでござる。凡夫でござると思わしゃる方がござらば、これへ出さしゃれ。凡夫は、どのようなが凡夫でござると、言うて見やしゃれ」

等々

いつも熱心にこの「不生」というものを説いていたそうで、

「毎日同じ話ばかりしないで、時には人の心もさわやかに入れ替わるような、因縁故事物語でもして下さい…」と頼まれても、

「そのような事を示すは、人に毒を食わせるようなものでござるわいの。」と断言している。

ややもすると、古今東西の真理の言葉を流暢に立て板に水の如く話すマスターが凄いと錯覚しがちだが(…少なくとも私の場合そうだった)、こうした盤珪禅師のシンプルな言葉は深く魂を揺さぶるものがある。


真理とは、実はとてもシンプルなものだ。

この世で一番シンプルだけれども、絶対に否定出来ない真実、それが「私が在る」という実在だ。


I AM で一切がととのう。

悟ろうとするよりも、I AM で居るのが、造作がなく近道だ。

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コメント

I AMで居るが、造作がなくて近道でござるわいの。
それは、IMA(いま)でござるのう。ふむふむ。

しつこく、もう一つ。(ゴメンナサイ)
如何なるか、IMA?
みずから曰く、「鈴虫がリンリン。」

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