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得るものよりも…

2012年9月20日(木) 晴れ by キヨタカ


「私が在る」とは、非常にシンプルで自然で当たり前の事だ。
それなしでは他の全てがあり得ない貴重なもの。
だから覚者はそれを「貴重な宝物」と言い、「求めよ!さらば与えられん!!」と言い続ける。

しかしその貴重さは、「ダイヤモンド」や「黄金」のそれとは違う。
それは「水」や「空気」の様な、いやそれよりも当たり前に存在する「重力」の様なものだ。

非常に当たり前だから、日常生活においてそれを意識する事は殆どない。

だからそれがそれと解っても、これが求めていた答えであるとは信じ難い。

「何か他にある」と思い込む。

これが、探究者がほぼ必然的に陥る罠だ。

参加者のMさんから、感想のメールが届いた。

どうやらこの罠から抜け出し始めた様です。

* * * *


リーラスペース御中

 お世話になりました!

 今回も、得るものがとても多かった、というより、手放すものがとても多かった3日間でした。


 自分は、「I AM」というものを甘く見てしまっていた! ——
 このことを、キヨタカさんとの話などを通じてはっきり知ったことが、今回の最も貴重な経験です。

 「私が在る」「あらゆるものに先立って存在する主体」「これ」——が本当の私であることに、疑いはありませんでした。
 そして、私が在ること自体が、説明することのできない奇跡であるということも、全くその通りです。

 とは言え、実感できる「I AM」の性質は、至福とか叡智と呼ぶにはかなり程遠い、平板なものでしかない…。
 「これだけのはずがないだろうし、いつか、その素晴らしすぎる本質をうかがい知る瞬間が訪れるに違いない」——。
 といった道筋を、頭のどこかで思い浮かべていました。

 ある意味で、「I AM」の状態のさらに先を求めていたんですね。
 「I AM」を一段と絶対的たらしめる、何かを望んでいた。

 でも考えてみれば、そんなもの、あろうはずがない!
 

 そして、今回のリトリートで以前より深く理解できたのは、もうひとつ別の観点からとらえた「I AM」の性質についてです。

 「I AM」は、もちろん「ただ在る」ものだけれど、黙って静止しているだけではない。
 私たちが「I AM」にとどまることによって、それは真の人生を創造して導いていく性質を発揮する、ということです——。

 これも、確かに当然の仕組みなのかも知れません。
 「I AM」が自らを経験的に知るために、この三次元世界をわざわざ創造して転生しているわけだから、人生の流れを「I AM」に100%ゆだねれば、いわば宇宙の意思にかなう形に、自分のあり方や周りの物事がおのずと創造されていくはずでしょう(僕個人の解釈ですけど)。

 ——そんな理解をふまえると、平板とも感じられる「I AM」に安心して寛いでいられます。
 人生の展開を「I AM」にまかせ、自然に起こることを許していられる。

 すると自分が、以前とは確かに違う次元に根ざしていると感じられます。


 「I AM」の探求は早々と修了。そして「I AM」としての人生を生きる道へ、ぱぱっと進級!——。
 そんな歩み方も、可能な時期になったのではとも思えます。

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感想」カテゴリの記事

コメント

>「I AM」が自らを経験的に知るために〜という言葉とても共感できます!理解が深まります!「I am」を信頼して委ねることが重要ですね!

今のわたしにとても必要なメッセージでした。
シェアありがとうございます。

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