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真実は人を傷つける?

2012年10月11日(木) 曇り by キヨタカ

 フーマンの言う「本当に望むものは必ず手に入る」とは、普遍的真実だ。
キリストも、声高に語る。
 
「求めよ!さらば与えられん!!」
 
外側の望むものが必ず手に入るのだったら、「本当の私」という既にあるものが、手に入らない訳はない。
 
時々瞑想会で、
 
「何年も瞑想してますが、本当の私とかI AMとかを体験した事がありません。ぜひ体験したいのですが、どうしたらいいのでしょう?」
 
と、尋ねる方がいる。
 
そういう方に対しては、あの手この手を使って、「気づきの主体」としてのプレゼンスを指摘する事から始めるのだが、どんなに説明しても要領を得ない。
 
最初の頃は、キヨタカの説明が下手だからだと思い込んでいたが、実はそれとは関係ない事を最近ようやく理解し始めた。
 
その人が「本当の私」を体験しない本当の理由は、実は「本当の私」なんか、当の本人が全く求めていないからだ。
 
先日も日誌に書いたが、探究者の多くは「本当の私(Who am I?)」ではなく「こうなりたい私(Who I would like to be.)」を求め続けている。
 
だからその事をズバリと指摘して、その人の目を今の真実に向けさせる事が何よりも大切な事だ。
 
しかし、真実は必ずしも耳に心地よいものではない。
時と場合によっては、真実は人を深く傷つける。
 
かつてカウンセリングの勉強をした時に、セラピストとしての基本的ルールを教わった。
 
そのルールの一つに、「相手のキャパシティに応じて答える」というものがある。
 
知り得た真実を、やみくもにただ相手にそのまま伝えるのは、セラピストとしては未熟だ。
「相手にそれを受け入れる用意があるかどうか?」を見抜いて、それに相応しい対応をする必要がある。
 
だから瞑想会でも「不必要に相手を傷つけない」という配慮が自動的に働いて、つい当たり障りのない説明に終始してしまう傾向がある。
 
しかし「例え相手が傷ついても、それが真実であれば正直に伝えた方が良い」と、今は思う。
 
私がアジズに対して、「何年も瞑想しているのに悟れないのは何故ですか?」と尋ねたところ、
 
あなたは「本当の私(Who am I?)」は、全然求めていない。
 「こうなりたい私(Who I would like to be.)」を熱心に求め続けている。
だから悟れないのさ、ハ、ハ、ハ、と、笑われた事がある。
 
相手のキャパシティなんか全く配慮せず、年齢も瞑想歴も年上の私に向かってそのものズバリと真実を赤裸々に指摘され、私は非常に傷ついた。
 
バカにされた感じがして悔しくて夜も眠れず、一晩中泣き明かした。
 
しかしそれが衝撃となり、コペルニクス的転換が起こり、結果的に「本当の私(Who am I?)」へと導かれる事になったのである。
 
「相手にそれを受け入れる用意があるかどうか?」を判断する事はセラピーの領域での善し悪しであって、真実を探究する瞑想会にそのまま適用されるものではない。
 
相手を傷つけまいとする配慮から真実を伝えない事は、その人のエゴではなく魂をないがしろにしてしまっていたのではあるまいかと、今は深く反省している。

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コメント

これは容易ならざる問題ですね。

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