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わからないにくつろぐと

2012年11月13日(火) 晴れ by ヨガビジャ 
 
きのう久しぶりにキヨタカが借りてた映画を観ました。 
 
タイトルは聞いていなかったけどエディ・マーフィーが主演で、おしゃべり達者な主人公がおしゃべりするたびに寿命が縮んで死んでしまうというもので 
 
スピリチュアルな要素もあるから観ようよ〜 ! ヾ(≧▽≦)ノ 
 
とのことでした。
で、結論としては普通に面白い映画なんですけど、主人公に感情移入できず私的にはすぐに忘れてしまうタイプの映画でした。 
映画としてもっとスピリチュアルなメッセージを織り込める設定だっただけに少し残念かも。 
 
今朝そんな感想をキヨタカと話しながら、自分の「感情移入できなかった」という言葉でなんとなく以前観た「ブレード・ランナー」を思い起こしました。 
 
あの映画は間違いなく名作のひとつなのだと思いますが、なぜか私の中でキヨタカのように手放しに「よかった〜!!」と言えない感じが自分でも不思議だったのです。でもそれがなぜなのか、キヨタカと夕べの映画の感想を話していて分かりました。 
それはレプリカントたちに対してストレートな感情移入ができなかったせいだと感じます。 
 
彼らは強靭な肉体、高度な知能、感情を持ちながら、たった4年という寿命に縛られ死の恐怖と背中合わせに生きている。 
その怖れや苦しみ、怒りが伝わってきて、私の中に痛みが生じ哀れを感じるのだけど、同時に存在する不気味な無機質さや残虐さに近付き難い嫌悪を感じてしまうのです。 
それが私の彼ら対する感情を複雑にし、なにか曖昧な靄のようなものが心に充満して映画そのものの雰囲気のように感じていたみたいです。 
 
愛したいのに怖れがあるーー。 
 
そんな感じ… 
 
そんな相反する感情を自分の中に感じていたのだと思います。 
 
そしてこれを書いていて思ったのですが、人は整理のつかない感情(もやもや感)がある時、それを頭(知性)を通して理解し納得できるひとつの感情にしたい、そんな衝動を持つことがあるのではないかしら?
ある種そうした働きは感情に対する安全装置をして機能するのかもしれない。 
 
でも場合によってはそれが習慣化してしまうと、自分が感じていると思っていることがじつは考えていることだったりして、自然な感情や感覚が麻痺してしまう危険を感じるのです。 
 
明確・明瞭にしたい、理解したいというのは、人類の可能性のひとつだと思うけれど、感情にしろ答えがでない問いにしろ、曖昧さのままに放置しておくこととが一番近道で間違いがないと感じることが多いです。 
 
なぜなら答えは必要なときにやってくるし、感情は常に留まることなくいつの瞬間も新鮮だから。 
どんな感情がいいって、選ぶこと自体無意味ですよね。 
 
ブレードランナーを観終わった後、興奮して話すキヨタカに対して冷めた曖昧なことしか言えなかったけど、今こうして自分の中でひとつ明確になったから、あの時頭で考えた感想を話さなくてよかったと思いました。 
 
Photo
 富士山が 
 自然が 
 おだやかに 
 輝く季節です
 

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コメント

ボーディダルマのこんな美しい話を思い出しました。

中国のエンペラーが、ボーディダルマに尋ねました。
「究極の聖なる真理とはどういうものですか?」
「カラリと晴れ渡って、聖なるものなんてないわい」
「朕に向かってそんなことを言うなんて、あなたはいったい何者なのです?」
「知らぬ」

エンペラーは全く理解することができませんでした。
ボーディダルマが去ったのち、側仕えの僧がエンペラーに尋ねました。
「陛下、あの人がどのような方だったかおわかりですか?」
「いや、知らぬ」
「あの方こそまさに観音菩薩でしたよ」
エンペラーは後悔して、ボーディダルマを追わせたのですが、戻ってくる事はありませんでした。
この話はOSHOの講話の中で直接聴いた記憶があります。

エンペラーの「知らぬ」は「I Don`t Know」、ボーディダルマの「知らぬ」は「NO KNOWING」といったところでしょうか。
もう一つ言うのならば、
ABSOLUTE-NO-KNOWING-NESS ?
余計な事を言って最後にしくじりましたか(;´д`)

そう言えば・・

「神の寝巻きを着た男。あな恐ろしや。」

このコメントへの返事を忘れていたのを
ふと思い出したので・・失礼しました。

・・これは・・人の褒め方を知らない人のもの様に思う。

宝石のような輝きを持った人が身に着けるものは
たとえシルクでもボロ布にか見えない と

思うべきだったと思います。
 
たとえ神の寝間着でも、中身が案山子のようっだったなら、
神の寝間着にどんな意味があるのだろ

そうは思いませんか? 

とはいえ、折り返し線を入れて頂いたお陰で
その先が続けられたと思っているので

感謝しています。ありがとう^^

これで、最後ですからー。また いつかね~☆

僭越ながらもう一つ折り返し線を・・
何の輝きも持たない人が身に着けるものは
たとえボロ布でもシルクにか見えない?
ごめんなさい、私の事ですよ。
輝きを持つ人と、輝きを持たない人を別々に見る、というところに葛藤があり、断絶がありはしないでしょうか?

・・難しすぎて、わからん。

断絶よりは、

断崖の先端に立ってみた方がいい

今日のキヨタカさんみたいに・・

葛藤もおそらく消えて無くなる(^^;

そういう危険に満ちた生を、選べる人は幸運だと思います。
 

なるほど。
ぷらまたさん、またぷらぷら来てくださいね。って、自分のブログじゃないけど。

ありがとう。 また よろしくね(^^

a101 さん

直接OSHOの講話を聴かれたのですね。

私はOSHOの禅の講話に出逢わなかったら
それほど禅に惹かれなかったと思うし
理解もできなかったと感じています。
ボーディダルマの話も好きで何度も本を読みました。

私は英語に疎いのでコメントの最後の部分の感覚が
掴みにくくてキヨタカに確認したら腑に落ちました。

I don't know.とNO KNOWING.
(NOT KNOWINGだったような?
 たいしたことではありませんが…)

確かに最後から2行目は
いらなかったかもしれませんね。
先の2つの言葉で最後の英文の香りは届きますから。
語らずして語る
それが最善の伝達なのかもしれませんね。

「語らずして語る」・・その通りではあるけれど・・

う~ん・・・アートだなぁ(^^;

こう理解してみれば、その科学をあなたも
知ることが出来ると思う。

断絶と断崖の間に、その秘密があるようです

断絶 という言葉から 一つのビジョンに
瞬間的に置き換えられてしまって

マインドは置き去りにされたことには
本人も気が付かない・・ 

いかにして
マインドを置き去りにするのか・・それが

そのアートの 全てですよね~(^^;

マインドを置き去りにしようとしているのは誰なのか。
置き去りにしてどこに行きたいのか。
行くべきどこかが果たしてあるのか?

こういったことすべてが分断なのですね。
知るということは、知るものと知られるものに分かれてしてしまうことでしょう。

分断しないままで、ただいることはできるのでしょうか?

マインドにはマインドの役目があるのだから、放っておけばよいのでは?
それはあなたの敵ではないのですから。

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