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無用の用

2012年12月14日(金) 晴れ by ヨガビジャ 

今、修善寺駅の周辺は『訪れやすくすみやすい』を目的とした整備が進められています。 

その一環と思われますが、駅の裏にあったレンタカーの営業所は駅前に移動し、その隣にあった空き地は駐車場になりました。

その空き地は私たちが修善寺に住み始めた10年以上前からあり、きれいに刈られた生垣は季節の訪れに合わせて白やピンクの花を咲かせ、小さな花壇の花も私たちの目を楽しませてくれていました。 
 
また、天気のいい日には十人ほどのお年寄りがゲートボールを楽しんでいて、お年寄りたちが談笑している光景は心和むものでした。 
 
今そこにあるのは、生垣も花壇もなくなった更地の駐車場と車。 
今、あのお年寄りたちはどこにおられるのかしら?
 
あの空き地はお年寄りたちにとって、とても居心地のいい空間であり時間だったはず。
 
高齢化社会と増加する医療費、福祉制度など多くの問題を抱えている今、すでにあったこのような貴重な場所をなくしてしまうことになんの疑問を持たない感覚を恐ろしく感じます。 
 
また、うちの周辺の別荘地も売れ残った別荘がたくさんあるにもかかわらず雑木林の山はどんどん伐り開かれて売地となり、それでも売れずに年月だけが過ぎすすき野みたいな荒れ地になり、すかみとエサを失ったイノシシは住宅地や畑を荒らしその対策に追われます。 
 
駐車場や新築別荘からの収益は地域経済を潤しているのかもしれないど、それは全体の中のほんの一面に過ぎない。
そしてその一面が全体に及ぼす影響は小さくない。 
 
経済、高齢化、福祉、雇用…あらゆる問題に対し局所的に対処しても解決は見出せない気がします。(政治・経済に疎い私が言うのもなんなのですが…) 
 
きっと完璧な解決というのは存在しないのかもしれない・・・ 
 
でも、常に現状をより良くしたいという想いは人の自然な欲求。 
同時に、それもある一線を超え始めると不自然な欲求へとすり替わっていく、そんな危うさも感じます。 
 
無用の用、そんな視点が必要になってきているのではないかしら? 
 
空き地は「無用」みたいだけど「用」を成してる。 
車のハンドルだってブレーキだって、すぐには効かない「あそび」があるからこそ用を成す。 
 
これまでは即効的、即物的「有」が重視されてきたけど、今は曖昧で定義付けできない「無」の方の価値に気づかないと、立ち行かない時代に入っているように思えます。 

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コメント

「木」偏に「無」と書いて何と読むと思います?

これで「ブナ」と読むのですが、東北地方の山岳地帯は多くがブナの森になっています。

無用の役に立たない木だと思われていたのですね。
ところがこの森が水を育んでいたのに気がついたのは、ごく最近の事です。

もの言わずして豊かに貢献している。瞑想者もまたそのようなものなのでしょうね。

OSHOがこんな事↓を言ってます。

私たちは、利用価値によって人びとを計ろうとする。
私は、なにも役に立つことをするなと言っているのではない――役に立つことをするがいい。
だが、生とエクスタシーの大いなる体験は、役に立たないことをすることから生じるということを覚えておきなさい。
それは詩を通して、絵を描くことを通して、愛を通して、瞑想を通してやってくる。
商品におとしめることのできないなにかをする能力があって、初めて最も偉大な喜びがあなたを押し流す。
報酬は内側にある。
もともと備わっている。
それは行為そのものから湧き起こる……。

 だから、自分は役立たずだと感じても心配することはない。
私はあなたの役立たずも使う。
私はあなたを大きな葉むれのある巨木にするつもりだ。
それに、役に立つ活動にたずさわっている人びと……彼らは、たまには木陰で休む必要がある。

Osho THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.2, pp.308-309, 311-312

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