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ひとりじゃない

2013年2月16日(土) 曇り時々晴れ by ヨガビジャ 
 
仏ほっとけ神かまうな。

これはキヨタカの家の家訓といったら大袈裟だけど、今は亡きお父様はこのタイプの方だったそうです。だからキヨタカも子供の頃からそう思って育ってきました。このことは恩寵の扉や覚者を求めてにも書かれていますからご存知の方も多いですよね。 
(ちなみに今はフーマンのおかげでそれはなくなったようで、神社に行けばちゃんと手を合わせて「100円も入れちゃった〜♪」とか言ったりしてます) 
 
かたや私の家では父はキヨタカのお父様と少し似たタイプですが、母は朝晩欠かさず仏壇と神棚に手を合わせていました。私はそんな母から「いつも神さま仏さまがみてるからね」と言われていたので「目には見えないけどだれか偉い人(?)がいるんだ〜」と思って育ちました。 
(神さまがみてるから大丈夫、ではなくて神さまがみてるから悪いことしちゃダメよ的な感じでしたが) 
 
私が知るかぎり、カップルは正反対の価値観を身につけているケースが多ようで面白いなと思います。 
 
じつは昨日、近くの神社にお参りに行きました。 
 
拝殿に向って手を合わせ、無事に過ごさせていただいていることへの感謝とこれからも変わらぬお導きをお願いしていたらハートの辺りがほんわかとしてきました。なんだか神の存在をリアルに感じられて。 
(それを神って言っていいのかどうかわからないけど)
 
それは光が見えるとか、神々しいエネルギーが降りてきたたとかそういうことではないんです。
 
ただ神社のような場所にいたり手を合わせることで、自分の内からあるムード、あるいは香りのようなもの醸し出されます。
 
それが外に向かって溢れるというか、もともと外側にもあったそれが内からも溢れてそれと響きあっているというか、言葉で表現するには無理を感じるけど、この感覚を私たちは神あるいは神性と呼んでいるのではないかと感じました。 
 
参拝を終えその香りを感じながら境内を歩いていて、この感覚を自分の内にも外にも感じられる状態のことを、もしかしたら弘法大師は同行二人と表現されたのかしら?なんて思ったんです。
でも私は弘法大師の教えには触れたことないから、いいかげんなことを書いているのですけどね。 
 
そして今朝そのことを思い起こしていたら、急に「神との対話」の映画の最後のシーンが脳裏に浮かびました。 
 
雨の中、すべてを失い行く当てもなく立ちつくす若き日のニール。 
そしてその横に歩み寄る、すべての苦さも痛さも通り抜け、自らの経験と理解を人々に分かち合う成熟したニール。
 
若き日のニールには隣にいるニールは見えないけど(たぶん)、隣のニールは若き日のニールを励ますような、慈しむような眼差しを投げかけています。
 
そして、ふたりは歩き出します。 
 
私にとって、とても印象的な場面です。 
 
きっとこんなふうに、神か、未来の自分かはわかりませんが、私たちはいつも様々な存在とともあるのだということが昨日の神社で想い起こされて、なんだかうれしくなりました。 
私たちはひとりじゃないって。

 
 

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