« きれい? | トップページ | ゆきやなぎ »

書くという魔法

2013年3月18日(月)曇り時々晴れ by ヨガビジャ 
 
数日前まで、私の書いた旅行記にコメントをくださった方と少しメールでやり取りをしていました。 
 
そのやり取りのなかで気づいたことをシェアしたいと思います。 

 
私の育った頃の家庭環境は円満とはいいがたいものでした。 

 
しかし私が成長して親元を離れ、時間が流れて、そして親には孫やひ孫ができて家族構成も状況もすべてが変わっていきました。 

 
その変化に呼応するように、父も母も姉も私も自然に変わっていきました。 

それは時間の経過とそれぞれの経験によるところのものでしょう。 
 
でも私にとって決定的だったのは、フーマンと出逢って以降、
昔から続く家族との関係に由来する思考や感情のパターンが、今の自分に多大な影響を与えていることに意識的になったことと、そのことに対しコミットしようと決めたことです。 
 
以前は家族のことを思うだけで胸が痛くなったり、自分がしあわせを感じる時に後ろめたさや責任のようなプレッシャーを感じて、無意識の内に気持ちが塞ぎ込み深刻になりやすかったのです。 

その深刻さが家族との関係にとても長く、根強く残っていました。 
 
そしてその深刻さを取り除くのに、この日誌で書いていた旅行記がある役割を果たしていたことに気づいたのです。 

 
両親との旅行を振り返りながらここで書く時、不特定多数の方の目にとまるブログの性質上、読まれた方の読後感がいいものであって欲しいという思いがあります。といってもウソややらせは一切ありませんけどね。。

その読まれる方を意識して書いてきた結果、今のような旅行記のスタイルができ上がっていきました。 
 
そこに出てくるのは旅行中、私にとって印象深い情景だったり、おもしろい会話だったり、自分の心の声だったり・・・。 
 
旅行記を書いているときは書きながら自分で「ぷっ!」と吹き出したり、知らないうちに顔が緩んでいたりしていて、両親たちを身近に感じながら旅行を追体験しているみたいなのです。 
 
だから、旅行記を書き終えるのに要する長い時間とエネルギーは私とって楽しいものでした。 
 
するとなんと、その楽しい感覚が、これまで家族を思うと湧いてきていた痛みと深刻さを楽しいエネルギーへと書き換えていたみたいなんです。 
 
 
旅行記を書く 
  ↓ 
思い出すと楽しい 
  ↓ 
次ぎの旅行が楽しみ 
  ↓ 
家族の喜ぶ顔を想像 
  ↓  
さらに楽しい・・・ 
 
 
こんな<楽しいのローテーション>が私の中に生まれていって、現実の両親と接するときそのエネルギーのせいで、今まで感じていた深刻さや重さがない!という現実を創造していたみたいなんです。 
 
だから、文章を書くのってすごい!と思ったのです。 
 
書くことで、知らないうちに自分の中でなにかが変わって、それが現実に影響を与えて変化を起す。 
 
 
そしてまた、旅行記にコメントをくださった方とのやりとりを通してこのことに気づかせていただいたのですから、これもまた書くこと…なんですよね。 
 
書くことを、私は自分自身との対話のように感じることがありますが、その時そこに存在する特定の誰かや、読んでくださる不特定多数の方々が気づきや理解を引き出してくださる。 
 
人と人とはこんなふうに相互にかかわり合って生きているんですね。
気づいてなくても、私たちはどんなときでも分かち合っているんです。
 
ありがとうございます。^^  

Img_0104_2
 オオイヌノフグリ
 
 
 
 
 
 
Img_0096 クロッカス 
 

 
 
 
 この子たち、 
 自分たちがたくさんのものを 
 分かち合っていること 
 知ってるかな?^^

« きれい? | トップページ | ゆきやなぎ »

日常」カテゴリの記事

コメント

いつもすてきなシェアをありがとうございます。

分かち合う・・って、壁がないやさしいことばですね。

ヨガビジャさんの書いてくださることが私たちの胸に響くのは、ヨガビジャさんが中立の・・つまり、分かち合っているところで書いてくださるからなんですね。

わたしは、誰かより先に知ったこと、気づいたことを伝える時、無意識に「教えてあげる」という態度でことばを使ってしまうことがあるんです。(毎回ガーンとします。大反省)

でも今日は、分かち合う・・・いつもそんな態度でいられたらいいんだなって、分かってひとつスッキリしました♪


また、ことばを受取る側もニュートラルでいないと気づけないのかも?とふと思いました。

自分の内側から生まれる言葉や誰かを通じてやってくる言葉は、受取る準備がととのったからプレゼントされる?とも感じたりして。


「気づいてなくても、私たちはどんなときでも分かち合っている」

ほんとうに・・・ほっとする、癒されることばです。
ああ、このまんまでいていいんだなあ~って。
ありがとうございます!


うちの近くの公園ではモクレンが満開です。
今朝は大木のハクモクレンと一緒に風にゆれてみました。
あやしい・・・( ̄ー ̄;)ゞ

でも、分かち合えたかな。。。


わわわ、コメントなのに長くなってすみません!!

まるみ さん

いつもありがとうございます♪

私も昔は「自分が」知っていると思っていたんですけどね、、
自分の理解や自分が知っていることは、生きていく中で出逢った誰かとの会話や経験、本の言葉や自然とのふれあい、他の生命とのふれあい…。
様々な出来事を通して起きているんですよね。。
だとしたら「自分の」とか「自分が」といえるものなんてあるのかなあ?と思い始めました。

私がなにかを受け取って、そこから得たなにかを他の人にも伝えたい、、、。
その循環のことを分かち合いというのかなと感じます。

それは私たちが気づいてなくても、いつだって起きている事で私たちは相互に影響を与え合っている。
だから自分は無力だとか、なんの影響力もないとか、価値がないなんてありえないんですよね。


>また、ことばを受取る側もニュートラルでいないと気づけないのかも?とふと思いました。

 そうですね。。
 からっぽの方が受け取りやすそうですね。


>自分の内側から生まれる言葉や誰かを通じてやってくる言葉は、受取る準備がととのったからプレゼントされる?とも感じたりして。

 プレゼントが差し出されていても、受け取る側の両手が
 塞がっていたら受け取れないですもんね。
 ということは、受け取る準備とは両手いっぱい持っている
 ものを手放すことかもしれませんね。
 「貧しき者は幸いなり」ってこういうことかも?(・・?)


>うちの近くの公園ではモクレンが満開です。
 今朝は大木のハクモクレンと一緒に風にゆれてみました。
 あやしい・・・( ̄ー ̄;)ゞ

 でも、分かち合えたかな。。。

 楽しく一緒にいられたのでしたら
 分かち合いは起きている気がしますね。
 それはフィーリングで感じられるものなのでしょうね。。


そうそう、「毎回ガーン」は私もよくあります。
特に身内(主にキヨタカ)に対しては古いパターンがでてきます。でも私の場合大反省とまではいかず、ちょこっと反省なので「カ〜ン」と軽い音がしておしまいです。^^;
 


さらに理解が深まった気がします。

ありがとうございました♪

あ、「カーン」の音と共に絵も浮かんじゃいました!!!(大笑

こちらこそ、ありがとうございます♪

やはり私はこうしたやりとりの中で気づくことが多くて、本当にありがたいです。

大笑、いいですね〜。。
だんだん軽くなることで、笑えることっていっぱいあったんだって気づきましたよ。o(^-^)o

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« きれい? | トップページ | ゆきやなぎ »

メインホームページ

リンク

無料ブログはココログ