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3トウ

2013年5月12日(日) by キヨタカ

悟りは必ずしも瞑想によってのみもたらされるものではない。 
 
フーマンの様に、普通に生活していて27歳のある日出勤途上の駐車場で光明を得るラッキーな人もいる。 
 
また禅の6祖慧能(えのう)は、文盲ながら通りすがりに金剛般若経の一節「応無所住而生其心」の読経を耳にして大悟したという。
 
お釈迦様によれば、こうした人々は「駿馬」であり鞭の影を見ただけで走り出す事が出来る天才だ。 
 
しかし「駄馬」は血だらけになるまで鞭で打たれても走ろうとしない、と言う。
 
「瞑想なんて隠居後の暇人がするもので時間の無駄!」と馬鹿にして、ハナから相手にしないのだ。
 
しかしそんな駄馬でも、恩寵による救いに限りはない。 
誰でも悟れる、さらなる道が用意されている。
 
それが、「3トウ」と言われているもの。
3トウ、とは3つのトウの事である。
 
つまり、「闘病・倒産・投獄」という状況が人生にもたらされる事で、魂が目覚めると言う。 
 
この「3トウ」という話は人づてに聞いたのだが、色々な人物を調べてみると確かに「3トウ」により魂の目覚を体験した人々が大勢いる。 
 
歴史上の裏付けもあり、なかなか説得力がある。 
 
だからもし「3トウ」を全部同時に経験する超ラッキー(?)な人がいたら、悟る事は間違いナシ!
 
「世の中は広いから、そんな人物もいるに違いない」と長いこと思っていたが、昨日遂に母と訪れた本屋さんで下記の本を発見!
 
「断・捨・離」実践中にも関わらず、思わず買ってしまった!
 
Photo_13
著者の田中氏は、元 東京地検特捜部の検事。
 
弁護士に転身してからは「闇社会の守護神」と言われ暴力団幹部の弁護等あぶない橋を渡りつつバブル期の栄華を極めた。 
 
ところが一転、詐欺事件で有罪となり弁護士資格を剥奪されて獄舎につながれる。 
 
さらに胃がんにより刑務所内で手術・抗がん剤投与と、人生のどん底を極める。
 
そんな中で子供の時から親しんでいた「論語」に救われた体験を綴ったものだ。 
 
「論語」では救われず「老子」で救われた体験を持つ私としては、数年前の私だったらタイトルを見ただけで敬遠していただろう。 
 
しかし今は、読んでみてとても面白く感じる。
 
学生時代に習った論語は、学者が解釈を色々とこね回す退屈極まりないものだった。 
ところがここに描かれている論語は、筆者の生々しい実体験がベースとなっている。 
筆者と孔子の生き様が論語を通して響き合い、読んでいて面白くとても解り易い。
 
「六十にして耳従う」というが、ようやく自分とは価値観の違う人の話に素直に耳を傾けられるようになった。
 
そういえば50代の一時期「天命」に夢中になったが、「五十にして天命を知る」と孔子は言う。
 
人生に悩んで道を求め始めたのが15歳(「吾れ十有五にして学に志ざす」)だから、論語とは無関係と思いつつもいつの間にか孔子の言う通りに人生を歩んで来たのかも知れない。
 
多少こじつけではあるが、現パートナーとの出逢いが42歳(「四十にして惑わず」)、童貞を失ったのが29歳(「三十にして立つ」)である。 
 
未だに現役バリバリの私ではあるが、70歳になる頃には果たして「七十にして心の欲する所に従って、矩(ノリ)を踰(コ)えず」と言える様になるのだろうか? 
今から楽しみである。
 
ところで駿馬でもなく、そうかといって3トウも体験したくない普通の馬にとっては、やはり瞑想が一番安全確実な悟りへの道だと思うのだが・・・

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コメント

子いわく(言ってませんよ)、
「70にしてなお立つ」
「しかれど80にしては、もはや立たず」
否。関山慧玄和尚、84歳にして立ったまま亡くなり給ひぬ。
良い子の皆さんは、こんなこと言ってはいけませんよcoldsweats01

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