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2013年6月

ハートの詩

2013年6月30日(日)曇り時々晴れ by ヨガビジャ 
 
Img_2394  どんな花をみていても 
 私の内にはある感覚が 
 
湧いてきます 
 
 
 
 
 
 
 
 

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Img_2469 
 
 
 
 
 
 
Img_2456 
 ねじ花を見てると 
 旋回舞踏のイメージと 
 フィーリングがやってきます
 
 
 
  
 それで
旋回舞踏を 
 グーグルで検索してみたら 
 イメージ通りの画像がありました

 
Img_493692_373526_0 こんな感じ 
 
 
  
 
 
 


そして、この写真が掲載されていたブログにはこんな説明がありました。 
(一部抜粋) 

メヴレヴィー教団… イスラム教神秘主義者・メヴラーナことジェラルディン・ルーミーによって開基された。 
 
セマーという旋回舞踏… 一心不乱な旋舞により神との一体感を体得する。 
 
 
・・・略 
 
 
現在は、トルコ革命により
メヴレヴィー教団は解散させられたため、観光客向けのセマーのみ許されている。

 
・・・略 
 
 
メヴラーナ・7つの格言 
 
 1、施しと救いは、流れる水のごとく 
 
 2、愛と慈悲は、太陽のごとく 
 
 3、他者の欠点を覆うには、夜のとばりのごとく 
 
 4、怒りと苛立ちは、死のごとく葬り 
 
 5、優しさと謙譲の心は、大地のごとく 
 
 6、寛容の心は、海のごとく 
 
 7、自分自身であれ、もしくは、あるがままであれ 
 
 
*** 
 
この7つの格言は深く私のハートに響いて浸透しました。 
 
一般的な教団では戒律になりそうなこれらの言葉。 
 
でもこれは違う。 

これは祈り。 
 
美しく受容的な、開かれたハートによって紡がれた詩。 
 
小さな花から伝わる同じエッセンスが 言葉として咲いてる・・・ 
 
そう
感じました。

 
これほど美しく純粋な言葉に出逢ったのは初めてです。 
 
 
最後に、旋回舞踏の動画もありましたので興味のある方はどうぞ。 
 
観ているだけで、私はその世界へと引き込まれました。 

 
 
Sema Mevlana セマー メヴラーナ.mpg 
 
(こちらは儀式の様子が忠実に撮影されている感じ)

 
トルコ 世界遺産・メヴラーナ教の舞 聖地-コンヤの貴重な映像 
 
(こちらはナレーションの説明が入っていて分かりやすいです) 

風のように

2013年6月29日(土)晴れ by ヨガビジャ 
 
Img_2366c 
 彼らは
 
静止した今に
 
いる
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_2232 
 
 
 
  
 
彼らと
一緒にいることは 
 サットサングのよう

 
 自分をとおして 
 彼らを感じる 
 
 
風のように 
私を通りぬけていく

先客

2013年6月28日(金)晴れ by ヨガビジャ 
 

今朝、長靴をはく手間を惜しみ運動靴で写真を撮っていたらGパンの裾から入ったブヨに足首を刺されて痛がゆいです。
 
 
やっと左足が治りかけてきてたのに、今度は右足・・・
(T_T) 
 
さて、今年も庭のグラジオラスが
やっと咲き始めました。 
 
風雨で倒れた1本のグラジオラスを隣りの雑草を利用して立たせ「さて♪」とデジカメを構えたら、、、

「待ってました〜♡」とばかり飛び込んで来たのは、
 
Img_2328 
 マルハナバチくん
 
 
 
 
  
 
 
 頭をぐいぐい奥へと入れて 
 ほとんど浮いてる後ろ足と
お尻が 
 キュートでした。。^^ 

誕生日

2013年6月26日(水) by キヨタカ

今日は私の59回目の誕生日!
 
大勢の方々から祝福のメッセージを頂いた。
 
個別にお返事する事が出来ませんので、この場をお借りして御礼申し上げます。
 
皆さん、どうも有り難う。
 
Photo
ところで実に不思議なもので、毎年の誕生日を迎える度に心身ともに健康になり(…昔から健康だったけどcoldsweats02)、最近増々元気になっている。
 
先週の水曜日(19日)は、久しぶりに超ド強風のハードコンディションでウィンドサーフィンをした。
 
さすがのベテランも尻込みする状況の中、楽しく乗りこなせる様になった。
 
 
ショップのオーナーに、ブログで「天野さんの上達ぶりが凄くて皆さんでビックリしちゃいましたね!」と褒められた(…呆れられた(^-^; )
 
最近はリーラスペースのイベントを控えている上に、ブログも更新していないので、中には「落ち込んでいるのでは…?」と心配されている方も居られるらしい。
 
でもとても元気なので、ご心配なく!
 
ただ、今はちょっと別な方面にエネルギーを注いでいて忙しく、しばらくの間ブログの更新はヨガビの方に一任しています。
 
やがてまた復活しますので、お楽しみに♪
 
今日は誕生日なので、ヨガビのプレゼントで映画を見に行った。
 
タイトルは:「俺はまだ本気出してないだけ」
 
なにやらとても意味深なタイトルだが、とてもユーモアのセンスに溢れる秀作!
 
「私の人生もこれからが、本番だ!」とマジで思わせてくれる事間違いナシ。
 
誕生日のプレゼントに相応しい、素敵な映画でした。
 

ハートを感じるとき

2013年6月23日(日)晴れ by ヨガビジャ 

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 朝、鳥のさえずりといっしょに  
 深いフィーリングも 
 目覚めていく

一本の木から

2013年6月22日(土)晴れ時々曇り by ヨガビジャ 
 

久しぶりに今日は朝から陽が射していました。 

 
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一雨ごとに植物の成長の早さに目を見張る今日この頃
。 
 
写真を撮っていたはずが、 
いつの間にやら草抜きをしている自分に気づいたりします。
* o ̄)アレ? 
 
そんな時は考えるでもなく、いろんな想いが私の中を行き来します。 
 
そのひとつ。
 
庭に一本の木があるだけで、その周辺の生態系には大きな影響があります。 
 
日陰になる木の下の地面には苔類などの植物が多くなり、秋に落葉の掃除をさぼっていると堆積した葉が腐葉土と化しミミズやいろんな生き物が増え、するとそういった生き物を目当てにイノシシがやってきて・・・と連鎖は続き。。 
 
この木に限らず、私たちもただ存在しているだけで決して少なからぬ波紋を周囲に投げかけているのでしょうね。
 
だからといって、
いい感情を持とうとか、いつもポジティブでいいようとは私はあまり思えなくて。。(ネガティブを推奨するつもりはないけど)
 
どんな波紋であれ、
その瞬間の自分に正直でいたい。 

するとその結果返ってくる波紋が(たとえどんなものであれ)
必ず自分を本来のところへと導いてくれる気がするのです。 

あるべき自分、ありたい自分より
今の自分。 

一本の木から、するするっと出てきた想いです。 

(雨上がりの草抜きは根っこまでするっ♪と抜けるから楽しい。^^

ナルシスト

2013年6月20日(木)雨 by ヨガビジャ 
 

小雨のなか買い物から
戻り、車のバックドアから荷物を取り出してドアを閉めたら、 

Img_2028  
 
 
 
  
 ←くっついてました。
 
 
  
 いつからここにいたんだろ?(・・)

若返り?

2013年6月11日(火) by キヨタカ

現在実家に帰省中。
 
最近の母はどんどん元気になっている様だ。
 
血圧測定も正常、血液検査も正常で、レントゲン検査でも別段異常はない。
 
一番驚いたのは、コンタクトレンズを新調するため眼科に行ったところ、矯正視力が1.0だっだ事。
 
頭の回転や記憶力も蘇っていて、以前の旅行の記憶なんか私よりずっと良く覚えている。
 

Photo

90歳になって若返りはじめていて、驚いている。
 
しかしそのお陰で、なんだかんだと私に対して非常に口うるさいのが玉にキズで…
 
以前の様に少しぼけ気味だった頃の方がこちらも楽だったな〜と思うのは、贅沢な悩みだろう。
 
このままだと、母の姉と同じく100歳の壁を突破しそうな生命力だshock

彼方のブルー

2013年6月11日(火)曇り時々雨 by ヨガビジャ 
 

小山の庭で不思議なものが目にとまり、忙しかったけど思わず2階までカメラをとりに行きました。
 
Img_1978_3 
 
 撮ったのは、
 

 
 
コレ
 すみれの種がこんな風になってるなんて
 初めて知りました。
 
 
みっちりつまってるのね。。( ̄。 ̄;) 
  

Img_1986 
 時期を過ぎて
 花が咲き始めた春菊にいた
 てんとう虫(?)もどき
 
 スイカみたいに
 
てんとう虫にも
 赤や黄があるのだろうか?(・・?) 
 
  

 
Img_2008 パセリも
 つぼみが出来てる
 と思ったら・・・ 
 
 
 
 
 
 
 

 
Img_2009
 
 花が咲いてた
 
 
 
 
 
 
 
 
 


Img_1996
 
 これも
 なんの野菜が終わった後か
 正体は分からないけど、
 
 
 めしべがかわいくて・・・
 
 
 
 

Img_1999
 
 
そして、 
 このブルーがとても好きで・・・
 
 
 
 
 
 
 
  

Img_2002 
 
 
 
ブルーは 
 意識を彼方へと運んでくれる 
 
気がする

とっておきの写真の2

2013年6月10日 by キヨタカ

昨日、自分の「とっておきの写真」について述べた。
 
「自分が最高の輝きを放っている瞬間の写真」を祭壇に飾るという事だが、人によっては「最低の瞬間の自分」を飾るという事が役立つ場合もある。
 
一番有名なのが、徳川家康の三方原戦役画像だろう。
 
447pxmikatagaharasenekizou_2三方原で起きた武田信玄との戦いに由来した、肖像画だ。
 
家康が生涯で唯一の負け戦を忘れず、心のおごりを戒める為に敗戦で憔悴しきった自分の姿をわざわざ絵師を招いて描かせたという。
 
そして生涯手元に置き、手放す事はなかったそうだ。
 
「最高の自分」を受け入れることは比較的容易だが、「最低の自分」を直面してそれを超えて行く事は容易ではない。
 
本当の自分とは、「最高」と「最低」を離れたところにある。
 
「死」と向き合う事が日常だった戦国の武将達は、自ずと達観した境地が目覚めていた様に感じる。
 
 
実は、私にもこれと似た様な「最低に落ち込んだ時の写真」がある。
 
学生時代に諸般の事情で一切の夢が破れて、一年間引き蘢り状態だった時に撮られた写真だ。 
 
とてもブログにアップ出来る写真ではないが、不思議な事にそれを見ると妙に慰められた。
 
写真を撮られた時は、「こんな人生を生きていても無意味だ!」と、とことん追いつめられた。
 
ところが数年後にその写真を見ると、とことん追いつめられていた当時の自分をとても愛おしく感じるのである。
 
ただそっと寄り添って、「それでも大丈夫なんだよ!」と囁きたい気持ちになる。
 
だからずっと手元に置いておいた。
 
家康とはその意味合いがかなり違うけれども、なかなかに味わい深いものがある。
 
だからもし今これ以上にないほど落ち込んでいたら、ぜひそのままの自分の写真を撮っておくと良い。
 
それもまた、とても貴重な「とっておきの写真」となるだろう。

とっておきの写真

2013年6月9日(日) by キヨタカ

 私は「仏ほっとけ神かまうな」という世俗的な家庭で育ったこともあり、祭壇に「覚者」の写真を飾るなど青年時代には全く信じ難い事だった。
 
最初にOSHO瞑想センターを訪れた時は、ホールに大きなOSHOの写真が飾ってあってショックしてしまった。
 
怪しげな教祖を崇拝する新興宗教団体みたいで、非常に気持ちが悪かったのである。
 
それがいつの間にかOSHOのサニヤシンとなり、OSHOの写真を祭壇に飾る様になった。
 
実際に飾ってみると、それはOSHOを崇拝するというよりも、OSHOを通して「本当の自己」を思い起こす手段としてとても心地よいものとなった。
 
そしていつのまにか、自分が気に入った他の「覚者」の写真も飾る様になった。
 
リー・ロゾウィックやラマナ・マハリシから、キリストやグル・ナナックに至まで、大勢の覚者の写真が入れ替わり立ち代わり私の祭壇を飾った。 
 
祭壇に飾った覚者の写真の数々が、そのまま覚者を求める私の精神遍歴を物語っている。
 
 
しかしどんなに優れた「覚者」の写真を飾ったからといって、実際に「本当の自己」を思い起こす訳ではない。
 
私の場合、「自分は劣っている、ダメだ、まだまだだ…」という否定的な自己イメージがとても強かった。
 
最初にフーマンと面談した時は、どんなにフーマンが「今のあなたで充分だ。もっと自信を持ちなさい!」と励ましても、「フーマンは人をヨイショするのが上手だな〜!」としか思わなかった。
 
いわゆる「腑に落ちる」という事が起らなかったのである。 
だから、「あなたがどうして自分はダメという否定的自己イメージを持ってしまったのか、私にもわからない…」とフーマンをして嘆かせた。
 
しかしそれにも関わらずフーマンは非常に熱心に、「偽りの自己イメージ」を落して「魂としての自己」を生きる様に諭した。 
 
そこで私は、「魂としての自己を思い起こせ」というフーマンのメッセージを忘れないように、フーマンの写真を祭壇に飾る事にした。
 
祭壇に飾るに相応しい写真があったら下さいとお願いしたところ、「その必要はない」と断られてしまった。
 
何度もお願いしたけれども、ダメだった。
 
自分の写真が祭壇に飾られる事を喜ばなかったのである。
 
そこで、長い間倉庫に眠っていた歴代の覚者の写真を次々と祭壇に飾ったのだが、いすれもしっくりこない。
 
 
そこで、自分にとり「とっておきの写真」を祭壇に飾る事にした。
 
それが↓これだ!
Photo_2
冨士登山をした際に、富士山頂でのご来光を背景に撮った自分の写真である。
 
ちょうどフーマンのワークを受け始めた頃で、自分の中に大いなる希望が満ち溢れていた。
 
 
「自分の写真を祭壇に飾るなんて、エゴ丸出しだ!」と憤る人もいるだろう。
 
しかし「自分はまだまだダメ」と自己否定の強かった当時の私にとっては、「あるがままの自分を肯定し」、「自己に内在する真理の光」に根付く為にとてもパワフルな効果を及ぼしてくれた。
 
 
教祖になりたがるタイプのエゴを持っている人やナルシストの人には、オススメしかねるけれども…
 
内省的だけれども自己を低く評価してしまう方…(瞑想に感心のある人々に多いタイプだ)…には、かなりおすすめの方法だ。
 
もしあなたがそのタイプなら、自分にとって「最高の輝きを放っている瞬間の写真」を祭壇に飾るのである。
 
「そんな写真なんか持っていない!」という方も、心配はない。
 
今から無理やりでも良いからカメラににっこり微笑んで、それを撮って祭壇に飾れば良い。
 
自分の笑顔の写真を毎日眺めていると、やがて笑顔の奥に潜んでいる魂の喜びが伝わって来るから不思議だ。
 
そしていつの間にか、「自信に満ちた本当の自己」が目覚め始めている事実に気づくだろう。

自己イメージ

2013年6月8日(土) by キヨタカ

今や個人商店の多くがコンビニに置き換わってしまった。
 
長いこと頑張ってくれた地元のE商店も、最近ついに閉店となりショックしている。
 
店のすぐ近くに、新しくローソンが出来たからである。
 
非常に残念だが、かくいう私もついついローソンの方に立ち寄っていた。
 
結果的に私も個人商店を閉店に追い込む側についていた訳で、なんとも残念。
 
グローバリゼーションに抗う個人商店の方を応援しなければ!と思ってはいたのだが、車で近くを通るといつの間にかひょいとローソンの方へ駐車してしまう。
 
 
いったいその違いは何なのか…?
 
「ローソンでは曳きたてのコーヒーが安く飲める」「品質の悪い商品がない」等々、思い当たるフシは色々あるが…
 
「店員さんの対応が良い」というのも、見落とせない要因だ。
 
E商店もコンビニも、同世代のパートのおばさんが対応してくれるのだが、
 
E商店のパートの方は、対応がどうもけだるくて重いのである。
 
一方、コンビニで対応してくれる女性は、非常に快活ではつらつとフレッシュに対応してくれる。
 
先日「いつも感じの良いおばさんだな〜、名前は何と言うんだろう?」と思って、名札を見てショックした。
 
Tさんというごくありふれた名前だったが、名札に貼ってある顔写真を見てビックリ仰天したのである。
 
「女優さんの写真が貼ってある!」と一瞬思った。
 
本人と写真を何度もチラチラと比べて確認したのだが、6回目であたりの確認でようやく納得した。 
 
少なく見積もっても20年くらい前のご本人の写真が貼ってあったのだ。
 
Photoローソンのこのおばさんの元気さの秘密は、この辺りにありそうだ。
 
彼女の場合、「自己イメージ」がとても若いのだろう。
 
だから堂々と自分が若い時の写真を貼る。
 
なぜなら、彼女の中の自己イメージは若い時のままだから…。
 
するとそれが自然に元気で溌剌とした行動となり、結果的に私の様な客を惹き付けるのだ。
 
 
肉体はやがて衰えるが、イメージは若いままでいられる。
 
意識は年齢と関係ない。
 
意識は、いつまでも永遠に快活ではつらつとフレッシュだ。
 
だからその方が、本当の「自己イメージ」に近い。

小さくても

2013年6月7日(金)曇り時々雨 by ヨガビジャ 
 

夕方、雨が上がって陽が射してきたので久しぶりにデジカメを手に外に出てみました。 
 
Img_1898  これは
 
ウィンターコスモス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_1897_3 
昨年の冬、店の日陰の隅っこの 
 ワゴンセールで売られていたもの。 
 
 
一緒に何種類かの
花を買って植えたけど 
 残ったのはこの子だけ。。 
 
 
 
 
 
 

Img_1911 本当はシクラメンが一株
 残っていたのだけど、
 先日キヨタカにバッサリと 

 刈られたらしく姿はなし・・・ 

 やっぱり花が咲いてないと 
 分からないかな〜・・・( ̄⌒ ̄; ) 
 
 
 
 

Img_1939 これは密集して
 
ニョキニョキと生えていた雑草。
 
 どんどん成長して
 30センチ以上の高さに 
 成長してたんですけど、、

 
 
 
 
 
Img_1930 気がついたら 
 
こんなにかわいい花が咲いてて 
 びっくり! 
 
 草抜きできないなあ・・・
(・・ ;)
 
 
 
 
 
 

Img_1950 ね? 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_1943 
 
 
 
 
 
 
 
  
 こんなにちっぽけなのに 
 気品があるの
 

矛盾は矛盾のままで…

2013年6月7日(金) by キヨタカ

Kさんから、「覚者を求めて」の感想が送られて来たのでアップしよう。
* * *
天野キヨタカ様

先日は、新刊「覚者を求めて」に素敵なサインを入れて送っていただきまして、ありがとうございました。
 
キヨタカさんの真っ直ぐで情熱的な探求のプロセスが赤裸々に描かれていて、今読み返しながら改めて面白く素晴らしい本だなと(正直に)思っています。
 
探求のそれぞれにおいてトータルですね。

リー・ロゾウィックという人のことは初めて知りました。
 
「あなたは本当のOSHOの役割を知らない。・・・」
弟子の目覚めのためにのみ、マスターというのは存在しているということなのですね。
 
OSHOに対してここまでの洞察を持っていた人がいたとは驚きです。

アジスとフーマンの、「舟を降りてはいけない」 「もう舟を降りなさい」という両者の言い分も大変興味深いですね。
 
絶対矛盾の自己同一です。
 
私はこれに対してこう考えてみました。
「舟なしに舟を漕げ」、あるいは「漕ぐ人なしに舟を漕げ」と。言葉遊びになってしまいましたか。
 
ご容赦ください。

K 合掌
 
* * *
 
この世は矛盾に満ちている。

Photo
なにしろ天と地があり、昼と夜があり、山と海があり、男と女がいて、好きと嫌いがあって…
 
同じ様に、瞑想の世界でも「超努力せよ!」という教師がいるかと思えば、「そのまんまでO.K ただ寛ぎなさい♡」という教師もいる。
 
「努力か寛ぎか?」という問題は、探究者としての私を長い間悩ませた難問であり、新しい覚者に出逢うたびに同じ質問をした。
 
その答えはそれぞれ覚者ごとに違っていて、いずれも味わい深い。 
 
だからその事を意識しながら「覚者を求めて」を読むと面白いだろう。
 
アジズと出逢って初めて、「努力か寛ぎか?」という長年の疑問が知的レベルでは氷解したのだが…
 
それからしばらして、アジズとフーマンと2人の教師をオーガナイズする事になる。
 
ところが、今度は2人の立場がことごとく矛盾して困り果てた。
 
今ではとても懐かしい、思い出話になっているのだが…
 
例えば2人が合同リトリートで来日した時は、滞在が2ヶ月近くに及んだ。
 
そこで休暇の為に山か海で数日を過ごす事を、2人に提案した。
 
2人が休暇でリーラスペースを離れれば、お世話で忙しい私も少しはリフレッシュ出来るだろうと算段したのである。
 
ところが2人とも大喜びだったけれども、アジズは「海がいいヽ(´▽`)/」と言い、フーマンは「山がいい(◎´∀`)ノ」と言ってお互いに譲らない。
 
そこで、結局アジズを海へフーマンを山へ連れて行く事になり、肝心の私の休暇が完全に失われ疲労困憊してしまったshock
 
それから数年後に、私に対してフーマンは、
 
「あなたはもう向こう岸に渡ったのだからもうリトリートは必要ない。舟を降りなさい。」
と語った。ところがアジズは…
 
「今舟から降りてはいけない。真理の海は広大で、あなたは今舟を漕ぎ出したばかり…」
 
と相矛盾する事を言われて、非常に困惑したのである。
 
しかし確かにこの世界は矛盾に満ち満ちているが、この矛盾に満ちた二元性こそが宇宙進化の原動力だ。
 
難しい事はわからないけれども、この宇宙の仕組みは137億年前に自発的対称性の破れ でビッグバンが起った時から宇宙は既にそうなっているらしい。
 
こうした本質的に矛盾に満ちた世の中で、矛盾なく生きるには、矛盾が生じる以前の自己に立ち止まる必要がある。
 
それを、哲学者の西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と語り、戦前の思想界に一大ブームを巻き起こした。 
 
しかしこうした難しい哲学書を紐解かなくとも、あるいは難しい理論物理学の学説を知らずとも、「在る」というシンプルな事実に立ち返る事で、充分だ。
 
矛盾は矛盾のままで、美しい。
 
深く静かな沈黙のスペースにただ在るだけで、巷の哲学者や理論物理学者も羨むような喜びを満喫するだろう。

Hさんからの感想と質問(2/2)

2013年6月6日(木) by キヨタカ

 

Hさんからの感想と質問の続きです。

 

* * *

 

長くなりましたが、キヨタカ様に質問があります。

 

本書の秘策のところを読んでの質問なのですが、 意識のスクリーンを別のもので満たすその別のものとは、ハートの奥深くの扉のうちにある恩寵の光であると・・・ この「ハート」とはいったい何のことを言っているのでしょうか?

 

ハートといえば、私はすぐ心臓の位置のことを思い浮かべます。

マハルシはそれはあくまでも象徴であると言っています。

肉体が自分であると思っている人ににとっての方便だと・・・

 

フーマンはすべては「これ」の別の呼び名であるともいっていましたよね?

キヨタカ様や覚者達が「ハート」と特別に表現するとき、いったいどんな意味合いがあるのでしょうか?

 

それは、もちろんマインドが理解できるものではないともわかります。

ここでまったくの堂々巡りに陥ってしまいます。マインドで考えている限界を感じます。

やはり瞑想をするべきなのでしょうか?

 

しかし「あなたはそれを瞑想を通して獲得するのではない」と次ページに書かれています。

私も「恩寵の光」に気づいているのかもしれませんが、これがそうなのだと確信がもてませんし、フーマンが言っている「これ」と言うものが「まさしくこれである」という実感もつかめません。

 

内側に覚者がいるということも理屈では理解できます。

何とかなるという、わくわく感と同時に無力感、虚脱感を感じているのも事実です。

新刊書の発刊の時にまったく失礼な質問を、お許しください。

 
* * *
 
通常の私達は、マインドという「ヴァーチャル・リアリティ」に閉じ込められています。
 
マインドは「過去の記憶」とその記憶に基づく「未来への投影」からなっています。
 
「リアリティ」は「今・ここ」に在るのですが、マインドという「色眼鏡」を通して見ているので、決して「あるがまま」に「リアリティ」を味わうことが出来ません。
 
この「色眼鏡」を外す事が、非常に大切です。
 
「色眼鏡」をかけた人の生きる世界は、過去と未来しかありません。
 
いわば「水平な次元」を生きるようなもので、非常にフラットな人生です。
 
あっ!と言う間もなく、人生が終わってしまいます。
 
文字通り「光陰矢の如し」…の人生です。
 
 
瞑想を通して「気づき」そのものが目覚め始めると、「色眼鏡」を外す事が出来る様になります。
 
「色眼鏡」を外すとは、「ヴァーチャルな世界」から脱出する事です。
 
すると「今・ここ」という「垂直な次元」が開かれます。
 
「リアリティ」とダイレクトに触れ合い、「あるものをあるがまま」に豊かに味わえるようになるでしょう。
 
古来から言われている「明鏡止水」の境地であり、禅では理想の境地です。
 
Photo
しかしフーマンは、これは準備に過ぎないと言います。
 
「ハートが開いて初めて人はこの世に生まれて来た価値がある」と言うのです。
 
 
ハートとはもちろん心臓ではなく、胸の奥に在る「フィーリング」のセンターの事です。
このセンターを通して感じるプレゼンスの事を、フーマンは「これ」と語っています。
 
 
フーマンの語るハートは、セラピーやニューエージで語られるハートとは別次元の事ですから注意して下さい。
 
「水平でも垂直でもない」次元の事であり、いわゆるこの世ではない次元、「神聖な次元」「神の領域」へアクセスする場所の事です。
 
「恩寵の光」とは「神聖な次元から降り注ぐ光」の事であり、時の始まりから終わりまで、燦々と降り注いでいます。
 
その降り注いでいる場所こそが、リアリティーなのです。
 
しかし受け手が「ヴァーチャル・リアリティー」にいると、受け取れません。
 
受け手が眠りこけているのです。
 
だからこそ、瞑想を通して「リアリティーに目覚める」事が急務なのです。
 
フーマンが言う通り、人は目覚めて初めて、恩寵は初めから燦々と降り注いでいたという事実を知るのです。
 
 
別に「瞑想を通して獲得」するわけではありません。
 
それはちょうど、天国で地獄の夢を見てうなされるようなもの。
 
あなたは初めから天国にいます。
 
瞑想を通して天国を獲得するわけではありませんが、夢から覚めて初めて天国にいる事実を知るのと同じです。
 
 
しかし完全に夢から醒めるまでは我々は無力かというと、そうではありません。 
 
地獄の夢を見ながら、天国からの誘いをキャッチする事が可能です。
 
それをキャッチする場所がハートにあります。
「わくわく感」はハートで感じるもので、天国からの誘いです。
 
 
マインドはリアリティーを好みません。
 
リアリティーに目覚めると、マインドの役割が失われるからです。
 
ですからマインドは抵抗して「無力感・虚脱感」を創り出しますが、それを肯定的に受け止めると「明け渡し・くつろぎ」へとシフトします。
 
ですから「無力感・虚脱感」は、実は目覚めへのとても良いサインであり、それと戦わずにそれを喜んで受け止めると良いでしょう。
 
すると、ハートのセンターが開いて行きます。
 
 
「瞑想の結果として恩寵を獲得するものではない」という事ですが…もう一度説明します。
 
マインドは、「原因」があって→「結果」が起る、と「水平次元」で直線的に物事を考えます。
 
しかしリアリティーの世界はそうではありません。
 
「瞑想」の結果「悟り」が起るものでもありません。
 
瞑想とは、既にそうである世界へと脱出を促す手段であり、ヴァーチャル・リアリティの未来に結果を創り出す手段ではありません。
 
恩寵も同じカテゴリーに属しています。
 
「原因→結果」という因果関係から抜け出した別次元に、既にあるものです。
 
過去や未来という「水平の次元」ではない、今という「垂直な次元」に開いて下さい。
 
それがリアリティーの世界です。
 
そこは既に恩寵が燦々と降り注いでいます。
 
それをダイレクトに受け止める機能が、ハートにあります。
 
ハートの最も奥深い部分を感じてみて下さい。
 
その一番深い部分に、扉があります。
 
それが恩寵の扉です。
 
その扉が開かれると、恩寵の光の源である「神聖な次元」へアクセスする事が可能となるでしょう。
 
 
しかし、全て物事にはタイミングというものがあります。
 
ハートは木に例えると、花の部分に相当します。
 
今は、気づきという幹と、ビーイングという根をしっかりと育てて下さい。
 
やがて春の到来とともに花が咲くように、自然とハートが開花しますので、焦る必要はありません。
 
 
ハートが開く準備としては、「考える」スペースから「感じる」スペースへと、シフトする事を日頃から心がけるとよいでしょう。
 
そして、「ワクワクすること、満たされること、喜ぶこと、悲しみや苦しみをあるがままに受け入れること、感謝すること、愛すること、驚くこと、感動すること、小さな出来事や些細な事象に心を配ること、偶然の一致や不思議さに開いている事、etc.」を天国への誘いとして、それを標識として日常生活を送ると良いでしょう。
 
それが「恩寵による導き」となり得ます。
 
すると、例え悟りを開かなくても、喜びに満ちた人生を今直ぐに歩み始める事が出来るでしょうheart02

Hさんからの感想と質問(1/2)

2013年6月5日(水)

Hさんから、下記のような本の感想及び質問があった。
 
瞑想に取り組み始めた多くの方が同じ様なテーマを抱えていると思う。
 
既に返答済みだけれども、もう一度振り返ってみたい。
 
* * *
 
Hさんから(1/2)

 

キヨタカ様ありがとうございました。

 

「覚者を求めて〜恩寵の扉が開くまで 外伝〜」が届きました。

 

今回も高鳴る胸の鼓動を抑えて、一気に読みました。

 

「アジスとの対話」からこの本までを読んでみて、とてもクリアーになりました。

 

師もおらず、何をどう理解してよいかわからず、手探りで進んできた自分にとって、とても貴重な指針となります。

 

私も大変マインドが強力で、どうしたものかとほとほと困っています。

 

かといって、カルマがわるいのか、ヴァーサナがわるいのか、学とか練習するとかがまったく嫌で、瞑想などをしようと何回も試みましたが、三日坊主いや一日坊主となってしまいます。

 

ある探究者からいわせますと、情熱がないのだとか、動物的な怠けのカルマに支配されているのだとか言われました。

 

まだ準備は出来ていないのかもしれません。

 

しかし、「私はいったい誰か?何なのか」と幼い時からの疑問は未だもち続けています。(…続く)

 

* * *

 

瞑想を学ぶには「師」が必要だ、とは昔から言われている。 

 

それは瞑想に限らない。

 

学問やスポーツ等は言うに及ばず、趣味や遊びに至まで、何事にもその道を極めた人というものがいる。

 

だから瞑想の場合も、一般的にはその道を極めた人から学ぶと遠回りしないで済む。

 

しかしそうだからと言って、瞑想の世界で一昔前まで言われていた様な「瞑想を学ぶには師が絶対に必要だ!」という考えに縛られる必要はない。

 

ピラミッド型の社会構造が崩れ、個々人の自立を前提にしたインターネット型の社会へシフトしつつある現在においては、「師vs弟子」という関係性はもう古いかも知れない。 

 

「師」を持たずとも、「必要な時期には必要な学びが起る」ことを信頼すれば充分だろう。

 

私は過去に様々な「覚者」から学んだが、不思議な事に私が好きな覚者は特定の「師」を持たない人の方が多かった。

 

OSHO、ラマナ・マハルシ、アジズ、フーマン、リー・ロゾウィック、素空慈、ジョン、知花先生、グルジェフ、五井先生、王仁三郎等々、みんな特定の崇め奉る「師」によって覚醒したわけではない(にも関わらず、彼らを崇め奉る弟子が大勢いるのがなんとも皮肉な事だが…)。

 

そもそもお釈迦様ですら、崇め奉る師はいなかった。

 

イエス・キリストなんかは、イニシエーションしたバプテスマのヨハネの方がひれ伏してしまったshock

 

だから、特定の師を持たずとも覚醒する可能性は大いにある。

 

それから、「学とか練習するとかがまったく嫌」だそうだが、これはとても素晴らしい事だと思う。

 

魂は、解放に向かう時に「快感」を感じ、束縛に向かう時に「嫌悪感」を感じる。

 

ところがピラミッド型の社会では、「学習とか修業」を通して、魂を完膚なきまでに封じ込めてしまう。

 

そして魂を完全に抹殺した効率的なロボット人間の様な人々が、社会の頂点に立って他の人々をコントロールしている。

 

サルの群れにはボスザルの統率が必要な様に、個人が成熟しないピラミッド型社会にあってはボスの統率に従順なロボット人間も必要な事だ。

 

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しかし新しい人類にとっては、むしろそれは弊害となる。

 

社会的な条件付けに埋没して魂との接触を完全に断たれることなく、「私はいったい誰か?何なのか」と幼い時からの疑問は未だもち続けている魂こそが、今の時代に必要なのだ。

 

私の本はまだベストセラーからは程遠いけれども、これで5冊目なので読んでくれた方々はそれなりいる。

 

読んで感銘を受けた人もそれなりにいるだろう。

 

しかしそうだからと言って、本を読んでわざわざメールを送られる方はめったにいない。

 

だから、メールを受け取った側からすると、「この人は準備が整いつつある」と思える何よりの証拠なのである。

 

さらに瞑想は何回も試みたと言う。

 

「三日坊主や一日坊主」と卑下しているけれども何回も試みたという事は…

 

(三日坊主×何回)+(一日坊主×何回)=「三日坊主を凌駕している」

 

というシンプルな数式が成り立つ。

 

自分を低く評価しないで、三日坊主にもめげず何度もトライし続ける客観的な事実をぜひとも賞賛して欲しい。

ハート指向かマインド指向かを知る指標

2013年6月3日(月)  by キヨタカ

先日の日誌に関して、「自分がハート指向なのか、マインド指向なのかを知るある程度の指標みたいなものってあるのでしょうか?」という質問があった。
 
あの日誌は少し言葉の使い方が曖昧だった。
 
「ハート指向→感覚指向」、「マインド指向→論理指向」としたほうが解り易いかもしれない。
 
感覚指向の人は、論理的な説明がなくても感覚的に納得すればそれで満足する傾向がある。
 
例えば、今朝私が入れたコーヒーに対して、ヨガビジャが「いつもより美味しいね♪」と語った。
 
「そうだね♡」と、私も喜んで美味しいコーヒーを飲み幸せな気分にただ浸っているようなら、ヨガビも私も感覚指向と言える。
 
しかし、私はそれで満足はしない。
 
「同じコーヒー豆なのに何故今日は美味しいのだろうか?」
 
「お湯の温度が多少低かったのだろうか、コーヒーの粉のせいなのか?注ぎ方の問題か?」
 
「それともコーヒーカップが違うからか?」
 
「それともヨガビの機嫌が良いからか?」等々を苦もなく考える。 
 
さらにパソコンを開いて、「美味しいコーヒーの入れ方」をグーグル検索したりして研究する。
 
そして、「ああそうか、蒸らしの時間と注ぎ方がいつもと違ったんだ!」とようやく論理的に納得する。
 
だからヨガビに比べると、論理指向が遥かに強い。
 
以上の説明で、「ああ私は感覚指向なのね♡」と納得する人は、もちろん感覚指向の方だ。
 
「おいおいそれじゃ、ちょとと説明がシンプル過ぎるよ」と言う方は、論理的指向が強いと言えるだろう。
 
実際には、感覚指向と論理指向は同一人物の中で混在しているので話が複雑となる。
 
さらに成長の各段階で、そのどちかかがより強く表に現れる傾向がある。
 
そしてこのテーマを深く掘り下げると、魂の本質にまで行き着く。
 
 
OSHOによると、真実に至る道は大きく分けると2つあるという。
 
愛の道と瞑想の道だ。
 
「今日のコーヒーは美味しい♪」と言われると、グーグル検索をしてしまう私は論理指向が強いから当然「瞑想の道」がフィットする。 
 
実際にOSHOは、現代人の大部分の人はマインドが極端に強いから「瞑想はMUSTだ!」と語っている。
 
学生時代には法律を専攻し法曹界で活躍するのが夢だった私は、当然の様に「瞑想の道」を志し、28歳の時にOSHOの弟子入りをした。 
 
弟子になるとOSHOから新しい名前(サニヤスネーム)と、短いメッセージを貰う。
 
私のミドルネーム、天野はサニヤスネームのAMANOに由来していて、インドの言葉でノーマインドを意味する。
 
論理指向でマインドが強力な私にとっては、ノーマインドこそが変容の鍵であり、私にピッタリだった。
 
「う〜ん、さすがにOSHOだ。会った事もないのに、なぜ自分の事が解るのだろう?論理的にあり得ない!と不思議に思ったものだった。 
 
OSHOからのメッセージも、何か瞑想とか知的方向性を指し示す言葉だろうと予想していた。 
 
ところが予想に反して、「愛」に関するメッセージだったので非常に驚いた。
 
自分の魂の本質は「愛」に近い事を納得するのは、それから20年以上経ってからの事である。
 
だから、自分がハート指向か論理指向か今よくわからない人は、早急に結論を出そうとせずとも魂の目覚めへ向かって歩む事で、やがて自ずから明らかになる時節が到来すると思う。
 
せっかくだから、OSHOから貰ったメッセージを紹介しよう。
 
* * *
 
Photo
”A sannyasin has to drop all that is against Love,
that goes against Love.
 
Slowly, slowly, as the barriers are removed
Love starts flowing,because it is our very nature. 
 
It is not something to be brought in from the outside,
 
it is already there.
There are just a few obstructions
 
which we have to unlearn.
 
Once that happens,
love becomes a golden light…”
 
                                             -from OSHO    December 4, 1982-
 
サニヤシンは愛に反する全てを落さねばならない
 
愛に反する全てを
 
ゆっくり、ゆっくり、そのバリヤーが取り除かれるに従って
 
愛が流れ始める なぜならそれは私達のまさに本性だから
 
それは、外側から持ち込む何かではない
 
それは既にそこにある
 
ただいくつかの障害物があるだけだ
 
それは後から学んだ事に過ぎないから、意識的に忘れることだ
 
いったんそれが起ると
 
愛は黄金の光となる…

アンジュ

2013年6月2日(日) by キヨタカ

昨日から、天然石アクセサリーWeb・Shopで活躍中のアンジュがリーラスペースに滞在中。
 
アンジュには、リーラスペースのキッチン担当として長くお世話になった。
 
特に5年前はリーラスペースに半年間滞在して、共同生活を送りながら仕事やプライベートのとても濃い時間を一緒に過ごした。
 
天然の不思議な霊感体質の持ち主で、私やヨガビが感じられない非常に微妙な霊的エネルギーをビンビンに感じる事が出来て、一緒にいてとても楽しく不思議な体験をさせてもらった事を懐かしく思い出した。
 
のほほ〜んとした天然系の雰囲気を醸し出していて、本人は意図せずとも自然に相手が弛んで癒される。
 
当時の私達も、彼女の存在のお陰で随分と癒されたものだ。
 
実は、癒されたのは人間だけではなかった。
 
猫のちぃいちゃんも、元々はリーラスペースの廻りをうろつく非常に警戒心が強い野良猫だった。
 
ところが不思議な事にアンジュの前では警戒心が薄れていつの間にか懐くようになり、遂には我が家の飼い猫になったのである。
 
リーラスペース滞在中は「他人の土俵でフンドシを取る」とか「他人のしめ縄で相撲を取る」とかの、迷言をたくさん語ってくれたので、日誌のネタに事欠かなかった。
 
昨日は、久しぶりに箱根の九頭龍神社にお参りに行った。
 
Photo
九頭竜神社は、パワースポット及び縁結びで特に若い女性の間で有名。
 
月次祭(つきなみさい)が行われる毎月13日には全国から大勢の人々が集まって、足の踏み場もないくらい賑わう。
 
以前は、リトリートが終了するつどスタッフと遊びに行ったものだった。
 
「なんとかリトリートに人が集まります様に」とか「仕事が上手く行きます様に」とか熱心にお願いした当時が懐かしい。 
 
最近は、そうしたお願い事もあまりなくなったが、それでもここの雰囲気は自然も含めてとても素晴らしい。
 
この日は土曜日だったが、梅雨に入った事もありそれほど人がいなくて、とても落ち着いた雰囲気で楽しい休日となった。 
 
もっとも、最近は「毎日が日曜日」の休日状態ではあるが…。

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