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なにが見える?

2013年7月10日(火)晴れ by ヨガビジャ  
 
「他人は自分を映す鏡」というけれど、引き籠ってたりしてその鏡がない状態が長く続くと、全体の中の自分という存在がおぼろげないものに感じられてきます。 

あ、引き籠っているわけではないですよ。 
 
ただ最近、私の鏡はキヨタカとキヨタカのお母さんの2つだけなので、その鏡を通して映し出される(=自分で認識している)自分というのがとても決まりきっていて平べったく感じていたんです。 
変な表現ですけど。。
 
例えば円錐形という立体が私だとしたら、ある同じ方向からだけ眺めているとそれはただの三角形に見えたりしますよね。
そしてずっとそこだけ見続けていると、なんとなく「私は三角なんだ〜」と自分のことを思い始めるんです。
 
でもたまに普段あまり会うことのない人と会うと、全然違う角度から私を映し出してくれるから「あ、私は丸いところもあったんだ〜」と気づいたりします。(円錐形、真下から見上げると丸ですね) 
 

きっと今私は、とても限られた関係性の中で過ごしているから、際立ってこんなことを感じているのかもしれません。
 
 
先日あんじゅが遊びに来てくれた時、彼女がスカイプでリーディング・セッションの
モニターを募集していると聞いたので後日お願いしたのです。 
 
そのとき感じたことや明確になったことをここでシェアしますね。

じつはこれから書くことはすでに私の中に理解としてあった事なんですが、会話の中で自然に出てきた言葉と表現が今の私にとって的を得ていたのか、理解がスッキリと自分に溶け込んだ感覚がありました。

私は、本来ハートはひとつ or everywhere と感じます。
でもこの世に肉体を持って生まれた私たちにとってのハートは、神聖なハートと現象世界に開かれたハートの両側面として認識されるのではないかと思うのです。

そして神聖なハートの次元を求めそこに留まるには、もうひとつの現象世界に開かれたハートを置き去りにしては不可能ということを実感を伴って感じました。

この現象世界に開かれたハートを満すことなく神聖なハートだけを求めることは、片方の翼だけで飛ぼうとするようなもの。決してうまくはいきません。

究極的にはどちらの側面とかもなく、ハートはやはり、無限な、ひとつ、なのでしょうが、神聖なハートと現象世界に開かれたハートという認識(言葉)が自分の中で起きて初めて、ハートのバランス感覚を取り戻した気がしました。

これが正しいかどうかは分からないけど、少なくとも今の私にとっては必要な理解だったと感じています。
なぜなら、あんじゅと話しながら、同時に自分に向けて語りかけているかのようだったから。
 
これがひとつ。

そしてもうひとつは、あんじゅが何気なくサラッと言った言葉なのですが、
 
「人は、自分の良いところは『当たり前すぎて』見えないのよね」
 
そして「よがびはね〜・・・」と彼女の感じるところを話してくれました。

あんじゅの言う私の良いところは、たしかに自分では当たり前すぎて、それが評価の対象になること自体が私の想定から大きく外れていて驚きました。
だって当たり前だと思ってたから。

思うに、人はすでに備わっているものの価値に気づかないで足りないものばかり求めてるみたい。

セッションが終わって、私はつくづく自分のことを平面レベルでしか見てなかったことを実感。

死角の存在にも気づいてなかったし。。(o; _ _)o
 

それを、あんじゅがいっぱい小さな鏡を持って来て 
 
ほらね、こっちもね・・・
(ノ゜▽゜)ノ セッセ 
 
といろんな角度から私に私を見せてくれた、そんなセッションでした。


そうそう、あんじゅのハート・リーディングのセッションはまだモニターを募集していますから、興味のある方どうぞ。
その人に合わせてヒーリングやリーディングなどをしてくれますよ。
時間は45分。 

 
まだ練習中なのでお手柔らかにお願いしますね♡ 

 
あんじゅのお店
Grace SoulStone <Contactメール>から「モニター希望」でお申込みください。 
 
Irn189_2 立ちどまって
 
ショーウィンドウに映る 
 
自分の姿を眺めてみる・・・ 
 そんな感じでいかが? 
 
 
美人にゃん (=^▽^=)
 

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