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阿弥陀仏

2013年8月6日(火) 雨 by キヨタカ

 先日「函南ほとけの里美術館」に行ったのだが(8月1日のヨガビの記事参照)、その時に鑑賞した仏像がどうも頭からこびりついて離れない。
 
Photo_2いわゆる「阿弥陀三尊」の仏像で、中央に阿弥陀如来、その左右に観音菩薩と勢至菩薩を配した浄土信仰では定番の仏像である。
 
ずっと前に禅仏教にはかなり傾倒したけれども、浄土系の世界とはそれほど深い縁はない。
 
阿弥陀信仰では、臨終の際に阿弥陀仏がこの様な姿で現れて極楽浄土へ導くと言う。
 
初めて仏教の世界に関心を持った学生時代は、「来世で極楽往生を願う」という阿弥陀仏信仰がなんとも消極的かつ迷信的で滑稽ですらあった。
 
それに比べこの世で仏となる事を願う禅仏教の方が、遥かに高尚で科学的かつ格好いいと思った。
 
それ以来、阿弥陀仏信仰に対し特別の関心は持たなかった。
 
正直に言うと、瞑想に縁のない人々が救われるための方便、くらいに見なしていたと思う。
 
フーマンに接して恩寵に開いてからはそうした偏見もなくなったが、仏像にまつわるイメージはずっと昔のままだった。
 
しかし、先日あの仏像を見てから、どうも自分の中がすこし変だ。
(…まあ、いつも少し変なので、変なのが正常ではあるがcoldsweats01
 
あの日はよくわからなかったが、穏やかだがとても深いインパクトがあった感じがする。
 
あの時確かに、潜在意識の奥底をかき乱されるような、奇妙な感覚があった。
 
それは、必ずしも居心地の良いものではなかった。
 
それが何なのか、まだ良くわからない。
 
まだあの世へのお迎えがやって来るには、ちょっと早過ぎるとは思うのだが…(^-^;
 
おそらく、自分が今まで持っていた特定の思考パターンに気づいた時の、不愉快な感覚だと思う。
 
今は、阿弥陀仏に限らず仏像全般に対する偏見が剥がれて、仏像が本来持っていた意味が少しずつ明らかになる予感がする。
 
神であれ仏であれ、偶像化してしまうと、自分とはかけ離れた対象物となってしまい、ブッダのメッセージが遠のいてしまう。
 
だからこそ、ブッダは仏像を作る事を厳しく戒めたのだと思う。
 
しかしこうした仏像が、偶像崇拝ではなくて「自己の内面を映し出す鏡である」という事が明確ならば、まだ眠りこけている内面の特定の意識を目覚めさる為に、とても有益だろう。
 
そうした視点を明確にして、新たな気持ちで仏像に接すると、驚く程に深くパワフルなインパクトが仏像にある事に気づく。
 
特に、日本の仏像は格別だ。
 
今更ながら、日本人の精神文化の底知れない深さに畏怖の念を覚える。

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コメント

仏像は、仏師の技術と魂を通した、「存在」の現れなのでしょうね~。素敵ですね。
http://www1.megaegg.ne.jp/~summy/miroku/miroku.html

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