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無心への秘策

2014年4月12日(土) by キヨタカ

「覚者を求めて」の読者から、質問があった。
 
* * 質問 * *
 
キヨタカさんの言われる無心への秘策…意識のスクリーンを[別のもの]で満たすの[別のもの]とは認識の主体であるプレゼンス…静寂の中にただ在るという意味と理解しましたが間違いでしょうか?)
 
これは黄檗禅師の[ズバリ無心でおれ]と同じ意味なのかな?と思いましたが…。
 
* *
私が初めて坐禅を体験したのは、21歳の時。
 
青年期特有の激しい煩悩の嵐から自由になりたくて、「無心」とか「明鏡止水」の境地を求めて坐禅に励んだが、結果は惨敗だった。
 
その後OSHOの弟子となり、Amanoという名前を貰った。
 
Amanoとは「無心」を意味する。
 
OSHOの革新的な瞑想技法に助けられ、「無心」の一瞥は何度も起こった。
 
しかし、「無心」の境地からは程遠いままだった。
 
その後、アジズとの衝撃的な出会いがあり、気づきの主体としてのプレゼンスを確率する修行に励んだ。
 
そして、アジズから「あなたはプレゼンスを確率した!」とまで言われた。
 
しかし、相変わらずマインドはグルグルだったのだが…アジズ曰く。
 
「それでいい。
ちょうど扇風機のコンセントを抜くようなものだ。
マインドはグルグルと回り続ける。
でも、やがて何もしないでも止まる」
 
しかし、残念ながらマインドが止まる事はなかった(ρ_;)
 
 
マインドが止まり始めたのは、フーマンと出会いハートの奥にある扉が開き始めてからだ。
 
恩寵に身を任せる事で、「ただある事で満たされている」感覚がハートを通して、全身に広がった。
 
すると、努力しないでも自然に「無心」のスペースが起こり始めた。
 
それは、「認識の主体であるプレゼンス…静寂の中にただ在る」事ではあるが、
空っぽではなくて一杯に満たされている感覚だ。
 
しかし、それは何か特別な凄い事でなんかでは全くない。Unknown
 
天真爛漫な幼児の時に誰もが体験しているもので、既に知っている筈のあの感覚である。
 
 
煩悩から脱却して「無心」になろうとすると、マインドは凍り付き、さらなる煩悩の嵐を巻き起こす。
 
マインドを北風で吹き飛ばそうとするようなものだ。
 
しかし煩悩をそっくり受け入れて戦うのを止めると、マインドは溶解して、煩悩の嵐は自然に終わり青空が広がる。
 
暖かい太陽の光で、マインドの氷が溶けるからだ。
 
北風と太陽と、どちらかが正しいという事はない。
 
黄檗禅師に[無心でおれ]と言われて、ズバリ無心でおれたら最高だ。
 
しかし、どんなに瞑想修行に励んでも無心になれなかったら、ハートの扉を開いて恩寵に身を任せる道がある。
 
ちょっとばかり、しつこいけれども…
 
〜にも関わらず私がある」、という事だ。
 
今の私がどうであれ、「私がある(I AM)」ことに無条件でYESと言い、
あるがままの私に寛ぐ。
 
私のエゴは過去の記憶の集大成であり幻想だが、「私がある(I AM)」とは神様からの贈り物であり本物だ。
 
しかも無料ヽ(´▽`)/
 
YESと言う方が、得策だろう。
 
これこそが、「無心への秘策」であり、得策なのだ。

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