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存在を超えて

2014年4月26日(土) by キヨタカ

 昨日紹介した、エックハルト・トールの対談DVDだが、「存在を超えて」というタイトルがついてた。
 
とても曖昧な表現なので、「何なんだろう?」と不思議に思った。
 
もしかしたら、存在論に関して新しい哲学的討論がなされるのか?とも思ったが、DVDを見たらそうではなかった。
 
原題は、『The Importance of Being Extraordinary』となっている。
 
対談では、
 
『エゴとしての私は、自分の事を世俗的な当たり前のどうでもいい存在と見なしてしまいがちだ。
しかし、本当は私たちは神の一部であり、世俗を超えた神聖な存在なのだ』
 
という事が、様々な角度から語られていた。
 
日本語というのは、言葉の定義が非常に曖昧で、論理的な説明にはあまり向いていない。
 
しかし、「意識の覚醒」は、論理を超えた世界であり言葉では正確に表現出来ない。
 
「これ」とか「それ」とか、あるいは倶胝(ぐてい)和尚の様に、「誰が何を問うても、ただ一指を立てる」他に術がない。
 
「存在を超えて」という表現は、どうにでも捉えられる曖昧な表現だ。
 
しかし曖昧な表現だからこそ、以外と真実に近いものを指し示すことができるのかも知れない。
 
ここから先は、言葉の遊びの様なものだが…
 
「存」も「在」も、「ある」という意味だが、ニュアンスがかなり違う様に感じる。
 
「存する」というと、「生きている私がいる」という意味合いが強い。
 
この生きている私としての「I」が前提としてある。
 
だから認識の主体としてのプレゼンス(Presence)と解釈すると解りやすい。
 
一方、「在する」の方は、個としての認識の主体を超えた、広がった空間的な場という意味合いを感じる。
 
来ては去って行く現象世界をあるがままに受け入れる、存在の器(うつわ)としての「場」の事だ。
 
だからプレゼンスが立脚する場としての、ビーイング(Being)と捉えれば、解りやすい。
 
認識の主体である「私(I)」が、「在る(AM)」とも言える。
 
だから、「存在」とは、「プレゼンスとビーイング」の事であり、「I AM」と解釈すると非常に明確になる。
 
通常、「私がある(I AM)」のは当たり前だと思ってしまう。
 
しかし、よくよく探求してみると、「私がある(I AM)」ことほど、神秘的で不可思議な事はない。
 
何故なら、それは単に個人的な「私がある(I AM)」だけではないから…
 
このちっぽけな私の中に、宇宙的で普遍的な「あの私(THAT I AM)」が同時に内在しているのだ!
 
つまり、[I AM] とは[THAT I AM]でもある。
 
これは、旧約聖書に登場する「神の唯一の名前」として、神がモーゼに告げた名前だ。
 
そして、
「これは永遠に私の名前であり、いつの世でも私の呼び名である」
                          (出エジプト記3.7)
という。
 
「存在」を、「プレゼンスとビーイング」、あるいは「 I AM」として認識すること自体、とても禅的で素晴らしい境地だ。
 
「明鏡止水」、「あるものをあるがままに」、「花は紅、柳は緑」…禅にはこの境地を表現する様々な美しい表現がある。
 
道元禅師は、こんな歌を読んでいる。
 
春は花 夏ほととぎす
 
    秋は月  冬雪さえて 
 
           すずしかりけり
 
 
ところが、[I AM」が[ THAT I AM]となると、さらなる新しい世界の扉が開く。
 
プレゼンスとビーイングが、ハートの次元へとシフトするのである。
 
愛と平和と至福に満ち足りた永遠の世界であり、光り輝く神聖な次元なのだが、言葉で説明をすると陳腐な表現になってしまう。
 
だから、言葉が入り込む余地はない。
 
「存在を超えて」というタイトルが指し示す世界は、「これ」の事なのだろう。
 
↓下記は道元禅師の映画
 

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