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2014年5月

山頂付近では…

2014年5月31日(土)

 ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」は名著だ。
 
絶望の淵に立たされた人に寄り添って語られているので、実際に光明への道筋を見いだせる。
 
アシュターヴァクラー・ギーターのような高尚な教典よりも、実践的ガイドとなり得るだろう。
 
世間一般の評価も、さぞかし高いだろう思っていたのだが…
 
先日この本をボロクソに批判するサイトに出くわして、思わず笑ってしまった。
 
何故なら、批判の主が信奉している本も同じくチャンネリング系で、端から見ると「五十歩百歩」に見えてしまうから…
 
 
しかし笑ってばかりもいられない。
 
自分がOSHOの下で瞑想修行に励んでいた時は、他のマスターの教えが低レベルに見えて仕方なかった。
 
OSHOも積極的に他のマスターをボロクソに批判する事も多かった。
 
そして、それには理由がある。
 
富士登山を例にすると分かりやすい。
 
光明(山頂)へのルートはたくさんある。Img_0024
 
御殿場ルートとか富士宮ルートとか…
 
しかしいったん御殿場ルートに決めたら、富士宮ルートは諦める必要がある。
 
別のルートに目移りしたら、いつになっても山頂には到達しない。
 
探求者の中には山頂よりも、ルートの方に興味のある人々もいる。
 
すると、御殿場→富士宮→須走→吉田→御殿場→富士宮…とループの輪に陥ってしまう。
 
だから、OSHOのガイドはとても有り難かった。
 
 
しかし時代はさらに進化して、今は人類全体の意識が山頂付近に近づきつつあるのではないか?
 
すると、非常に面白い事が起こる。
 
山頂付近では…
 
全く別の違ったルートが見渡せる様になり、実は同じ頂上に向かっているのが解る。
 
そうなれは、それぞれのルートを辿る者達がお互いに情報交換をする事で、さらに意識の進化が加速するだろう。
 
ところで山は頂上に近づくほど、転落の可能性も増える。
 
この期に及んで他のルートの批判ばかりに明け暮れると、転げ落ちる可能性も大いにある。
 
人類全体が、山頂から転げ落ちない事を祈るばかりだ。
 

天才

2014年5月30日(金) by キヨタカ

突然ですが…
 
「 あなたは天才ですか?」2012081215geniuses
 
もしも答えが…
 
「ハイ、私は天才です(*^-^)」
 
などど答えようものなら、みんなから馬鹿にされるか非難されるかのどちらかだった。
 
…つい、先日までは。
 
 
しかし、地球は今、断末魔の悲鳴をあげている。
 
環境汚染に気候変動、政治や経済の混乱に、人口増加や食料危機等々、お先真っ暗!
 
もう手遅れかもしれないshock
 
もはや、一部の天才達に地球の運命を任せてはいられない状況だ。
 
しかし、このまま凡人達に任せて今のやり方を続けていたら、人類の滅亡は私だって予言出来る\(;゚∇゚)/
 
 
じゃ、どうしたら良いだろう?
 
唯一の解決策、それは凡人が天才に変容する事だ。
 
心理学者によれば、我々は潜在的可能性の数パーセントしか能力を発揮していないと言う。
 
本当は誰もが今の10倍くらいの能力を発揮出来る筈だと言う。
 
10倍でなくとも、ほんの僅か潜在能力が発揮できれば、この危機的状況から脱出可能なはず。
 
 
「そんなの無理、無理、凡人の私が天才になるなんて(ρ_;)」
 
…つい、先日までは確かにその通りだった。
 
しかし、いよいよ凡人の中で眠っていた天才性が地球的規模で一斉に目覚める時節が到来しつつあると、私は思う。
 
それはちょうど春が来て、サナギが一斉に蝶になる様なもの。
 
「サナギの私が蝶になるなんて、そんなの無理無理\(*`∧´)/」
 
と思うかもしれない。
 
しかし蝶にとっては、それ以外の選択肢はあり得ない当たり前の話しだ。
 
ところで天才と言う言葉は、アインシュタインやモーツアルトの様な人だけを言うのではない。
 
天才とは、から与えられている本来の能を開花させた人の事を指す。
 
贈り物を頂くのは嬉しいけれども、それを捨ててしまったら、送り主は悲しむ。
 
頂いたものは有り難く頂戴して充分に味わい尽くす事で、本当の喜びが生まれる。
 
送り主も、その様子を見て喜び、さらなるプレゼントを用意してくれるだろう。
 
人は誰もが、本当は天才なのだ。
 
つまり、
 
あなたこそ天才です!

源泉を掘る

2014年5月29日(木) by キヨタカ

 中国の海洋進出が止まらない。

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南シナ海の石油掘削活動を巡るベトナムとの対立が、連日メディアを賑わせている。
 
大海原に異形を晒すあの石油掘削リグをメディアで見る度に、30年前のあの日を思い出す。
 
ちょうど30年前の春、某大手石油会社に勤務していた私は○×石油開発(株)へ出向を命じられた。
 
2度のオイルショックを経て、当時の日本は「国産原油の確保」が大きな課題となった。
 
そこで、東シナ海の大陸棚海底油田を掘削する大事業が持ち上がったのである。
 
 
上司から、
 
「日の丸原油は、我が社の悲願だ。我が社の未来を君に託すんだよ!」
 
とうまく煽てられ、石油開発の最前線で「資材調達」の任に当たる事になった。
 
しかしまだ探査の段階で、仕事は殆どない。
 
そこで連日、あの石油掘削リグの詳細な構造を勉強させられる事になった。
 
ちょうどその頃、私はOSHOの瞑想にハマりつつあった。
 
「瞑想を通して、あなたの内側の尽きる事なき源泉に到達しなさい!」
 
というOSHOの言葉に、深い感動を味わっていた。
 
だから、会社で例のリグについて勉強する度に…
 
「これは、外側の源泉を掘るやつだよな〜」
 
という思いが、日に日に強くなっていた。
 
そしてある日
 
「一本の試掘だけで、費用は約30億円」という話しを聞いて、非常に驚いた。
 
そして、
 
「どんなに大油田を掘り当てても、外側のエネルギーはやがて枯渇する。唯一尽きることのないもの、それは内側にある。だから自己の源泉を掘り当てよう!」
 
とのひらめきが、天啓のようにやって来た。
 
30年前の、ちょうど今日あたりだ。
 
前日までは、日本を支えるエネルギーを供給する基幹産業で働く事に喜びすら感じていたのに…
 
そして、あれよあれよと思う間もなく会社を辞めて、終わりなき探求の旅が始まったのである。
 
当時は、何かに乗っ取られたかの様に自分の意志とは関係なく物事が進んでしまい、非常に当惑した。
 
しかし、それは既に恩寵による導きだった。
 
そしてあのひらめきも、源泉からのメッセージだったと、今にして思う。
 
しかしこの終わりなき探求の旅も、いつの間にか終わってしまった。
 
 
そして今は…
 
「掘り当てた源泉をどう使うか」という、
 
これまた終わりなき、新しい探求の旅が始まりつつある。

私が在れば、全ては自由

2014年5月28日(水) by キヨタカ

 アシュターヴァクラ・ギーターによれば…
 
はじめに行為を放棄し
 
それから無駄な言葉を
 
そして最期に思考そのものを捨て去り
 
今、私はここに在る
 
キヨタカによれば…
 
はじめから無駄な行為に執着し
 
それからも無駄な言葉に溺れ
 
そして最期まで思考そのものを捨てらない(^-^;
 
〜にも関わらず、今、私はここに在る
 
アシュターヴァクラ・ギーターの言葉は美しい。
 
最も純粋な聖典であり、真我実現の必読者だと言われている。
 
その言葉は、ちょうど富士山の頂上に立ちその美しさを讃える登山家の様だ。
 
今の時代の富士山は、誰だって登れる。
 
なにしろ、世界遺産に登録されたくらいだ。
 
登山道も奇麗に整備され、5合目までは車でスイスイ。
 
アシュターヴァクラ・ギータの時代は、そうはいかない。
 
太古の昔、噴火活動の活発な縄文時代だ。
 
ごく一部の選ばれた人だけが、富士山の頂上にたどり着けた。
 
そして、その美しさを讃えた。
 
讃えた者は聖者となり、ギータの様な聖典が創られた。
 
富士山の麓に住む人々が、聖者に向かって質問をする。
 
おお、師よ、
 
どうすれば無執着、智慧、自由を見いだせるのでしょう
 
どうか教えて下さい。
 
すると…ギータによれば
 
わが子よ、
 
もし自由になりたいのなら
 
感覚のもたらす毒を避けなさい
 
という答えとなる。
 
だから、自由を諦めて世俗に生きるか、自由を求めて山に登り聖人となるか、選択肢は非常に少なかった。
 
我々現代人は、非常にラッキーだヽ(´▽`)/
 
頂上の美しさを讃える聖人は、雨後の筍の如くに世界中に溢れている。
 
頂上への道も、ありとあらゆる方法がインターネットで探せる時代となった。
 
そもそも、聖人の定義自体が怪しい時代となった。
 
富士山の頂上にいれば、感覚のもたらす毒に接する機会も少ない。
 
情熱に溺れ、性欲に飲み込まれることもないだろう。
 
今の時代では、むしろ山頂ではなく世俗のど真ん中で暮らす俗人の方が成長のチャンスがある。
 
聖人俗人が、グレンとひっくり返る時代なのだ。
 
俗世間にとどまって、ロープを蛇と見間違わなければ、自由は至る所に遍在している。
 
〜にも関わらず私が在れば、全ては自由だ!

世界はただの幻

2014年5月27日(火) by キヨタカ

あなたは純粋な気づき、純粋な歓喜だ41ckvj8n7l_sl500_aa300__3
 
世界はただの幻にすぎない
 
これを悟れば
 
欲望は消え去る
 
あなたは平和を見いだしたのだ
 
なぜなら、本当に
 
何も存在しないのだから
 
インドの聖人、ラーマ・クリシュナやラマナ・マハルシがこよなく愛したという、聖典「アシュターヴァクラ・ギーター」の一節だ。
 
旧約聖書と並んで、縄文時代の昔からインドの全ての聖者によって語り継がれてきたと言う。
 
 
インドでは、「世界はただの幻だ」という事を悟った聖人達が古来より溢れかえっている。
 
さぞかし平和で満ち足りた国だとおもうだろうが、実際に行くとビックリする。
 
もう30年近く前の事、初めてインドを訪れたのだが…
 
間違ってスラム街なんかに足を踏み入れると、たちまち乞食や貧しい子供達に取り囲まれて、「ギブミー パイサ(お金ちょうだい)!」とせがまれた。
 
敗戦直後の日本では、大勢の子供達が「ギブミー チョコレート!」と言って進駐軍を追いかけたそうだが、なんだか進駐軍にでもなった感じだった。
 
一般の貧しいインド人にとっては、純粋な気づきよりも腹一杯食べる方が、遥かな喜びなのだ。
 
ところが今のインドは、さらに凄い事になっていると言う。
 
誰もが電化製品に囲まれたアメリカや日本に憧れ、そうした暮らしに向かって爆発的に経済発展が起こっているそうだ。
 
私が長期滞在したプネーのOSHOコミューンの周囲も、別の都市かと思う程の変貌を遂げていると、20年振りにコミューンを訪れた友人が教えてくれた。
 

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地球人口の爆発的増加だけでも、エネルギーの枯渇は目に見えている。
 
さらに人口12億のインド国民が全員アメリカのような暮らしを始めたら、10年で地球の原油は枯渇し、世界人類70億人がそうしたら、5年で原油は枯渇するという。
 
指数関数のグラフを見れば一目瞭然!
 
人類存亡の危機が、目前に迫っているのだ。
 
 
しかし、貧しい暮らしをする人々に、「世界は幻だから、日本のような暮らしをする欲望は持つな!」とは、とても言えない。
 
物質的な欲求が満たされて始めて、次の欲求が生まれる。
 
心理学者マズローによれば、欠乏欲求(Deficiency-needs)を充分に満たされた者だけが、最終段階の自己実現の欲求(Self-actualization)へ移行するという。
 
「物質的なものだけでは決して満足出来ない」事を実際に体験した人々こそが、「世界はただの幻」という事に目覚めて、欲望に支配されない新しい文明を築く事が出来る。
 
人類存亡の鍵を握るのは、我々日本人なのかも知れない。

自然のオーケストラ

2014年5月26日(月) by キヨタカ

 ずいぶんと、夜が明けるのが早くなった。Img_0616
 
朝の4時前に、あちこちで小鳥がさえずり始める。
 
小鳥のさえずりで自然に目が覚めるので、最近は目覚ましのアラームが鳴る事は殆どない。
 
起床の前、目が覚めてから布団の中で小鳥のさえずりを聞くのが、最高の至福の時。
 
以前は、自然に特定の小鳥の鳴き声を集中して聴いていた。
 
今はただ、全ての音が聴こえるに任せている。
 
すると、色々な小鳥のさえずりに加えて、風になびく木の葉のざわめきや遠くで響く車のエンジン音、さらには自分の心臓の鼓動やお腹がグッ〜と鳴る音とか、…全てが同時に聴こえて面白い。
 
それぞれが勝手に音を出しているのに、自然のオーケストラみたいだ。
 
音を選択するのを放棄して、ただ自然のオーケストラに身を任せると、ひとりでにハートが開いて至福が訪れる。
 
あらゆる音は、来ては去って行く。
 
しかし聴いている私は、いつでもここに在る。
 
本当の私とは、至福そのものではあるまいか?
 
至福が小鳥のさえずりとなり、木の葉の音となり…心臓の鼓動となる。
 
至福に満たされるとエネルギーが溢れ出し、自然に手足が伸びて起床となる。 
 
ルンルン♪気分で、今日もご機嫌だ。
 
 
今朝は、今この瞬間は、「All is well!」
 
全てが上手く行っている。
 
そして次の瞬間も、さらに次の次の瞬間も、やがて今となる。
 
だから…
 
♪All is well!

いつでも「♪きっと、うまくいく」
 

的を外す

2014年5月25日(日) by キヨタカ

 先日の「100分で名著」は、「旧約聖書」がテーマ。
 
「旧約聖書」は学生時代に一生懸命読もうとしたが、何度も挫折した。
 
様々なストーリーが雑多に記述されている事に加え、西洋流の「罪」という概念がどうしても馴染めなかった事が大きな理由だ。
 
しかしこの番組では、聖書誕生の背景としてりユダヤ民族の歴史から解き明かす。
 
シナイ山でモーゼとイスラエル人は神(ヤーヴェ/I AM THAT I AM)から十戒を授かる。
 
「神と契約を交わす」とは、なんとも商売上手なユダヤ人的発想だ。
 
「私たちは神様に忠誠を誓いますから、神様の方はどうぞ私たちをお守り下さい」
、という契約だったと言う。
 
ところが、約束の地カナンで念願の王国が誕生するものの、ソロモンの栄華は長く続かない。
 
とうとう、国が滅ぼされてしまう。
 
 
 
神は契約を履行せず、民を守ってくれなかった。
 
契約不履行だから、ダメ神は訴えらてしかるべきだし、神への不信感が増大するはず。
 
「ダメ神様への信仰など、放棄してしまえ!」と、私なら言うだろう。
 
ところが、これが契機となって、本格的な「一神教」が成立したのだと言う。
 
エッ?、と普通の感覚では不思議に思う。
 
ここで登場する「一神教」の論理、というのがとても面白い。
 
「罪の概念」、が登場するのだ。
 
「ダメなのは神ではなく、民の側がダメだから神が守ってくれなかった」
 
「罪を犯したダメな人間だから神は守ってくれない」
 
と真逆に考えるのである。
 
そしてどんな不幸が起ころうとも神を捨てないゾという、「一神教」が誕生したと言うのだ。
 
「良い事は全て神様のおかげ、悪い事は全て私が罪を犯したから…全ては唯一神の御心のまま」
 
フ〜ム、非常に潔い心構えだ!
 
宗教の宗教足るべき力強さを感じて、思わず感動してしまった。
 
 
日本人には想像を絶する苦難の歴史を歩み、今なお近隣諸国と殺し合いを続けているユダヤ民族。
 
縄文時代の遥か昔から、頑に「唯一絶対の神」を信じ続けている。
 
全世界が同じ「唯一絶対の神」を信じていれば、世界がこんなにも混乱する事はなかったろう。
 
しかしキリスト教もイスラム教もそれぞれが別の「唯一絶対の神」を崇拝する。
 
同じ宗教でも、宗派ごとに「我らこそ絶対」、と主張するから混乱に拍車がかかる。
 
それは西洋だけではなく、東洋でも五十歩百歩。
 
様々な宗派が乱立し、色々なグルや教師達が、「自分達が最高」と主張し混乱している。
 
何かこの終わりなき混乱に終止符を打つ、秘策はないものか?
 
 
実は、日月神示の神様もビックリの「グレンとひっくり返る」秘策がある。
 
それは、神(ヤーヴェ)の名前の本来の意味を問い直す事だ。
 
つまり、神とは外側に切り離された絶対の存在ではなく、
 
自己の内面にある自己の実在( I AM )の事だった。
 

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そしてそれは、内にも外にも世界全体に普遍的に広がってる汎神(THAT I AM)の一部として、私たちひとりひとりの中に内在している。
 
インドでは、アートマンとか真我、仏教では仏、神道では神の分霊(わけみたま)というが、それぞれが全て本来は同じ意味だった。
 
 
さらに、罪という概念もグレンとひっくり返す必要がある。
 
「罪」とは元々ギリシャ語のアーチェリー用語で、単に「的を外す」という意味だった。
 
ついでに、「悔い改める」とは、語源的には、「視点を変える」という事だ。
 
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このように「視点を変えて」一神教を再構築すると、とても素晴らしい内容となる。
 
全て始まりがあり終わりがあるこの現象世界で、
唯一変化しないもの、それこそが…
 
「私が在る(I AM)」
 
これこそが、唯一絶対の神なのだ。
 
私にとり、そしてあなたにとっても、これ以外の絶対神は本来あり得ない。
 
 
残念ながら、この唯一神は地上に降りると、肉体次元の私と同化してしまう。
 
そして、「私が在る(I AM)」を忘れてしまう。
 
本来の自己という「的を外した状態」なので、この状態を「罪」と言う。
 
罪を犯したらな、「悔い改め」れば良い。
 
つまり「視点を変えて」、もう一度、「私が在る(I AM)」へ戻るのだ。
 
健康な人は、病気になって始めて健康な状態の有り難さが身にしみる。
 
同じ様に、肉体次元に同化して本来の自己から「的を外す/罪を犯す」事で、本来の自己という的に狙いを定める探求の旅が始まる。
 
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この地上は生物同士がお互いに食い争わざるを得ない、非常に波動の荒い世界だ。
 
だからこの世に生まれると、暴力的な波動の荒さ故に、どの魂も気を失って本来の自己を忘れる。
 
 
そう解釈すれば、「原罪」という意味が良くわかる。
 
人は生まれながらに、「的を外す」のだ。
 
しかし「原罪」があるからこそ、神の栄光を思い起こす事が重要になる。
 
何度も的を外す事を通して、だんだんと的が明確になる。
 
そしていつの間にか、自己の唯一神たる「「私が在る(I AM)」にピタリと照準が定まり、正確に的を射続ける事が出来る様になる。
 
やがて、的を射る自分こそが的だったというジョークに気づく。
 
そうすれば、四方八方に自由自在に矢を放っても、的が外れる事はなくなるだろう。
 
自由自在の人生を歩みたいものだ。

初心者

2014年5月23日(金) by キヨタカ

100分で名著という番組がある。 

これもNHKオンディマンド(インターネット配信)の、私のお気に入りの一つ。

1回25分の放送で、100分(4回)で古今東西の名著を解説するのだが、ホストの伊集院 光がなかなかいい味を出している。

20140523_203803_2毎回、その本に関しては「私の右に出るものはいません!」というくらいの専門家をゲストに招く。

彼は、専門家相手にヤボな討論はしない。

 

 

「へ〜、そうなんですか。読んだ事ないんですけど、面白そうですね(*゚▽゚)ノ」

と、徹頭徹尾「私は知りません」という初心者のスタンスから発言する。

だから、質問や感動のポイントがとてもフレッシュだ。

解説者の方も、「その質問を待ってました!」という感じで、本の魅力に熱弁を振るう。

見ている方も、思わず「読んでみたい!」という誘惑に駆られて、Amazonで検索して購入ボタンを押してしまったりする。

 

ところでリトリートや瞑想会の申し込みで、「初心者で大丈夫でしょうか?」という質問を良く受ける。

瞑想に関しては「初心者大歓迎(*^-^)ですから、どうぞご安心下さい。

というか、瞑想とはいつも初心者でありたいものである。

瞑想とは、「今」に在る事。

「今」とは、「ゼロの次元」つまり「何も無い」という事。

何も無いからこそ、そこで体験するものは全てが新鮮で生き生きと躍動し輝いている。

「私は知っています」というスタンスにいると、過去のスペースに片足を突っ込んでいる事になる。

すると、もはや純粋な「今」には留まれない。

瞑想に限らず、「過去の知識が邪魔をして新しい知識が入らない」 事は、ベテランの人々に良く起こる。

日々是新(ひびこれあらたなり)

毎日を、小さな子供の様に新鮮な感動と喜び一杯に生きたいものだ。

光に還る

2014年5月22日(木) by キヨタカ

 オーラソーマの教師として日本でも活躍中のヌラが、「光となって肉体を離れました」というメッセージを和尚アートユニティーで働く友人から受け取った。

リーラスペースの活動は、当初セラピー(瞑想の準備を整えるためのワーク)を中心としたイベントが中心だった。

世界中から優秀なセラピストを招聘したが、ヌラもその一人。

和尚アートユニティーと共催で、ヌラやそのパートナーのラハシャのワークを企画した事を懐かしく思い出す。Photo

 

イベントの後で、河津の大滝(おおだる)温泉に2人を招待した事もある。

ちょうどその日は雨上がりで、新緑の山肌に霧がかかりとても幻想的な風景だった。

「子供の時に日本の水墨画を見てから、日本に憧れていたけれど、まさにこの景色こそがそれだった!」と、2人は非常に喜んでくれた。

あれはつい先日のように思うが、もう15年程前の話しだ。

 

ヌラとラハシャはとても仲の良いカップルで、私にとっては「理想のカップル」!

特にヌラは西洋人とは思えない程ソフトで控えめで相手を気遣いながら、芯はとてもしっかりしている。

今は絶滅した(?)昔の理想的日本人女性の質を持っていた。

実は、私のパートナーも同じ質を持っていると思い込んで一緒になったのだが…現実は厳しい。

イベントの裏方を引き受けてくれものの、いつも疲弊している…(ρ_;)

どうして同じ質を持つのに、ヌラはいつも元気で明るくいれるのだろう?

「隣の芝生はより青い」というが…

ヌラをゲットしたラハシャが羨ましくてしかたなかった。

 

そこで、「パートナーを元気にする秘訣」をラハシャに相談した。

するとラハシャは思いがけない、答えをくれた。

「あなたの女性性が泣いているんだよ!」

 

私の質問は、「どうやって相手を元気にさせるか」というもので、そもそも質問が間違っていた。

問題とその解決策は、あくまで自分の中にある。

ラハシャはカウンセリングの専門家で、「投影」という事に関してはピカイチだ。

私は元気である事が良い事で、疲弊するのは良くないと思い込んでいた。

そして内面の女性性、特に自分の中で好ましくないと感じている性質(無力さ、傷つきやすさ、悲しさ、弱さ等々)を否定していたのである。

しかし内面で「否定されたエネルギー」は、何らかの形で外側に投影される。

「パートナーが疲弊するのは良くない」とは、実は「自分の女性性が疲弊するのは良くない」という思い込みの投影だったのだ。

パートナーの在り方を通して自分の内面を知る、とても貴重な体験だった。

そしてヌラとラハシャは、「理想のカップル」は存在するしそれが可能な事を実例として示してくれた。

心から感謝している。

 

ところでヌラは数週間前まではとても元気で活躍していたそうで、今回の訃報には誰もが驚いているだろう。

世界に30例しかない稀な病気だったそうだが、先週私が日誌(5.13「死後の世界」)で紹介したエベン・アレグザンダー博士の病気と同じらしい。

偶然の一致ではあるが、どこか深い所で繋がっているのだろう。

今こうしてヌラにチューニングすると、ちょっと不謹慎だけれども、大いなる光が燦々と降り注ぐ感じがして、とても穏やかで幸せな気持ちになる。

おそらくパートナーのラハシャは、私とは比較出来ない程の大いなる光に包まれているに違いない。

 

ヌラとは、光を意味するそうだ。

私たちの本源は光だ。

光としてこの世界を訪れ、やがてまた光へ還る。

だからこそ、光としてこの世界を生きるのだ。

そのシンプルな真実をもう一度思い起こさせてくれたヌラに、心から感謝している。

※ヌラ先生の今回の出来事について、詳しくお知りになりたい方は、下記のページをご参照ください。

http://ameblo.jp/aurasoma-unity/entry-11856751390.html

お引っ越し

2014年5月21日(水) by キヨタカ

 既にお気づきの方も多いと思いますが、先日ヨガビジャが修善寺日誌からお引っ越し。
 
新しいブログを立ち上げた。
 
日誌の名前はなんと:「修善寺 *裏* 日誌

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名前を聞いて…
 
「裏と表がグレンとひっくり返るぞ」
 
…という「日月神示」のメッセージを思い起こしてしまった。
 
「日月神示」は、神道家で画家の岡本天明氏が自動書記で降ろしたという神からのメッセージ(神示)
 
「富士は晴れたり、日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」
 
で始まる、非常に力強いメッセージだ。
 
 
毎日富士山を眺めながらこのブログを書いているのだが、富士を見るたびにこのメッセージが頭に響く。
 
修善寺日誌のデザインに富士山を選んだのも、その影響かも知れない。
 
皆さんに内在する「神の力」が、ぜひとも富士山の様に高くそびえて、その姿を現せる世となって欲しいものである。
 
今の所、修善寺日誌の*裏*をヨガビが担当する事になっているけれども…
いづれ裏と表がグレ〜ンとひっくり返って、
ヨガビが表に現れるのではあるまいか(o^-^o)
 
 
最近の世相を見てみると、両極化があらゆる方面で極端に進んでいる。
 
たとえばアメリカ社会の場合、金持ちと貧乏人の差がどんどんと広がっていて、
「1%の金持ちvs99%の貧乏人」という経済構造にマジでなりつつあると言う。
 
いよいよ、何もかもがグレンとひっくり返る時節が到来したのかも知れない。
 
リーラスペースも、いづれはヨガビが瞑想会をリードするのだろう。
 
キヨタカもグレンとひっくり返り、
キッチンを担当する事になるかも。
 
不味い食事に参加者がひっくり返ってしまうかも知れないが、
 
何もかもが身魂磨きと心得て、覚悟して下されよ(ρ_;)

残り僅か

2014年5月20日(火) by キヨタカ

 7月のリトリートの参加申し込みは、残り僅かとなりました。

参加人数限定のためご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。

キヨタカ

本当の寛ぎ

2014年5月20日(火) by キヨタカ

 昨日は、日本文化が本来持っている「平和、優しさ、寛容さ」について述べた。
 
しかし、「ちょっと違うんじゃないの?」と、実は自分からツッコミを入れたくなる。
 
確かに古代ローマ人に比べれば、コロシアムで人が殺し合い血を流す様子を見て興奮して喜ぶといった、狩猟民族特有の残忍性は少ない。
 
 
そのかわり、農耕民族特有の陰湿な没個性の文化が連綿と続いていた。
 
家族や村や組織が個人よりも優先される事が美徳とされ、お国の為に命を捧げた人々が英雄とされた。
 
いつも周囲の視線を気にして行動する事が要求され、周囲に合わせないと「村八分」となる。
 
「村八分」された側にとっては、優しさや寛容さは微塵も無い冷たい社会だった。
 
そもそも日本では、この狭い国土で大勢の人々が肩を寄せ合い、お互いを気にしながら絶えず緊張して暮らしている。
 
日本人にとっては「お風呂や温泉でゆったりする事が唯一の寛ぎの手段だった」、と皮肉りたくもなる。
 
 
子供の時から周囲の価値基準で行動する様に条件付けされていると、本当は何を自分が望んでいるのかすら、分からなくなる。
 
私は学生時代に弁護士になりたいと望んだ。
 
その為に、法律を一生懸命に勉強したのだが、少しも面白くなかった。
 
「法律の勉強が面白くないのは自分の頭が良くないから」だろうと思って、頭を良くするために坐禅を始めたのが、瞑想の動機だった。
 
瞑想して自分を良く振り返るようになって、ようやく弁護士という職業に興味はなく法律にも無関心だった事に気づいた。
 
単純に周囲の価値基準を自分の中に取り込んで、自分の望みと思い込んでいたのである。
 
「本当に自分が望んでいるものは何か?」
 
それを知る為には、「本当の自分」が誰なのかをまず知らなければならない。
 
 
だから、真我を探求して真の自分の望みを知る事こそが、本当の寛ぎへの唯一の鍵なのだ。
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そうすれば…
「温泉に入れない」
「〜にも関わらず私が在る(I AM)」
 
だから、安心して自分が自分であることにゆったりと寛げるのである。

テルマエ ロマエ Ⅱ

2014年5月19日(月) by キヨタカ

 映画「テルマエロマエⅡ」を見に行く。
 
 阿部 寛扮する古代ローマ人の浴場設計技師が、現代日本にタイムスリップしてカルチャーショックを受けつつローマ風呂建設に邁進するSF(?)コメディ。
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2年前に大ヒットした映画の、続編だ。
 
さすがに前回程の新鮮な衝撃はないけれども、ハリウッド並の豪華なエンターテイメント作品になっている。
 
日本人なら誰もが当たり前と思う日本文化の素晴らしさを、古代ローマ人の視点から明らかにするギャグが満載で、シンプルに面白い。
 
 
温泉文化やトイレ文化に加えて、今回は相撲文化が新たな要素に加わった。
 
曙や琴欧州の登場にもビックリだが、私が個人的に驚いたのは地方巡業のシーン。
 
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「なんだか懐かしいな〜」と思っていたのだが、後で調べてみたら…
なんと実家の小山市内の八幡宮で撮影されたものだった!
 
境内には立派な土俵があり、昔は地方巡業や相撲大会で賑わった。
 
子供時代に父に連れられて相撲見物をした風景が、鮮やかに蘇ってくる。
 
 
映画では、日本の相撲取りを古代ローマのグラディエターとユーモラスに対比する。
 
そして「殺し合わないグラディエター」として、日本文化の持つ、平和さ、優しさ、寛容さを上手に描いている。
 
そもそもこの映画の大前提が、「平和国家建設の為」にローマ風呂を建設するというギャグをベースにしているのだが…
 
実は単なるギャグを超えた、平和への祈りを込めたとても重要なメッセージが入っていると思う。
 
そもそも人が完全に「寛いだら」、果たして人を殺せるだろうか?
 
自分が自分である事に寛いで充分に満たされたら、相手の事もあるがままに認める余裕が生まれる。
 
日本文化には、そうした「寛容性」が連綿と受け継がれている。
 
「瞑想を通して、あるがままの自分に寛ぐ」と言うのが理想だけれども、なかなか一般受けはしない。
 
しかし、温泉で「寛ぐ」のはとても簡単だ。
 
「寛ぐ」とは、防御本能を解除して、あるがままの自然でオープンな
姿に戻ること。
 
全ての生物が持つ、生得権だ。
Photo
 
映画のエンディングで、猿が温泉で寛ぐユーモラスなシーンがあった。
 
猿だって、温泉で寛いだら平和を愛する動物に変身する。
 
猿でさえ寛げるのだから、人間が寛げない訳がない。
 
「寛ぎ」こそが、平和への鍵なのだ!
 

偶然と必然

2014年5月18日(日)   by キヨタカ

NHKオンディマンド(インターネット配信)の「コズミック フロント」は、私のお気に入り番組のひとつ。
 
宇宙の神秘に魅入られた天文学者や宇宙物理学者が、数多く登場する。

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昨日見た番組は、「超新星 SN1987A」がテーマ。

1987年2月24日、400年ぶりに肉眼で観測された超新星として有名だ。

         (爆発前後の比較写真⇒)

後に超新星爆発で生じるニュートリノを偶発的に検出したことで、小柴昌俊教授がノーベル賞を受賞した事でも、日本中の話題となった。

小柴先生が観測に成功した観測装置カミオカンデは、本来は陽子崩壊の検出を目的としたもので超新星爆発は専門分野外。

しかも試験運用開始からわずか2ヶ月で、偶然に検出したと言う。

だから、

「あまりにも『あんたは運が良かった』と言われたので腹が立つ」

と述懐している姿がおかしかった。

 

実は、「運が良かった」天文学者がもう一人いたのを今回始めて知った。

それは、第一発見者のカナダ人青年 シェルトン氏。

当時29歳のシェルトン氏は、トロント大学で天文学を先攻したが成績が及ばず大学院には進学出来なかった。

そこで、南米チリの天文台スタッフとして、アンデス山中へ。

残念ながら仕事で世話をしていた望遠鏡は別の研究者達が優先して使うのため、自分ではあまり使えない。

そこで隣の施設に放置されていた古くて小さな望遠鏡の使用許可を得て、観測を開始。Img_0020

大マゼラン雲を観測してわずか3日目に、400年ぶりの超新星爆発に遭遇、肉眼でも確認したのだと言う。

人間の立場からすれば、超新星爆発の時期は予想不可能。

1987年2月23日までは、たとえ大マゼラン雲を400年間一晩欠かさず見続けても超新星は絶対に見つからなかったはず。

だから、観測出来た事は「運が良かった」の一言に尽きる。

 

しかし大マゼラン雲の位置は、地球から16.4万光年の彼方にある。

それはつまり、16万4千年前に既に超新星爆発が起こり、1987年2月24日にその光が地球に到達する事は既に決まっていたと言う事だ。

もしかしたら宇宙は用意周到に超新星爆発のショーを準備して、シェルトン氏と小柴氏に白羽の矢を立てて、観測を行わせたのかも知れない。

もしそうだとすれば、シェルトン氏と小柴氏は「運が良かった」のではなくて、観測は「必然」だったのではないか?

 

「超新星爆発がいつ起こるか解らない」のは、時間と空間の世界に閉じ込められている我々だからであって、単に今の人間の限界に過ぎない。

江戸時代、空を飛ぼうとした建具師の浮田幸吉は、<奇行で人を騒がせた>という罪で、所払に処されたという。

しかし、今では人が空を飛び宇宙を飛ぶのが当たり前になった。

もし人が、時間と空間から自由になれば、偶然に起こる不思議な現象が、必然的な当たり前の出来事として説明出来る様になるかもしれない。

古代より、未来予知能力を持った予言者がそれぞれの時代に登場して世間を賑わせている。

彼らは、「時間と空間」から自由になる秘密を、手にしていたのかもしれない。

「時間と空間」からの自由、それこそが瞑想の真髄なのだ!

 

ところで、なぜ私には未来予知が出来ないのだろう?

それはつまり、未来などそもそもないのであって・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

…これ以上説明しようとすると頭が混乱する。

しかし、「神秘の次元」に身をゆだねると…

「ああそういう事なのか〜(*^-^)」と、ニンマリ微笑みがこぼれるのである。

理屈は何も分からないのだけれども(^-^;

<お引越し>

2014年5月18日(日) 晴れ by ヨガビジャ 

 
 
突然ですが、私、お引越しします。 
 
いえ、ブログの中の話です。。 
 
 
この度よがびのブログを立ち上げました。 
 
キヨタカとケンカした訳ではありません。 
 
 
その証拠にグロブの名前は、 
 
 
   “ 修善寺  *裏*  日誌 ”   
<( ̄^ ̄)> ドンッ! 
 
 
よろしければ遊びに来てくださいね。 
 

 こちらからどうぞ  →  修善寺  *裏*  日誌 


 

7月のリトリートのお知らせ

2014年5月17日(土) by キヨタカ

7月のリトリートをリーラホームページにアップしました。

3、5月のリトリートを踏まえて、さらなる進化を目指します。

2デーズに延長しますので、ゆったりと寛いだスペースから「神聖な次元」へのアクセスが自然と起こるようになるでしょう。

マインドという領域で過去や未来の幻想の中で生き続けるのか、それとも「本当の私」に目覚めて喜びに満たされた人生を謳歌するのか、選択のチャンスです!

皆様の参加をお待ちしております。

DNAの共有

2014年5月16日(金) by キヨタカ

 一週間振りに、実家から修善寺へ戻る。
 
大自然に囲まれた我が家に到着して、ほっと一息。
 
しかし、庭の雑草の凄さに唖然shock
 
たった2週間前に、ボランティアスタッフの手を借りて庭の手入れをしたばかりなのに…
 
都会に住めば雑草の脅威を避けられるけれども、自然からは遠ざかる。
 
大自然の中で暮らせる喜びの小さな代償なのだから、ダイエットエクサシズと思い草刈りに励もう!
 
Photoそれにしても敷地全体が緑に覆われて、ほとばしる生命力のパワーに圧倒される。
 
ツツジの花も満開となり、アゲハ蝶がひらひらと舞う。
Photo_2
 
 
雑草だって、一つ一つをよく見ると、それなりに懸命に生きている。
 
刈ってしまうのが、なんだか申し訳ない感じも…
 
 
そもそも、人間も植物も同じDNAという設計図から出来ていると言う。
 
DNAを紙に例えると、紙に書かれた文字に相当するのが塩基配列でたった4文字しかない。
 
そして塩基配列の並び方が違うので、紙に書かれる情報が異なる。
 
だから同じDNAという設計図でありながら草になるか人間になるかが決まるとは、何度聞いても摩訶不思議な話しだ。
 
しかし自然の中に身を委ねると、人も雑草もツツジもアゲハ蝶も同じ仲間である感覚がひとりでに起こり、生命力が蘇ってくる!
 
この’ワンネス’という感覚は、通常の五感を超えた、DNAの共有というレベルからやって来る感覚なのかも知れない。

ジュータン無しの人生

2014年5月14日(水) by キヨタカ

 もう30年くらい前の事だが、某占い師から、
 
「あなたは、足場のジュータンを剥がされるように何度もひっくり返される人生を歩むだろう。ジュータンなしに安住出来るまで…」
 
と、厳しい事を言われた。
 
当初は腹が立ったが、振り返るとその通りの人生を歩んだ。
 
仕事にしても住む家にしても、どんなに気に入っても手放さざるを得ない状況に陥ってしまう。
 
文字通り、ペロ〜ンと剥がされてしまうのだ・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
 
関係性(リレーションシップ)もその通りで、何度剥がされた事か…Dsc_0302_20100424085422_2
 
もっとも今のジュータンは例外で、
骨董品レベルになったけど…(ρ_;)
まだ続いている。
 
ジュータンに安住しない事が、長続きのコツなのだと心得ている。
 
 
人は誰もが安住出来る、「ジュータン」を求めている。
 
お金だったり、人間関係だったり、仕事だったり、家だったり…人により様々なものが。
 
そうしたジュータンが全て引き剥がされて、「今」という何も無いスペースに寛ぐ時、本当の「安住」が起こる。
 
それこそが、禅で言う
 
「まさに無所住にして、その心を生ずべし」(金剛経)
 
禅の六祖慧能(えのう)は、このお経を通りがかりに聞いて悟ったとか…
 
それはともかく、ジュータンという住する所が無いので、とらわれがない。
 
だから心は自由自在、臨機応変に対応出来る。
 
ジュータンがない…にも関わらず「私が在る(I AM)」という事だ。
 
 
キリストは、この不動の「I AM」を、岩に例えた。
 
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 (マタイによる福音書7章24~29節)
 
キリストの言葉は、完全に誤解されてしまったけれども…
 
唯一不動の「私が在る/I AM」に立脚した、ジュータン無しの人生を、融通無碍に満喫したいものである。

死後の世界

2014年5月13日(火) by キヨタカ

 今日は定期診断で、母を連れて病院へ。
 
医者から、「年齢より10歳若く見えます」と言われ、まんざらでもなさそう。
 
今年の冬に風邪で高熱を出してから、明らかに若返った感じがする。
 
血圧もほぼ正常となり、杖を忘れて歩く事も多い。
 
美容院で髪をセット、帰りに資生堂のお店で化粧品を購入、ついでに本屋を覗くのも月例行事の一つ。
 
本屋の雑誌コーナーには、「壮快」とか「安心」など主にシニア世代をターゲットにした雑誌がずらりと並んでいて壮観。
 
高齢化社会を肌で感じる。
 
母が手にした雑誌に「○△×だけで、病気が治る!」、と仰々しい文字が(@Д@;
 
「もし本当なら医者が失業しちゃう┐(´-`)┌」と、呆れてしまった。
 
よく見ると、「死ぬとどうなる?…あの世の科学」との特集記事が小さくあった。
 
なんだか面白そうなので、母にプレゼントしようと雑誌を購入。

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「死は終わりではない」という事をテーマにした記事で、なかなか読み応えがあった。
 
特に脳神経外科の権威:エベン・アレグザンダー博士と矢崎智子医師との対談は面白い。
 
博士は著名な外科医で、死後の世界には否定的な典型的科学者だったとか。
 
ところが、急性の細菌性髄膜炎にかかり7日の昏睡状態に陥り、奇跡的に回復。
 
臨死体験を経て、死後の世界を確信したのだという。
 
氏の発言を巡って、アメリカでは大論争を巻き起こしたそうだ。
 
 
母は毎朝仏壇に線香を上げお墓参りも欠かさないのだが、バリバリの唯物論者。
 
「死んだら終わりよ!」が口癖だ。
 
一方私の方は、仏壇を拝むのが子供の時から苦手。
 
母からは「人としてまともじゃない」と非難されている。
 
…にも関わらず「死んでも死なない!」派だ。
 
お互いに死んだ体験がないので、2人とも説得力がイマイチ。
 
 
しかしアレグザンダー博士の説は、医者でありながら実際に臨死体験をしているので、非常に説得力がある。
 
対談相手の矢崎医師も、シータヒーリングや直観医療等も行うニューエージ系。
 
こんな大衆雑誌に当たり前の様に、死後の世界が取り扱われる様になったのだから、時代は大きく変化した事を改めて実感した。
 
人間の煩悩と苦悩には限りがないが、煎じ詰めればたった一つ「死ぬ事への恐れ」に由来していると思う。
 
仏教では「生をあきらめ、死をあきらめるは、仏家一大事の因縁なり」(道元禅師)
と言う。
 
聖書には「われはいのちなり、よみがえりなり、われを信じる者はたとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)
と書かれている。
 
生死の問題を解決する事が、人を究極の幸せへと導くのだ。
 
私と母との「死後を巡る論争」は、長い間平行線を保ったままだった。
 
ところが最近ようやく母の態度が軟化しつつあるのが嬉しい。
 
「もしかしたら、死んでも終わらないのかしら?」と、時々つぶやいている。
 
ぜひとも大往生を遂げて、直接確認して欲しいと切に願っている。
 

好きな事だけをする

2014年5月12日(月) キヨタカ

 ヨガビに言わせると…
 
「キヨタカは、いつも好きな事だけをしている\(*`∧´)/」
との事。
 
昔は非難されている感じがしたのだが、最近はそういわれると嬉しい(*^-^)
 
エゴをベースに好きな事だけをしていると、当然周囲に多大な迷惑をかけるけど…
 
「魂の喜ぶこと」をベースに好きな事だけをすれば、いつかはこの喜びが世界中に広がるのではないだろうか?
 
問題は、「魂がよろこぶこと」と「エゴが喜ぶこと」の区別だが…
 
あまり難しく考えるのは止めよう!
 
とりあえず好きなことをして結果を知る事で、だんだんその区別が明確になる。
 
という事で、今日も好きな事を始めよう♪
 
やがて、「私がする事は全て好きな事」になっていく予感がするo(*^▽^*)o

浄化作用と風邪

2014年5月11日(日)  by キヨタカ

 
瞑想とは、自分の意識を対象物から自分という意識の主体そのものへとシフトすることだ。
 
だから対象物へと向かうエネルギーの流れは、「私が在る(I AM)」へと方向が逆転する。
 
「 私が在る ⇒ 対象物 」が、「私が在る ⇦ 対象物 」となる。
 
すると「私が在る」に中心が定まり、意識はより充実してクリヤーで爽やかな自己を味わえる。
 
意識の波動が上がるのだ。
 
それに伴い、肉体レベルの波動も上がる。
 
肉体も、新しい意識に合わせたより繊細でデリケートなものに変化するからだ。
 
その変化のプロセスで、肉体の浄化作用は必然的に起こると言っても良い。
 
特にリトリートの時は、肉体の浄化作用が激しく起こる場合がある。
 
身体が重かったり、頭痛や吐き気など、いわゆる「風邪気味」になったりすることもあるから、充分に注意が必要だ。
 
そもそも、風邪とは人間が持っている健康回復への自動調整機能だ。
 
だから、風邪とは浄化作用そのものとも言える。
 

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 東洋医学では人間を意識を含めた全体をして扱うので、そうした考えは受け入れ易い。
 
「整体」という言葉の生みの親と言われる野口晴哉先生は、
 
「風邪の症状は必要があって出るのだから無理に薬で押さえない方が良い」
 
「風邪を上手く会得すれば、風邪も早く治る」
 
と、名著「風邪の効用」でハッキリと語っている。
 
しかし、そうだからと言って、「医者に行くな!」とか言うつもりは毛頭ない。
 
自分の内在智に従い、冷静かつ合理的に判断して欲しい。
 
真実の自己を生きる事にコミットして、瞑想を生活の基盤にしたいなら、それなりの投資が必要だ。
 
生活スタイル全般を見直して、食事や運動は言うに及ばず、趣味から仕事や人間関係等々に至るまで、瞑想が醸し出す繊細で穏やかな波動に合うよう、各自で心がけたい。
 
そうは言っても各自の自然なタイミングがあるから、無理矢理頑張る必要はない。
 
瞑想を心がけていたら、いつも間にか生活スタイルがシフトしたというのが理想だ。
 
そうすれば、瞑想で体調が悪くなるという事もかなり少なくなるだろう。
 
むしろ瞑想によって、よりエネルギッシュで元気な肉体へシフトする事が可能だ。
 
Hさんから感想を頂きました。
 
* * * Hさんの感想 * * *
 
キヨタカさま そして、ワンデーリトリートでお世話になりました皆々様ありがとうございました。
 
修善寺日記を読んでいて、
 
I さん 他、ヨガビジャさんまで「身体にくる」リトリートだったような気がします」
と書いてあったので、
 
調子が悪かったのは私だけじゃなかったの?、と驚きました。
 
その中でも私は重症だったので、うるさくご迷惑をおかけしました。
 
4日朝から喉の調子がおかしくなり、5日のリトリートは早退しようとキヨタカさんに話したところ
 
「それは浄化かもしれない」と言われ、
 
結局最後まで参加させていただきました。
 
リトリートを終えた次の日の6日は、激しい喉の痛みに、結局22時間寝込んでしまいました。( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄;)
 
ノそして次の日、お医者さんで、慢性扁桃炎という事が分かってお薬を貰いましたが、こんなにひどくなったのは初めてで、お医者さんからは、生理食塩水(海水)で、1日何回も「うがいをしましょう!」と言われました。
 
やっぱり、浄化なんでしょうか ・・・・・ 
 
清めなさい。ですね。
 
イベントは数回しか参加したことがないのですが、適切な言葉に、適切な音楽に、リズムある流れに、「良いですよね」と、帰宅車中の同席の方と話をしていました。
 
修善寺日記[自己救済]で「呆ける」には程遠く、連休明けから仕事が忙しかったこともありますが、いまだ身体とも折り合っていない(?)ようで、咳も時々出て、おかしな言い方かもしれませんが、いろいろ自分の中で、整頓が出来ていません。
 
…にも関わらず、、
 
胸の前あたりが 『穏やかに、広がるような…』感覚でありまする(^^)
 
ありがとうございました。
 
ではでは。

感謝エクササイズ

2014年5月10日(土) by キヨタカ

真夜中に、痒くて目が覚めた。
 
猛烈に痒いshock
 
実家の正面は、広々とした空き地だ。Img_0594
 
平安時代末期に小山を開いた小山氏住居跡として、公園になる予定とか…
 
もっとも予算が足りず放置状態で、非常に蚊が多い。
 
季節的にまだ大丈夫と思ったのだが、それが甘かった。
 
左足の親指だけ、何カ所も刺されてしまった。
 
「痛み」の場合、プレゼンスに留まる事である程度距離を保つ事が出来る。
 
「痛み…にも関わらず私が在る」!
 
しかし強烈な「痒み」の場合、そうは行かない。
 
「私が在る」…にも関わらず、痒くてたまらない・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
 
痒みは、痛みよりもプレゼンスに留まるのが難しいようだ。
 
物置から取り出した蚊取り線香を炊いて、ベッドの中でどんなに激しくゴシゴシ激しく掻きむしっても、痒みは増すばかり。
 
「あ〜、今夜は眠れそうもない」
 
と諦めていたら、いつも間にか夢の世界へ…
 
今朝も、すっきり爽やかに目覚める事が出来た。
 
しかも、どこも痒くないヽ(´▽`)/
 
皮膚が痒くないという事が、どんなに有り難いことか、改めて思い知らされた。
 
 
ちょうど30年前、アメリカで3ヶ月の長期トレーニングコースを受けた事がある。
 
毎日の授業の終わりに、「感謝エクササイズ」の時間があった。
 
一日を振り返って感謝出来る事を見つけて話す、というごくシンプルなものだ。
 
しかし、当時はなかなか感謝出来るものが見つからず、このエクササイズが大嫌いだった。
 
30年経ってようやく、
 
皮膚が痒くない事、朝になったら目が覚める事、手足や心臓が動く事などなど…
 
感謝の種が日常生活に溢れている事を、知るようになった(*^-^)

切り絵作家?

2014年5月9日(金) by キヨタカ

 今日から一週間の予定で、実家へ帰省中。
 
母を引き取りに、老人福祉施設に立ち寄った。

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毎月、切り絵を創るのを楽しみにしている母だが、「今月はとても良く出来たから、見てちょうだい」と食堂へ案内された。
 
食堂の壁に、月代わりで母の作品が飾られるのだ。
 
5月のテーマは「鯉のぼり」だが、あまりの見事な出来映えにビックッリ仰天(@Д@;
 
高齢になってもこうした創造的活動に従事しているので、とても元気。
 
同じ県内に、「くじけないで」の詩でブレイクした柴田トヨさんがいるが、彼女が詩を書き始めたのは90歳だとか…
 
私の母は90歳を過ぎて、もしかして切り絵作家としてブレイクするかも…
と思ってしまった。
 
しかしあまり上手すぎるので、良く良く聞いてみると、どうやら切り絵の得意な職員がゴーストライターを引き受けてくれたらしい。
 
安い給料で重労働なのに、母の趣味にまでつき合って頂き、大変有り難い。
 
感謝感激゚゚(´O`)°゚

自己救済

2014年5月8日(木) by キヨタカ

「 呆ける」とは、一般的にはあまり好ましくないと思われているが…
 
実はとても大切なスペースだ。
 
先日のリトリートで強烈なエネルギー体験をした様な場合、数日は 呆けて過ごした方が新しい意識へとシフトが起こりやすい。
 
潜在意識の中で新たな意識への自己調整機能が働くので、その為の場を意図的に持つ必要がある。
 
病気になったり怪我をした時は、休む必要があるのと同じ事だ。
 
自分の中に、自分をより健康で健全な肉体と精神へと修正する機能がある。
 
自分を救うのは、自己(I AM)なのだ。
 
「私がある(I AM)」が目覚めると、それは必ず起こる。
 
…とは言っても、参加者の多くは世間で仕事をしているので、「数日はぼ〜っと過ごすといいですよ」とは必ずしも言えないので、各自で工夫して欲しい。
 
私の場合は、久しぶりにウィンドサーフィンに興じた。
 
久しぶりなので上手く乗れないだろう思ったら、逆に上達しているのを知り驚いた。
 
今回のリトリートで、私がある(I AM)という意識状態が、肉体レベルに降りて来ている感じがあった。
 
自分がよりまとまって、統合された感じだ。
 
ウィンドサーフィンをしていても、あれこれ余計な事を考えなくなったので、上手く乗れる様になったのだろう。
 
 
夜は、「偉大な生涯の物語/The Greatest Story Ever Told」のDVDを鑑賞。
 
これは、キリストの伝記を聖書通りに映画化したもの。
 
20年くらい前に見た記憶があるのだが、「長くて退屈」としか思えなかった。
 
しかし、実は非常に感動的な映画である事が今回よく解った。
 
映画の中でキリストが語る 私という言葉を、 「私(I AM)」と置き換えてみたのだ。
 
するとキリストのメッセージが、2千年の時を経て…
 
ダイレクトに伝わり、非常に驚ろいたw(゚o゚)w
 
ガチガチのキリスト教徒にとっては、絶対に受け取れない事だとは思うが…
 
 
例えば、キリストがたいまつの光を高く掲げて

Photo

 
「私はこの世を救いに来た」
 
と語るシーンがある。
 
ここで、 「私(I AM)」に置き換えて鑑賞してみると…
 
実は、キリストは「自己救済」について語っていた事が良く解るのだ。
 
今回見直してみたところ、「長くて退屈」どころかちょっと物足りない感じがするのが不思議だった。
 
そこで調べて見たところ、オリジナル版は260分(4時間20分)で、私が見たDVDは199分のカット版である事が判明。
 
61分もカットされているのだから、物足りない感じがするのも仕方ない。
 
なんとかオリジナル版を見てみたいものである。
 
 

訂正

2014年5月7日(水) 晴れ by ヨガビジャ 

先の日誌、私の勘違いでした。 
 
水色の卵は「オオルリ」ではなく「ムクドリ」さんの卵でした。 
 
さっきネットで調べたら、明らかに
庭でよく見かける黄色いくちばしのつがいのものです。。 

卵がブルー系だからオオルリと思っていた私、 
 
 
なんて短絡な思考力・・・ 
_| ̄|○ 
 
 
赤い小鳥は赤い実を食べてる♪ といったレベルですね。。 
 
ちなみに某アニメで「西から昇ったお日さまが東に沈む〜♪」というのも長らく信じていたのでした。 
 

520mukudori
 
 
 
 
 
 は
ずかしーー!ヾ( T▽T;)ノ
 

これでいい

2014年5月7日(水) 晴れ by ヨガビジャ 

一昨日、ワンデーリトリートが終了しました。 
参加されたみなさま、リトリートをサポートしてくださったスタップの方々、どうもありがとうございました。
 
リトリートは毎回似たプロブラムを行っても起こることや
理解、そしてエネルギー的な感覚はずいぶん異なりますが、今回は久しぶりに「身体にくる」リトリートだったような気がします。 

それほど体力を使う瞑想はしなかったのですが、少し身体が重かったり、私はリトリートの終盤辺りから咳が出て今もまだ残っています。 
 
一過性のものであることは分かっているのでなにも対処はしていませんが、参加された方の中にもなんらかの症状がある
方もいらっしゃると思います。 
 
今は少し繊細で、以前より無防備でオープンになっているかもしれませんので、
ご自身のケアを忘れずにお過ごしくださいね。 
 
さて、片付けは昨日でほぼ終わりましたが、洗って干してあった温泉のマット類を温泉棟に戻しに行く道すがら、、 
 
Img_7773_2 陽に透けて 
 雑草がきれいでした 
 
 そして
 本館横の洗濯機の下に 
 見慣れないものが 
 転がっていたので 
 手に取ってみると・・・ 
 
 
 
 
Img_7762 オオルリという 
 深い瑠璃色をした 
 鳥の卵の殻 
 久しぶりだな〜♪
^^ 
 
 
この上に鳥の巣が 
 あるのは知ってたけど 
 住んでる鳥は瑠璃色では 
 なかった気が・・・
 
 
 
 
Img_7765 
集合住宅っぽい感じに 
 なってるから 
 種類の違う2世帯が 
 住んでるのかしら?
(・・?) 
 
 
 
色の卵を見ていたら気分がほっこりしてきたので、ちょっと庭のあちこちを久しぶりに探索♪ 
 
富士見荘の南側に植えておいたパイナップルの頭(簡単に根付くと聞いたので試しに…)の様子を見に行くと、
 

 
Img_7801 尺取り虫がいた 
 w( ̄o ̄)w オオッ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 パンダ目でした Img_7804  
 
@(・●・)@ 
    ↑ 
コアラですが…)
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7803_2  パイナップルを離れ
 旅にでました 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7810 身も縮むような 
 想いをしたり 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7814 行き先を 
 見失ったり 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7816 振り返ったり 
 してみるけど 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7821 やっぱり前に 
 進むしかなくて 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7822
 また 
 行き止まり 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Img_7824 しばし 
 思い悩み 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Img_7826 また 
 歩き出す
 
 
 これって 
 まるで人生・・・ 
(・・;) 
 
 
 
 きっとこれでいい 
 愛すべき人生 
 
 
 
(参考…以前のオオルリさん関連の日誌。写真あります)
    「オオルリさんたち」
   

霧が晴れた

2014年5月7日(水) by キヨタカ

 「求めよ、さらば与えられん!」
 
キリストの有名な言葉だが、求めるものが与えられた時の喜びは何ものにも代え難い。
 
求めるものが真理に属するならば、尚更だ。
 
21歳で初めて「一瞥」が起こって以来40年近く経つが、最近ますます「ああそうだったったのか!」と腑に落ちて感動する事が多い。
 
リトリート参加者のMさんから、感想のメールを頂いた。
 
「深い所で腑に落ちましたので、霧が晴れたような爽やかな気分」との事。
 
その感動、よく解ります(*^-^)
 
* * Mさんの感想 * *
 
Beloved キヨタカ、ヨガビジャ、スタッフの皆様、参加者の皆様
 
4・5日とお世話になり、ありがとうございました。
 
初リトリートでは、自分の予想をはるかに上回る体験ができました。
 
まずは、プレゼンス・ビーイング・ハートの的確な説明で、今まで曖昧だった本当の自己の本質に対する理解がクリアーになりました。
 
深い所で腑に落ちましたので、霧が晴れたような爽やかな気分です。
 
また、様々なワークも初めてながら、無邪気に楽しめました。
 
いい意味での、大人の遊びだと思います。
 
「失楽園」のような恋愛ゲームとは全然違いますが(笑)
 
どのワークもよかったですが、自分的にはハートの説明の直後に行った、ハートから天使の羽が生えたイメージで、両手で目を覆い、頭からしずくがハートに落ちてゆくワークがとても気に入りました。
 
そして、何よりもマインドが静かになった事です。
 
あまり意識せずとも、対象物から距離を置いて見れるようになったと感じます。
 
と言いつつ、明日から仕事が始まるので、フーマン曰く「穏やかな努力」を続け、日常生活でもこの感覚を楽しみたいと思います。
 
こんな素晴らしいリトリートは、他にありませんので、ぜひ続けていただき、多くの方が体験されますようお祈りいたします。
 
宝くじに当選した暁には、真っ先に研修施設を買い取らせていただく所存です(笑)
 
今回のリトリートに参加できた恩寵に感謝し、キヨタカ始め皆様に恩寵が満ち溢れますようお祈りいたします。
 
本当にありがとうございました。
 
from Yokohama with Love
 

3日分位の濃さ

2014年5月6日(火) by キヨタカ

 リトリートが無事終了した。
 
ワンデーリトリートのため、当然ながら提供できる瞑想は非常に限られてしまう。
 
〜にも関わらず、「1日でしたが3日分位の濃さ」との感想を頂いた。 
 
いよいよ、リーラスペースも次の次元へシフトし始めた感じがする。
 
それが何なのかは良くわからないが、マスター弥勒さんのメッセージ(4/1日誌)で言われた事が実際に起こり始めたのかもしれない。
 
『今から、キヨタカさんはオリジナルな世界に入って行くでしょう。それは「未知なる香り」です。』
 
* * I さんの感想 * *
 
キヨタカさん&ヨガビジャさん
 
新しくなったリーラスペースでのリトリート初参加で したが、今回のリトリートは個人的には一筋縄ではいかないものでした。
 
楽しみにしていた筈のリトリート、前日に瞑想もしたし、準備万全だったのですが修善寺に向かう電車の中で、少しだけ喉が痛くなり、なんだか体もけだるい。
 
1日経っても治らず、、しかし身体は瞑想のお陰で全然快調でして、エネルギーに満ちているというか、、、
これはネガティブな感情がリーラスペースに来て浄化として身体に現れているんじゃないかと思いあるがままにしておくことにしました。
 
毎回僕は貴重な良い体験ばかりしているこ ともあって、体の痛みとして表れるのは初めての経験であり、自分の兆候と向き合う良い経験になりました。
 
そして新たなるリーラスペースのリトリートでは終了してからも凄かった。新幹線に乗ったとたん、眉間と側頭部のあたりの締め付け感が強烈でした。
 
毎回じんわり締め付けられる感じはあるのですが、今回は目も開けられないくらいぐらいでした。
 
字も読めないし、まるで外界からの情報をシャットダウンしろとばかりの、エネルギーが降りてきてました。
 
今思うと、キヨタカさんの隣で瞑想していたからかなぁ~(笑)
 
他の参加者の方も言われてましたが、1日でしたが3日分位の濃さですね、
 
リーラスペースの場のエネルギーも神 社のような厳かで神聖なエネルギーに感じました。
 
これから良い感じにバランスをとってリトリートで得たエネルギーをアウトプットしていきたいです。
 
* *

みどり

2014年5月4日(日) by キヨタカ

 リトリートの事前準備で庭仕事をしてくれるスタッフが、全員集合!
 
今日は朝から環境を整えるワークをして、夕方集合する参加者の準備を行う。
 
 
昨晩は、余興でサイキックリーディングの遊びをしたのだが…
 
Mさんのオーラの色を当てるゲームをしたら、全員が「みどり」と解答。
 
私も、「みどり以外にはあり得ない」と言うくらい、強く感じた。
 
後から聞くと、本人もみどりが大好きとの事。
 
 
みどりは、古代より「調和」とか「自然体」とか「本当の自分」のシンボル。
 
ハートの色としても、有名だ。
 
今回のリトリートは、新緑に囲まれた伊豆の大自然の中で、ハートが自然に開いて行く楽しいイベントとなるだろう。

「これ」

2014年5月3日(土) by キヨタカ

 明日からリトリートが始まる。
 
今日はボランティアスタッフも到着し、庭の手入れをしてくれる予定。
 
実に有り難い。
 
 
今朝は朝の4時くらいに目が醒めてしまった。
 
また「これ」がやって来たのだ。
 
リトリートが始まる数日前に、必ず「これ」はやってくる。
 
通常の意識状態が変化して、リトリートモードになるのだ。
 
リトリート中はマックスになり、殆ど睡眠を必要としなくなる。
 
リトリートが終了すると、穏やかに「これ」は去って行き、通常モードに戻る。
 
以前は、「恩寵による導き」とか「ガイダンス」とか呼んでいたが、今はもう特別な名前を付ける事はしない。
 
ただ導きに任せて、起こる事を楽しむようにしている。
 
 
今までは「これ」がリトリートの時に来て、また去って行くという感覚だったが、実はそうではない事が最近わかりつつある。
 
個人セッションの時とかも同じモードになるし、日誌を書いていても「これ」がやってくると自分が読んで感心する内容になったりするから…
 
「これ」はいつでも「今」にあって、それが全面に出たり背後に戻ったりしている、という方が正確な表現だ。
 
キヨタカの「背後霊」かも知れないし、はたまた「守護霊」とか「守護神」というものかも知れないが、なんだか怖そうな名前(/□≦、)
 
古臭くもあり、私の趣味に合わない。
 
だから、「これ」としか言いようがないのだが…
 
 
「これ」とキヨタカが完全に融合した時に、さらなる意識の進化が起こり、
座布団が100枚くらい降ってくるのだろうヽ(´▽`)/
 

座布団10枚!

2014年5月2日(金) by キヨタカ

昨日の日誌に、ナラヤナからコメントが入った。
 
本質以外は皆ストーリーということなんだね。
本質に立脚した上でのストーリーなら問題は無いと思うが、本質を忘却してストーリーのみになると、水面に映る己が姿で溺れてしまうんだ。
 
思わず、「座布団10枚!」とつぶやいた。
 
 
この世は、現世(うつしよ)だ。
 
ちょうど水面に映る己の姿の様に…現れては消えて行く仮の姿のストーリーが展開されている。
 
しかし通常意識は対象物のみに向かうので、水面に映る己の姿が自分だと思い込んでしまう。
 
そしてこちら側(本質)を忘却して、ストーリーに埋没して、右往左往してしている。
 
「スマホがナイ、金がナイ、倒産して会社がナイ、家に帰ったら妻がいナイ、
 …ナイ、ナイ、ナイshock
 
 
己を映す水面が晴天無風の田貫湖みたいなら、己の姿も富士山の如く美しく映

Unknown

し出され、自己の本質を思い起こすのも簡単だ。
 
しかし現実は、波風に晒されている。
 
だから映るべき己の姿は千々に乱されて、予想外のストーリーに翻弄される。
 
ストーリーを修正すべく奮闘努力すると、さらに湖面をかき混ぜる事になり、さらなる深みに溺れてしまう(;д;)
 
 
瞑想とは、水面に映る己の姿から、意識のベクトルを180度転換させる事だ。
 
水面に映る元の姿がこちら側に「在る」事を知れば、状況は一変する。
 
「私が在る」という本質に立脚した、新しいストーリーを主体的に描く事が可能となるのだ。
 
 
意識の目覚めは、進化する。
 
「スマホがナイ、にも関わらず私が在る」事に目覚めたら、座布団1枚(゚ー゚)
 
「スマホがナイ」などという無意識な行動がなくなれば、座布団5枚(*^-^)
 
自己の本質に立脚して、この世で創造的なストーリーを自由自在に展開出来る様になれば、座布団10枚(*゚▽゚)ノ
 
と言ったところだろうか…
 
霊的進化には限りが無いから、無限の座布団が用意されている予感がする♪

スマホがナイにも関わらず…

2014年5月1日(木) by キヨタカ

昨晩は遅くに帰宅して、そのまま寝てしまった。
 
今朝、起きたらスマホがない。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
先日コンタクトを失くしてから、「絶対に物をな失くさないゾ!」と固く誓ったばかりなのに…
 
何処を探してもナイ、ナイ、ナイ。
 
昨日新幹線で東京から戻ったので、もしやとおもい三島駅に電話したが全く通じない。
 
そこで三島駅まで行き、ゴールデンウィークで忙しい駅員相手にすったもんだしたおかげで、名古屋駅に届いている事が判明!
 
…で、わざわざ名古屋駅の拾得物取扱所まで出向き、ようやくスマホを取り戻した。
 
貴重な一日を、探し物に費やしてしまったが…名古屋へ向かう電車の中で考えた。
 
「スマホがナイ…にも関わらず私は在る」
 
「お金がナイ…にも関わらず私は在る」
 
「〜がナイ…にも関わらず私は在る」
 
だから…
 
「肉体がナイ…にも関わらず私は在る」
 
そうだとすれば…
「死んでも私は在る」
 
という貴重な結論を得た。
 
…まだ死んだ事はないけれども…( ̄Д ̄;;

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