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的を外す

2014年5月25日(日) by キヨタカ

 先日の「100分で名著」は、「旧約聖書」がテーマ。
 
「旧約聖書」は学生時代に一生懸命読もうとしたが、何度も挫折した。
 
様々なストーリーが雑多に記述されている事に加え、西洋流の「罪」という概念がどうしても馴染めなかった事が大きな理由だ。
 
しかしこの番組では、聖書誕生の背景としてりユダヤ民族の歴史から解き明かす。
 
シナイ山でモーゼとイスラエル人は神(ヤーヴェ/I AM THAT I AM)から十戒を授かる。
 
「神と契約を交わす」とは、なんとも商売上手なユダヤ人的発想だ。
 
「私たちは神様に忠誠を誓いますから、神様の方はどうぞ私たちをお守り下さい」
、という契約だったと言う。
 
ところが、約束の地カナンで念願の王国が誕生するものの、ソロモンの栄華は長く続かない。
 
とうとう、国が滅ぼされてしまう。
 
 
 
神は契約を履行せず、民を守ってくれなかった。
 
契約不履行だから、ダメ神は訴えらてしかるべきだし、神への不信感が増大するはず。
 
「ダメ神様への信仰など、放棄してしまえ!」と、私なら言うだろう。
 
ところが、これが契機となって、本格的な「一神教」が成立したのだと言う。
 
エッ?、と普通の感覚では不思議に思う。
 
ここで登場する「一神教」の論理、というのがとても面白い。
 
「罪の概念」、が登場するのだ。
 
「ダメなのは神ではなく、民の側がダメだから神が守ってくれなかった」
 
「罪を犯したダメな人間だから神は守ってくれない」
 
と真逆に考えるのである。
 
そしてどんな不幸が起ころうとも神を捨てないゾという、「一神教」が誕生したと言うのだ。
 
「良い事は全て神様のおかげ、悪い事は全て私が罪を犯したから…全ては唯一神の御心のまま」
 
フ〜ム、非常に潔い心構えだ!
 
宗教の宗教足るべき力強さを感じて、思わず感動してしまった。
 
 
日本人には想像を絶する苦難の歴史を歩み、今なお近隣諸国と殺し合いを続けているユダヤ民族。
 
縄文時代の遥か昔から、頑に「唯一絶対の神」を信じ続けている。
 
全世界が同じ「唯一絶対の神」を信じていれば、世界がこんなにも混乱する事はなかったろう。
 
しかしキリスト教もイスラム教もそれぞれが別の「唯一絶対の神」を崇拝する。
 
同じ宗教でも、宗派ごとに「我らこそ絶対」、と主張するから混乱に拍車がかかる。
 
それは西洋だけではなく、東洋でも五十歩百歩。
 
様々な宗派が乱立し、色々なグルや教師達が、「自分達が最高」と主張し混乱している。
 
何かこの終わりなき混乱に終止符を打つ、秘策はないものか?
 
 
実は、日月神示の神様もビックリの「グレンとひっくり返る」秘策がある。
 
それは、神(ヤーヴェ)の名前の本来の意味を問い直す事だ。
 
つまり、神とは外側に切り離された絶対の存在ではなく、
 
自己の内面にある自己の実在( I AM )の事だった。
 

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そしてそれは、内にも外にも世界全体に普遍的に広がってる汎神(THAT I AM)の一部として、私たちひとりひとりの中に内在している。
 
インドでは、アートマンとか真我、仏教では仏、神道では神の分霊(わけみたま)というが、それぞれが全て本来は同じ意味だった。
 
 
さらに、罪という概念もグレンとひっくり返す必要がある。
 
「罪」とは元々ギリシャ語のアーチェリー用語で、単に「的を外す」という意味だった。
 
ついでに、「悔い改める」とは、語源的には、「視点を変える」という事だ。
 
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このように「視点を変えて」一神教を再構築すると、とても素晴らしい内容となる。
 
全て始まりがあり終わりがあるこの現象世界で、
唯一変化しないもの、それこそが…
 
「私が在る(I AM)」
 
これこそが、唯一絶対の神なのだ。
 
私にとり、そしてあなたにとっても、これ以外の絶対神は本来あり得ない。
 
 
残念ながら、この唯一神は地上に降りると、肉体次元の私と同化してしまう。
 
そして、「私が在る(I AM)」を忘れてしまう。
 
本来の自己という「的を外した状態」なので、この状態を「罪」と言う。
 
罪を犯したらな、「悔い改め」れば良い。
 
つまり「視点を変えて」、もう一度、「私が在る(I AM)」へ戻るのだ。
 
健康な人は、病気になって始めて健康な状態の有り難さが身にしみる。
 
同じ様に、肉体次元に同化して本来の自己から「的を外す/罪を犯す」事で、本来の自己という的に狙いを定める探求の旅が始まる。
 
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この地上は生物同士がお互いに食い争わざるを得ない、非常に波動の荒い世界だ。
 
だからこの世に生まれると、暴力的な波動の荒さ故に、どの魂も気を失って本来の自己を忘れる。
 
 
そう解釈すれば、「原罪」という意味が良くわかる。
 
人は生まれながらに、「的を外す」のだ。
 
しかし「原罪」があるからこそ、神の栄光を思い起こす事が重要になる。
 
何度も的を外す事を通して、だんだんと的が明確になる。
 
そしていつの間にか、自己の唯一神たる「「私が在る(I AM)」にピタリと照準が定まり、正確に的を射続ける事が出来る様になる。
 
やがて、的を射る自分こそが的だったというジョークに気づく。
 
そうすれば、四方八方に自由自在に矢を放っても、的が外れる事はなくなるだろう。
 
自由自在の人生を歩みたいものだ。

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コメント

こんにちは

私は、的というもに当てようとすればするほど当たらず、ではと、的を意識せずにおこうとすればするほど意識してしまう。的に当てたと思っても次には当てられず、苦悩する。その苦悩はそもそも己が的から離れねば無かったのだと今は思います。 しかしながら自分が的であったというところには至っていません。

tsuyoshiさん

>私は、的というもに当てようとすればするほど当たらず、ではと、的を意識せずにおこうとすればするほど意識してしまう。

的にあてようとする私は誰か?という事です。

狙っている「矢」を180度、グレンとひっくり返します。

すると「自分が的だった」事がわかります。

ぜひ探求を続けて下さい。


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