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2014年7月

自由自在

2014年7月31日(木) by キヨタカ

 SNSなんかの書き込みだけで推察すると、相当ヤバイ人に思える場合がある。
 
ところが実際に会ってみると、豈に図らんや…、ビックリするくらいまともな常識人で驚いたりする。
 
マイミクのR君もその一人。
 
mixiで毎日の「H系つぶやき」を読むと、「相当ヤバイ変態オジサン」だと誰だって思うが…
 
実際は非常に真面目で謙虚な人柄である事は、私が保証する。
 
インドのOSHOコミューン長期滞在中は一番仲良しで、良く一緒に遊んだ。
 
最近も、リーラのリトリートに参加。
 
 
そんなR君が、珍しくスピ系のつぶやきをした。
 
Images_2 ありのままと あるがままの違いについて。
『漢字にすると「有りのまま」「在るがまま」で違いがわかる。
松たか子の叫ぶような歌い方に違和感を感じたんだけど、なんか、「ありのまま」は ego、「あるがまま」は being のように思った。』
 
 
「いや〜、鋭いです。 座布団10枚!」と、思わずコメントしたら…
 
…座布団は2枚ぐらいです。
 
と、相変わらず謙虚な返事があった。
 
果たして「座布団何枚が妥当か?」はさて置き…
 
 
確かに松たか子の歌うメッセージと、「あるがまま」の体現者マハルシのメッセージとの間には、大きな違いがある。

Unknown

「有りのまま」とは、「Let it go!」
 
過去の束縛を手放して、自由になれ!
 
メッセージは、あくまでも「Doing/すること」にある。
 
一方の「在るがまま」とは、「Let it be!」
 
メッセージは、「Doing/すること」ではなく、「 Being/あること」に向けられている。
 
 
すること(Doing)から、あることへ(Being)、瞑想の醍醐味はここにある。
 
人はこの現象世界でいくら「自由奔放」に振る舞っても、本当の自由はない。
 
孫悟空がいくら飛び回っても、お釈迦様の手のひらから外には飛び出せないのと同じだ。
 
現象世界の背後にある、気づきそのものに目覚めた時、人は初めて本当の「自由の扉」を得る。
 
それが、プレゼンスつまり「自覚」だ。
 
そして、その扉を開いて、その向こう側に無限に広がる無の空間に明け渡す。
 
すると、「自」覚した状態がただ「在」るようになる。
 
それを、「自在」という。
 
そうなって初めて、本当の自由が訪れる。
 
「自由自在」の境地だ。
 
そうなれば、無数の座布団が舞うようになるだろうヽ(´▽`)/
 

気づきとくつろぎ(キヨタカさんの助言2/2)

2014年7月30日(水) by キヨタカ
 
 昨日の続きです。

 * * *

気づきとくつろぎ(キヨタカさんの助言2/2)

O:えーっと,アジズですか。なんだったかな。
   (咄嗟に思い出せなかったが、アジズは覚醒の道の地図を教えていた)
 
K:いえアジズのこと(知識)はどうでもいいんです。
こういう風に考えてください。
生まれる前は、私たちはもともと存在とひとつでした。
 
O:はい。
 
K:でも天から魂としてこの地上世界に降りて来て、この肉体をまといますよね。
こういう神話は抵抗ないですか。
 
O:まあ大体、分かります。
(妻の実家は神道だったが、詳しいことはあまりしらなかった。八百万の神くらいか)
 
K:神道では、自己の本性の事を「神の分霊(わけみたま)」といいます。
 
魂というのは神様と同じなのですが、神様の魂が分かれて霊(みたま)として、この肉体に入っているという考え方です。
 
だから魂としてこの世を生きれば何の問題もないのですが、天上界にいる神様の波動というのはとても繊細ですが、地上界の波動はとても荒いですよね。
 
この地上って残酷で、文字通りお互いにお互いが喰いあって生きている弱肉強食の世界でもありますからね。
 
O:はい。
 
K:だから精妙波動の魂が、この肉体という荒い波動に入るとショックで一時的に眠っちゃうんです。
 
O:ああ
 
K:魂はコーマ(昏睡)状態になります。
本当は、魂は精妙波動で存在全体に広がっているものなのですが…
 
O:はい。
 
K:そして、この小さな肉体が自分だと錯覚してしまうんです。
 
O:まあ、普通そう思いますよね。
 
K:はい。
そして「本当の自分」が誰か分からなくなってしまう。
忘れてしまう。
魂としての記憶を忘れた、「魂の記憶喪失者」になります。
 
完全な記憶喪失者は、「自分が誰か?」問うこともない。
でも少し記憶が蘇り始めると…
 
「ん…? あれっ…?、本当の私は誰だろう?」と問いかけが始まります。
この問いが、本質的にとても重要です。
 
この問いなしに、ニューエージのワークショプなんかを渡り歩いている人々が大勢います。
 
しかし残念ですが、この問いなしでは、魂の目覚めが起こる事は難しいでしょう。
 
O:ふーん
 
K:記憶喪失者が登場するドラマなんかで、よくやってます。
「私って誰?」って言うのを、見たことありますすよね?
 
O:ええ
 
K:それと同じです。
ラマナ・マハリシが言うのはそれです。
 
私たちは魂の記憶喪失者ですから、まず「私は誰か?」問いを発する事が必要です。
でも、「もう一つの問いかけ」があるのが分かります?
 
O:ええ
 
K:記憶喪失者が、「私は誰?」と良く言いますよね。
 
O:ええ
 
K:もう一つ言うんですよ。
 
O:もうひとつ?
 
K:夢遊病者の例えの方が、分かりやすいかな?
 
例えば、1kmくらい夢の中で歩いて行って、はっと気づいて…。
夢遊病者は、何を問うでしょう?
 
O:「私はどこにいるのか?」ですか。
 
K:(手を打って)そーうです!!
「 Where am I?」
 
「私はいったい何処にいるのか?」
 
魂としての私が、寄って立つ基盤のことです。
 
O:うーん…
 
K:今、Oさんの床に畳がありますね。
 
O:フローリングですが(また,余計な脱線をしていまった)
 
K:Oさんの肉体の拠り所は、そのフローリングという基盤にあります。
同じ様に、自我には必ず何か拠り所となる基盤というのがあります。
 
それは家族だったり、夫や妻だったり、お金だったり、社会的地位であったり、名誉だったりします。
 
ドラマなんかで、よく「家族の為に頑張る」とか「〜に命を賭ける」とかね。
でもそう言うものって、絶対に安住しないですよね。
 
全て外側のものは、来ては去ってゆきますから。
 
O:そうですね〜。
 
K:大企業でいくら社長さんに出世しても、世間で大成功して賞賛されても、それは去ってゆきます。
 
だから決して安住しません。
 
O:ええ、そうですね。
 
K:それでは、魂の拠り所はどこでしょう。
 
O:うーん、ここしかないですよね。
 
K:そうです!。「いま」、「いま・ここ」です。
 
O:「いま・ここ」ですか?
 
K:時間的には「いま」ですよ。
いま!。
「いま」にあると、くつろぐんですよ。
 
過去や未来は、緊張状態を創りだします。
 
くつろぎとは、「いま」にあることとも言える。
 
「いま」だけが、唯一来ては去って行きません。
ですから、永遠にそこに安住出来る拠り所となるのです。
 
それ以外は、お金も、家族も、地位も名誉も…、過去も未来も…決して安住出来る場所はあり得ません。
 
O:確かに。
頭は未来のことを考えたり、過去のことを考えたり…思考を見ていると過去と未来のことしかありませんね。
わかります。はい。
 
K:おっしゃる通り、思考の根っこはかならず過去か未来にあって、「いま・ここに」は有りようがないんです。
 
O:思考は「いま」にいれないことは最近、分かって来ました。
 
K:「いま」あるのは気づきだけなんです。
だから次のステップとして、「気づきにきづく」ことが出来たら…
 
「いまあることにくつろぐ」という、次のステップが必要になって来ます。
 
O:最初におっしゃったことですね。
 
K:それで本当に「気づきにきづく」、それから「いま」にくつろぐ、というのをくり返すと驚くほど早く意識が変容し始めます。
 
他のことは、今はあまり考えない方がいいと思います。
 
O:そうですか。
 
K:気づきとくつろぎが統合してゆくと、次のステップへ導かれます。
ハートという別の次元が開いて行くのです。
 
O:(胸をさして)このあたりがジーンとすることがあり、とても気持ちいいのです…
「くつろぎ」というのは、どのようにすればいいのでしょうか。
 
K:「くつろぐ」というのを頭で説明するのはとても難しいです。
しかし体験は、とても簡単です。
 
O:はい。
 
K:「くつろぎ」とは、どのようにすればいいのかと聞きましたよね?
一発でわかります。
やりますか?
 
O:はい。
 
K:あ、心臓が悪いそうだから、あんまり無理しないで。
 
O:大丈夫ですよ。
 
K:それでは、息を思い切り吸ってみましょう。
そして息を止めて、全身を緊張させてください。
 
それでは、いち、にっ、さん!
息を吸って、吸って、吸って〜、もっと吸って〜!。
(いっぱいに息を吸って,力を入れて)
 
はい、息を吸いきったら、そのまま、止めて!
同時に身体を緊張させて、顔も両手も、両足も…力(リキ)んで力んで!。
じゃ、リラックスしてください。
 
O:(息を吐いて)はーーっ。
 
するとどうです?
「ふわーっ」となりますよね?
 
「ふわーっとなった」行き先が「いま」です。
 
ですから、「いま」へと向かってくつろぐ訳です。
 
O:ふわーっとした感覚がありますね。
(胸から腹に掛けてエネルギーを感じる)
 
K:ふわーっと感がありますよね。
で、どこにくつろぐかと言えば、「いま」にくつろぐ訳です。
 
O:ふーん、(感じながら)そうですね。
 
K:で、これは女性エネルギーです。
手放すこと、明け渡すこと、何もしないこと、お任せすること…。
 
O:ふーん
 
K:気づきのエネルギーとは真逆ですよね。
 
O:はい。
 
K:気づきというのは、修行や努力とかより高みを目指すと言う、男性原理と関係していますから…
 
O:そうですね。
 
K:この気づきとくつろぎをごっちゃにしている人が多くて、実は私がそうだったんですけど…。
 
気づきの努力をする必要があるのに…
 
「OSHOがなにもするなといっているよな。遊んでいればいいんだ。」
 
「老子だって、無為自然、あるがまま…が最高の境地と言っている。」
と自分をごまかしてしまったり。
 
遊んだり、ゆったり過ごしていると…
 
「遊んでいる場合じゃない!もっと努力して修行しなければいけない!」
 
「グルジェフは、超努力が必要と言ってるじゃないか!」
「禅の修行でも、生死事大、無常迅速、時人を待たず! 喝〜
と自分を追い立てたり。
 
もう全然先に進まなかったんですよ。
 
真実は、両方とも最初は必要です。
 
O:大変な修行の上に、それを私たちに教えていただいてありがたいです。
 
K:私の体験を踏まえて、他の人は学ぶ事が出来ます。
 
様々なルートを辿って色々な失敗をしました。
だから私は、そのルートを回避する情報を伝えられます。
またその情報を具体的に知れば、他の人はそのルートを辿らずに済みますから…。
 
ですから、リトリートに参加するまでに、たった二つのことだけをやってください。
 
O:はい。
 
K:要するに「気づきに気づく」ということ、そして気づきに気づいたら直ちに「くつろぐ」。これをくり返しやってください。
 
O:はい。分かりました。
 
K:で、「気づき」と「くつろぎ」というのは矛盾しているように見えます。
でも、実は歩くのと同じですよ。
 
歩くためには、「右足」と「左足」を交互に動かす訳です。
右足を出している時は左足は後ろですよね。
左足を前にすると右足は後ろです。
 
お互いに矛盾しているけど、矛盾があるから先に進めるんです。
生命も文明も宇宙そのものも、矛盾を通して進化し続けているのです。
 
O:くつろぐと気づきが戻ってしまうことになるんでしょうか。
 
K:えーと、くつろぐと気づきが戻るのではではなく、広がってゆくのです。
 
O:広がるんですか?
 
K:全体に広がるんです。
気づきだけをやっていると、点のように収縮してしまいます。
 
瞑想の流派によってはこの気づきだけをやっている人たちがいますけど、すごく緊張して、ガチガチになっている人が大勢います。
 
ビリビリしていてそばによると、近づき難く感じられます。
ちょうど武者修行中の宮本武蔵のように、そばに寄れなくなってしまいます。
 
O:斬られそうな感じがするんですね。
 
K:吉川英治の本「宮本武蔵」を読んだことがありますか
 
O:あります。
 
K:武者修行に専念していた武蔵は、この状態でした。
 
そこに、島原の名妓 吉野大夫が登場します。
 
彼女は武蔵のあまりに張りつめた様子を見て、その心を柔らげ、さとすために自ら大切にしていた琵琶を打壊して武蔵に悟らせる場面がありましたよね。
 
弦を強く絞り過ぎると、弦が切れてしまいます。
 
弦を緩めるということは、ビーイング(在ること)にくつろぐということに通じます。
 
でも、緩め過ぎると今度は音が鳴らなくなってしまいますよね。
 
O:難しいですね。
 
K:最初は難しく感じられます。
「気づき」と「くつろぎ」。
 
たったこれだけでも、本当に一生を懸けて探求すべきアートになりますね。
ぜひ、これをやってください。
 
他の事を色々言うと、混乱してしまうでしょう。
ですから、これだけを言っておきます。
 
それでは、リーラスペースでお会いできるのを楽しみにしております。
 
O:あの、もう一つ質問していいでしょうか?
私不眠症なんですが、薬をやめようかと思って、昨日飲まなかったんですよ。
その中で意識はさめているんですが、身体だけが寝て行くんですよ。
 
K:素晴らしいですね。
瞑想の境地の一つに、「身体は寝ていても意識は醒めている状態」というのがあります。
 
大体歳を取ると、そんなに寝なくても大丈夫になりますから。
昔からの習慣で、「8時間寝なくちゃダメ!」とか、思い込んでいるだけです。
 
O:昨日、意識があるのに周りが円のように広がった感じになったんです。
 
K:えー。
 
O:時間は数秒なんですが、すごく広がって。それは意識の広がりなんですかね。
 
K:そうですね。本当に覚醒するとよく夜眠れないことがあります。
眠れなくても問題はありません。
 
私はリトリートの間は数時間しか眠りません。
でも、普段以上に凄く元気になります。
 
O:わかりました。
 
K:眠れないことを気にする必要はないです。
未だかつて眠れないで死んだ人は誰もいないでしょう。
眠れなくてちょうどいいや、覚醒するちょうど良い機会だと思ってください。
 
O:ときどき布団の上で座禅をしているんですけど。
 
K:60過ぎたら4時間くらい寝れば大丈夫です。
赤ちゃんはたくさん眠っても、人生にはまだまだ先があります。
 
でも還暦を過ぎた人にとっては、もう人生の終わりが見え始めていいます。
 
残り少ない人生なのに、眠ってばかりいたらもったいない。
 
私の母親なんか92歳でもう残り僅かの人生なのに、「夜眠れない!」と睡眠薬を飲んでいる。
けれども昼間は、テレビにかじりついてコックリコックり居眠りしている(ρ_;)
 
睡眠薬なんか飲まなくても、死んだ後で、永遠の眠りをじっくり堪能すればいいじゃないですか!
 
残り僅かの生きている間は、出来るだけ覚醒を保って目覚めていましょうよ!
 
O:わかりました。
(気づきとくつろぎ以外触れないようにしているキヨタカさん)
 
K:そういうことで…。
 
O:ありがとうございました。

気づきとくつろぎ(キヨタカさんの助言1/2)

2014年7月29日(火) by キヨタカ

リトリート初参加のOさんは、瞑想は全くの初心者で「何を準備して良いか解らず不安」という事だった。

そこで事前に、ビデオ通話で簡単な質疑応答を行った。

内容を記録したそうで、後日送付して頂いた。

初めて瞑想をされる方に役立つ情報なので、参考までに修善寺日誌にアップしよう。

文章にすると少し長いので、2回に分けます。

 * * *

気づきとくつろぎ(キヨタカさんの助言1/2)

Oさん:お聞きしたいのは,まず,「気づき」ということについてです。
 
キヨタカ(K):瞑想では,「気づき」と「くつろぎ」、がごっちゃになっている場合が多いです。
 
「努力」と「無努力」とも関係していますが、この2つを混同したままにしている人が大勢います。
 
もちろん、やがて統合されていくものですが…
 
最初はこの2つを明確に区別すると、瞑想とは何かが解りやすくなるでしょう。
 
この現象世界は、天と地,男と女,昼と夜など、陰陽の織りなすタペストリーだと言う事はご存知でしょう?
 
瞑想も同じで,男性性と女性性があります。
 
瞑想には,「気づき」と「くつろぎ」の二つの要素があります。
 
どちらが男性性でどちらが女性性かわかりますか。
 
O:「気づき」が男性性で、「くつろぎ」が女性性です。
 
K:その通り!
 
「気づき」に働きかけないで、『あなたは既にそれだ!努力はいらない!』という教えだけを鵜呑みにして…
 
「な〜んだ、ただくつろいでいればいいんだ!」
 
と思ってやっていたら、何年くつろいでも目覚めは起こらないでしょう!
 
私の知り合いにも、そう言う人たちがけっこういます。
 
ただレットゴーして、酒を飲んだり、ゴロゴロしてくつろいで…、思考や感情の赴くままに行動しています。
 
「私は不在だ。何もする必要はない。全てはあるがまま、神の恩寵にお任せすればいい。」
「努力はエゴを強化するからダメ」と固く信じているのです。
 
しかし最初に、まず努力して「気づき」に働きかけないと、何も起こりません。
 
 
O:ステート オブ プレゼンスのことですか?
 
K:ステート オブ プレゼンスというのは「気づきそのものにいる状態」のことです。
 
まずは瞑想のみならず、日常生活で可能な限り「気づきそのものにいる状態」を保つ事が重要です。
 
「気づき」というと何か特別なことのように思いますが、私たちは誰もが「気づき」を朝から晩まで使っています。
 
「気づき」 は、あまりにも当たり前なので、見過ごされてしまっているだけです。
 
K:(Webカメラの前に物を出して)これは何ですか?
 
O:時計ですね。
 
K:(Webカメラの前に別の物を出して)これは何ですか?
 
O:携帯電話ですね。
 
K:はい、時計とか携帯電話を認識しているのは、既に「気づき」があるからです。
 
「携帯電話です」と言うと、思考が入り込みます。
 
けれども「携帯電話」と言う前に、物自体が既にあなたの中に飛び込んできませんでしたか?
 
O:四角い板のような形そのものですね。
 
K:(時計を出して)たとえばこれ。
 
見た瞬間に、「ぱっ」と、言葉以前にそのもの自体が「意識のスクリーン」に飛び込んできますよね。
 
その飛び込んで来た先に既にある意識のスクリーン、これが「気づき」です。
 
O:はい。そこに解釈を加えたら、別なものになるんですね。
 
K:はい、そこにマインドによる解釈が後からやってくるんですね。
 
だから、「気づき」というのはマインドに先立って存在している。
 
 
O:(解釈の前に気づきがある)なるほど、わかりました。
 
K:分かりましたか(*^-^)
 
ビックリするくらい当たり前の事でしょう?
 
もう一つ大切なことがあります。
 
認識されるものは、すべて「気づき」の対象物です。
 
O:はい。
 
K:そして、対象物は絶えず変化します。
 
それはちょうど鏡と同じようで、鏡は様々な対象物を映し出します。
 
Oさんの気づきの鏡に、いろんなものが映っているのです。
 
O:はい。
 
K:Oさんの中に気づきの鏡があって、いろんな対象物が映っています。
 
そしてその映っている対象物は移り変わり、時間とともに全て来ては去っていきます。
 
(時計や携帯電話など、物をどんどん変えながら)こうやって。
 
けれども「気づき」そのものは去っていかないんです。
 
O:はい。
 
K:始めから既にあって、今もあるし…
 
O:気づきの主体ですね。
 
K:そう、そこに留まればいいだけの、なんだか騙されているような馬鹿みたいに簡単な話です。
 
O:ふーん。
 
K:ところが、大部分の人は気づきの対象物の方にのみ意識が向いてしまうんです。
 
O:まあ、そうですね。
 
K:そして、自分とは「気づき」そのもである事を忘れている。
 
これが苦悩の根源です。
 
O:解釈が入るんですね。
 
K:例えば、iPhoneを見ると、見ている主体ではなく対象物のiPhoneへのみ意識が向かう。
 
見ている主体としての「気づき」を、すっかり忘れてしまう。
 
そして対象物の「iPhone」を見て、「iPhone」というマインドの解釈が入り込む。
 
そして単に解釈に留まらず、iPhoneにまつわる感情が湧いてくる。
 
「これが欲しい!」とか「欲しくない」と言う感情や欲求、さらに「どうやったら手に入るんだろう?」というような思考が湧いてくる。
 
そして「iPhoneが欲しい」という思考や感情そのものが、自分と同一化してしまう。
 
O:そうですね、わかります。
 
K:「iPhoneが欲しい」というのが私になってしまうけど、真実はそうではないんです。
 
「iPhoneが欲しい」と思うマインドの背後に、iPhoneを欲しいと思っている「私」という意識があるわけです。
 
そこに意識を向き返さなくてはならないのです。
 
「iPhone」という対象物に向かう意識のベクトルを、「私」へと180º逆転させるのです。
 
具体的にどうやったら、そこに意識がもどると思いますか?
 
O:うーん…
 
K:意識を戻すために、とても素晴らしい「問い」があります。
 
O:あっ、「私は誰か?」ですか!
 
K:そ〜うなんです。
 
O:リーラHPに「おすすめの本」というのありましたので,ラマナ・マハルシの「あるがままに」を買って来ました。
 
K:この本は、ほんと名著ですから…
 
O:この本は素晴らしいと思いました。
 
K:ま、ラマナの本はとても高尚に書いてあるので…
なんか実在とか書かれてあると、自分からかけ離れたような感じがしてします。
 
けれども全然そんなことはなくって、今このiPhoneに「気づいているあなたのことです。
 
O:ふーん
 
K:これが実在ですからね。
 
でも普通の人は「iPhoneが欲しいな」とかで終わっちゃうんですよね。
 
さらに一生懸命私が説明して、ようやく実在を体験してもらっても… その価値を全く評価しません。
 
「これ」がそうなの? こんななんの変哲も無い「これ」が実在わけないじゃない!
 
馬鹿にしないでよ\(*`∧´)/
 
…と叱られてしまったりしますが(;д;)
 
O:ええ
 
K:iPhoneを欲しいという思考がやって来たら、、それを欲しいと思っている「私は誰か?」とマハルシが言うように問いかけてみて下さい。
 
たちどころに意識のベクトルが、iPhoneから「気づいている私」の方へと戻るんです。
 
O:内側に戻るんですね。
 
K:そうです。でその戻ったところ、これがそれです。
 
O:それで、気づきを維持するということは、意識を常に内に向けるという感じでしょうか?
 
K:はい、最初は努力が必要です。戻る練習が必要です。
 
O:今、内側に戻る練習をしようと思っているんですけど。
 
K:無理しない範囲で、ぜひやり続けて下さい。
 
O:よく気づきのために眉間のところにエネルギーを集中するということを、聞くんですけど
 
K:あれはアジズのやり方ですね。
 
あんまりあれにこだわる必要もないんですけど…
 
O:ああ
 
K:今できるやり方があります。
 
O:はい。
 
K:(自分を指差して)まず私(キヨタカ)を見て下さい。
 
これ(キヨタカ)は、あなたにとって気づきの対象物ですよね。
 
O:はい。
 
K:対象物としてのキヨタカは、来ては去ってゆきます。
 
O:はい。
 
K:でも、今、知りたいのは「気づいている私」にエネルギーを向き返すこと。
 
O:はあ、なかなか難しいですよね。
 
K:ひっくり返すんです。けれどもキヨタカを見ると自然に意識がキヨタカの方に行ってしまう。
 
O:そうですね。
 
K:だから、それを、意識のベクトルを180度変えればいい訳です。
 
どうやるかというと、ヨタカを見たまま、コンピュータの枠の右と左を見てください。 
3つ見ていますよね。
 
視野が広がります。
 
O:はい。(3つを見ようとする)
 
K:今度はキヨタカを見ながら、コンピューターの枠の外の天井と床を見てください。
全体を見てください。
 
O:はい。(視野を広げてみる)
 
K:そうです。周辺視野を使って、左右,上下,キヨタカ全部をぼーっと見てください。
そうするとベクトルがキヨタカを見る方向から、視野全体に広がってゆく。
最後に、見ている自分へ意識を戻す。
 
O:(前を見ている自分の意識が後ろに下がって感じられる)ああ,自分の方に戻っていますね!
 
K:そうです、自分に戻ります。そこに本当のあなたがいます。
 
O:はあ,わかりました。(以前から意識を後ろに引くという同じことをやっていた)
 
K:これが実在ということです。
 
けっして難しく考えないでください。
 
O:これをずっと維持すればいいのでしょうか。
 
K:そうですね。たえずそこに「いる」(指をパチッと鳴らしながら)
 
                   …
                    …
                     …
 
K:それで、次のステップがあります。
 
「実在」は、「実と在」からなっています。
 
先ほどは、「実」の方をやりました。
 
鏡に映っている対象物は「実」ではありません。映っているのですから、現(あらわ)れた象(すがた)の方です。
 
それが、現象世界です。
 
実在の「実」というのは,「気づきの主体」の方です。
 
それは、もう解りましたね。
 
O:はい。
 
K:もうひとつ「在」の方をやりましょう。
 
「在る/ある」、これがとても大切です。
 
ラマナ・マハルシの本によれば、『問うべき唯一の問いがある』と言っていましたよね。
 
何でした?
 
O:「私は誰か?」ですね。
 
K:そうWho am I ?ですよね。
 
実は、もう一つ、大切な問いがあります。
 
何だと思います?
(…明日の日誌へ続く)

エゴと魂の区別/Tさんの感想

t2014年7月28日(月) by キヨタカ

「求めよ、さらば与えられん!」

あまりにも有名なキリストの言葉だ。

21歳で最初の一瞥を得てから、ず〜っと「悟り」を求めて来た。

その為に会社を辞めて、アメリカやインドを彷徨し、様々な覚者と出会い…

その結果ようやく分かった事がある。

「悟り」とは、私という子供時代から連綿と続くストーリー(物語)に起こる事ではないという事が。

 

キリストの言葉は、ストーリーとしての私に語られたものではない。

ストーリーの背後にある、魂に向けて語られた言葉だ。

だからエゴが求めても、与えられる事はないだろう。

それが理解出来ないと、「悟れない」、「解らない」…と苦しむ事になる。

魂が求めた時、それは「乾き」となる。

「悟り」を求める気持ちが、「魂の渇望」へと飛翔して初めて、恩寵が燦々と降り注ぐ。

そして、ストーリーとしての私は消え去り始める。

エゴが悟るのは不可能だ。

エゴは、消え去るのみ(*^-^)

 

北海道から参加されたTさんから、感想のメールを頂きました。

今回のリトリートで、エゴと魂の区別が明確になり始めたようでとても嬉しいです。

* * Tさんの感想 * *

2デーズリトリートでは大変お世話になりました。
 
初参加でしたので申し込みの時は不安もありましたが、二日間大変有意義にすごさせていただきました。
 
瞑想中ずっと座っていられるか心配していたのですが、スタッフの皆様によって場ができていたためか、一人で座るより深い状態に簡単に入れました。
 
毎回、無意識のゴミを解放してから瞑想に入るので、いつもは落ち着きのない私のマインドも比較的静かにしていてくれました。
 
床の方から濃厚なくつろぎの気配(?)がしており、まどろみに近いような、でも意識ははっきりしているような状態で行うことができました。
 
おかげ様で瞑想中はさほど苦もなく座ってい られました。
 
今回、いらなくなった感情の解放が私のテーマだったようで、バーストラウマ等のワークなどでは顕在意識で認識できていなかった感情が大量に解放できました。
 
日頃、「自己否定感」や「自信のなさ」をよく感じるので、これらにつながる根があることはわかっていましたが、自分でアプローチを試みても手応えが無く、対応を考えあぐねていました。
 
悲しみの感情を中心とした、なかなか手の届かなかった深い部分からの浄化ができたようです。
 
ありがとうございました。
 
このほかには、以前「マインドは自分についてのストーリーを無意識に言い聞かせている」と何かの本で読んだことがあるのですが、今回のリトリートでは思考が自分についての解釈を延々と訴えているのがわかりました。
 
ある出来事が自分にとってどのような意味があるか等の解釈が延々と流れており、時々巻き込まれたり、ただ流れるのを見守ったりしていました。
 
普段無意識で行っていたことを今回意識することができたのだと思うのですが、結構な頻度で巻き込まれていたので、無思考に至る道のりはまだまだありそうです。
 
キヨタカ様、スタッフの皆様、すばらしい場に参加させていただきありがとうございました。
 
また機会がありましたらよろしくお願いいたします。
by T

シャンパンシャワー/Yさんの感想

2014年7月27日(日) by キヨタカ

 『瞑想すると、今まで抑圧していたマインドのゴミがド〜ッと浮上して、よけいマンドがうるさくなる場合がある。

しかしそれは、ちょうどサイダーの栓を抜くと、泡が一気に吹き出るようなもの』

と昨日書いた。

だから瞑想を続けていれば、やがて激しい泡もおさまって「静かな安らぎ」を体験するようになるでしょう。

めでたし、めでたし…

というのが理想だが、なかなかそうは行かない。(ノ_-。)

 

サイダーだって、栓を抜いただけは泡は完全に消えない。

ちょっと瓶を揺さぶると、また泡が吹き出てくる。

潜在意識にあるゴミもまた然り。

長年山に籠って修行して「静かな安らぎ」を体験した偉大な聖者が、

大都会の雑踏に出て来たら、ちょっと足を踏まれただけで…

聖者の怒りが大爆発(*`ε´*)ノ

という話しは、良く耳にする。

「聖者でさえああなんだから、凡人の我々が本物の「静かな安らぎ」を体験するのは不可能だ(ノ_-。)」

と諦めるのはまだ早い。

秘策がある。

それが、リーラスペースで行われている事だ。

リーラスペースのリトリートでは、意識よりも無意識に溜まっているゴミを解放する事にエネルギーを注ぐ。

すると…Vettelsplashing

F1レースの表彰台でおなじみのシャンパンシャワーみないな現象が、内側で起こる。

戦勝記念で浮かれたナポレオンがシャンパンを降り注いで以来の由緒ただしき伝統だそうだが…ドンペリだったら勿体ない(^-^;

それはさてき…シャワーが吹き出している間はちょっと大変だ。

けれども、しばらくすれば…

「すでにあった静けさを、よりクリアに感じる」のです。

同じ静けさですが、深さが違います。

例え足を踏まれても、「イテテテ…・゚゚・(≧д≦)・゚゚・」とただそれだけ。

すぐに何事もなかったかの様に、また歩み続ける事が出来る静けさです。

 

それが、今回参加者のYさんに起こり始めたようです。

しかし、進化に終わりはありません。

やがて聖な次元とのつながりがより明確になり、本当の自分とは永遠の至福そのものである事が分かる日が来るでしょう!

Yさんの感想を、一部転載します。

 

* * Y さんの感想* *

リトリート、ありがとうございました。
 
今落ち着いて振り返るに、極短期間の内に様々なことが起こった、盛り沢山な時間でした。
 
苦悩を終わらせたいと思い、やがて「悟り」に出合い、思うまま色々な所に行き、出会い、マイペースでやって参りました。
 
時に(自称)覚醒者に対して??な思いもありながらも、時どきに必要なことを学び、時代の追い風もあり、一昔前には考えられない程、「楽」になりました。
 
プライド(自己イメージ)が打ち砕かれ、最終的には、未来への希望も捨て、全ての現れは無常であると腑に落ちた時、そこにあったのは、淡々とした静かな安らぎでした。
 
本当に意外でした。
 
まだ巻き込まれることも多くありますが…。
 
とにかく人から変わったと言われるのですが、自慢できるような爆発的見性体験があった訳でも無し。
 
今自分はどこに立っているんだろう、何かとんでも無い間違いを犯していなければいいが、そんな疑問がよぎったりもしていました。
 
リトリートに参加する数日前から、ふうっと静けさに吸い込まれるような感覚がたびたび訪れていました。
 
そして、フーマンのことが思われるのです。
 
でも以前に、キヨタカさんはフーマンをも卒業していくと言っていたし、フーマンにこだわるのも何だか違うのかなと考えたりもしていましたが…笑。
 
前日には嬉しくて、ハートがコトコト鳴りました!
 
しかしながら…
 
リトリートは、一言で言えば、嵐のようでした。
 
マインドがいつもより騒々しく、相当楽になったとはいえ、まだまだ色々溜まっているんだな~っと思いました。
 
そして、サイレンスに入った時から、ある参加者の方と時々目が合ってしまうことに気付きました。
 
ふっと振り返ると、目線がある。
 
目が合うということは、私も見ているということかしら?
 
私もサイレンスに入れてないんだな、と自分に入れるように努めました。
 
しかしある時、お手洗いから出てきたところ、ふと顔をあげると、その方がまっすぐ私の顔を真正面から見据えていました。 
 
その瞬間、私は1、2メートル後方にふっとばされました。 
 
いえ、実際にはふっとばされてはいないのですが、自分がふっとばされていく映像をを上から見ている感じでした。
 
何ともいえない不快感でした。 
 
それからというもの、瞑想中は忘れていることも多かったのですが、ふと気付くとその方を気にしてしまい、不快感をはっきりとは拭えませんでした。
 
サイレンスに入る時、人を気にしないと本当に楽ですよと、とキヨタカさんはおっしゃいましたが、こんなにも人の目線に威力があったことに、改めて気付かされました。
 
帰りの時まで、その「不快感」は消えることはありませんでした。
 
とはいえ、皆さんのシェアはどれも自分のことのようでしたし、色々な方がシェアして下さることで、私自身、気付かされた部分も多くありました。
 
しかしながら、早く帰りたい、一人になりたい、そんな気持ちのまま、そそくさとリーラスペースを後にした感じです。
 
激しい頭痛も襲ってきていました。
 
今振り返りますと、人間社会で何気ない相互監視の中で生きてきた苦痛の部分、そのことが露になったのかもしれません。
 
参加者の方々のシェアの時のお話にありましたが、開いていたハートをぎゅっと閉じていく。
 
そんな痛みが目に見える形となって出て行く時だったのかもしれません。
 
笹舟に乗せた重荷、に気付いたともいえます。
 
ふっとばされるなんて、過剰反応ですよね、(笑い)
帰りは、途中までスタッフのFさんとご一緒させて頂きました。
 
同乗したもう一人の方が、Fさんに、お仕事柄人のエネルギーを受けて大変じゃありませんかと質問されました。
 
Fさんによると、人のエネルギーを受けてしまうという考えを持っていると受ける現実を引き寄せるのではないか、ということでした。 
 
…(略)…
 
そんな気づきがありつつ、皆様と分かれるまでは、何とか正気を保とうとしていましたが、分かれた後は、とんでもない頭痛と吐き気で本当に帰れるかどうかも心配になるほど大変でした。
 
ところが、我が街の駅に着いた時、またコトコトとハートが鳴ったにには驚きました。 
この激しい頭痛と吐き気の中で!
 
そして気付いたのです。
 
さりげなくエレベーターで、お先にどうぞと譲って下さる方、
 
駐輪場で「お帰りなさい」と声をかけてくれる係員の方、
 
何ていうことのない我が街の、なんという温かさに満ちていることか!
こんなにこの街に帰ってきたことを嬉しく思ったことはありませんでした!
 
大事をとって、翌日も休みを取っていたのが、幸いしました。
 
翌日の午後には大分頭痛も吐き気も治まりましたので、自転車で出かけました。
 
本当に気持ちよかった。
 
自転車をこいでいる時、力を入れてこいでいるとペダルが重く感じられますが、ふっと力を抜くと、どうでしょう。
 
後ろから、まるで誰かに押されているように軽く感じます。
 
大いなる流れにまかせて生きるということは、こういうことなのだな、とまた改めて気付かされました。
 
本屋さんで本を眺めていると、体中をエネルギーがぐるぐる回るのを感じました。
 
そしてハートがじんわりと温かいのです。
 
それから、とても強く強く、フーマン(という、this)を感じました。
 
絆、のようでもあり、一体感というようなものでもある、温かく強い感覚です。
 
ソロリトリートの方が自分には合っているのかな、などと色々な考えが帰る道々巡ったりしましたが、深い所からのものが表面化し、嵐のように渦を巻いて解放されていったことに間違いは無いようです。
 
数日経った今も嵐の名残は微妙に続いていて、感じた恐怖と不快感をハートに吸い込んで愛を送って出すということを、時々しています。
 
一方では、すでにあった静けさを、よりクリアに感じるようになったように感じられ、理解も深まった感じもあります。
 
その中で、つかめそうでつかみきれない部分もあります。
 
それは、青空(気づき)と雲(思考)とよく例えられますが、青空と雲を分離しているものとして捉える感覚、のことです。
 
すべての表れに気付いている意識、というと、表れるもの、と、背後の意識、が分かれているのです。
 
この分離館は無くなるのでは、と思っているのですが、なかなか無くなりません。
 
でもあともう少しで溶けていく、という感覚はあるのですが。
 
また、これが、キヨタカさんのおっしゃる、神聖な次元、ということでしょうか。
 
もしかしたら、リトリート中にこれに関してお話や瞑想があったのかもしれませんが、嵐の中に居た為に聞いていなかったのかも知れません。
 
それでしたらすみません。
 
何だか長くなってしまいまいましたが、この感想を書く事も、改めて振り返る良い機会となりました。
 
また、リトリートの場を作って下さり、本当にありがとうございました。
 
スタッフの方々、参加された皆様お一人お一人のお陰で、貴重な気づきを得ることができました。                      
 
* *
 
つかめそうでつかみきれない部分
 
「煩悩(雲) 即 菩提(青空)」の境地ですね。
 
そもそも対象物でないものは、つかみようがありません。
つかもうとしているあなたの、背後の事ですから…
 
つかもうとする意図を手放して、あるがままにくつろいで下さいネ♡
 
「ワンネスの境地」が目覚めると、全ては源泉(ワンネス)の織りなすカレイドスコープ(万華鏡)である事がわかるでしょう。
 

お知らせ

*2デーズリトリート(7月)開催のお知らせ
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*瞑想トランスミッション(個人セッション)受付中
 
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   連続セッション有り! 

瞑想すると…/Tさんの感想

2014年7月26日(土)
 
瞑想すると、「マインドが静かになる」と、一般に思われている。
 
しかし、それは真っ赤なウソ!
 
瞑想とは、暗闇に気づきの光をもたらす事だ。
 
暗闇の中では、部屋の中に何があっても知りようがない。
 
しかし明るい光に照らされたら、ゴミが堆積しているのが一目瞭然でショックを受けるに違いない。

 

瞑想を始めた初期の段階では、今まで抑圧していたマインドのゴミがド〜ッと浮上して苦しむ人も多い。

それはちょうどサイダーの栓を抜くと、泡が一気に吹き出るようなもの。Phot000000000001d86f_500_0

「無意識から意識化へ」のプロセスで必然的に起こる現象だ。

潜在意識に隠されていたゴミは、気づきの光に当てられる事で始めて消えて行く。

だからマインドが騒がしくなっても、「非常に苦しむ」必要はない。

むしろ…

「ああよかった、これでまたマインドの浄化が起こった\(;゚∇゚)/」と、

祝福すべき現象なのだ。

Tさんから、リトリートの感想を頂いた。

家に帰ってから、たくさんの「祝福」が起こったようです。

おめでとうございます♡

 

* * Tさんの感想* *

キヨタカ 様
 
2デーズリトリートはお疲れ様でした。
 
今回は前回よりも瞑想時間が長く、マインドが騒がないか不安でしたが、ほとんどマインドには邪魔されず、心地いい体験ができました。
 
リトリート全体を見渡してみますと、自分としては「ただある」という感覚がよく味わうことができて、日常の心得にしたい思いがしています。
 
リトリートが終わってからですが、自分の中にある自己嫌悪の傾向が強く出てきて、しばらくの間、対応に苦労しました。
 
シェアリングの時にも話しましたが、自分は「外に出す」ことが大の苦手で、その中でもとりわけ人前でしゃべるのは嫌いで、用意もせずにアドリブでやったときは失敗ばかりで、ほんとうに落ち込みます。
 
シェアリングのときにした話がまさにそれで、マインドからは執拗に「なんで、お前は人と同じようにうまくしゃべれないんだ」と責め続けられて、非常に苦しみました。
 
もう1つ、自分は分析的で知的理解を好む傾向が強くて、ヨーガでいう4つの悟りの道でいえば「智慧のヨーガ」を行くタイプです。
 
自分が一番好きな概念は「アドバイタ・ベーダンタ」ですが、キヨタカさんの教えは、分類すると「ドバイタ・アドバイタ」に属し、その教えでは「リーラ」が重要視されます。
 
しかし、純粋なアドバイタでは「リーラ」は「マーヤ」として扱われ、あまり価値が置かれません。
 
キヨタカさんは「アドバイタ」へは批判的だと思いますが、両者の概念は対立関係にあるように思えます。
 
ですから、自分は違和感のようなものを覚えていて、腑に落ちないこともよくあります。
 
 
しかし「ただある」の中にいると、それはどうでもよく、結局、その比較というのは、単なる兄弟げんかのようなものであまり意味がありません。
 
この世界をハートから見てみれば、愛すべきものたちばかりです。
 
「ドバイタ」も「リーラ」も、「アドバイタ」も「マーヤ」も同じ母から生まれた可愛い子供たちです。
 
細かいことにこだわることはなく、一緒にいてくれることの幸せを感じるだけでいいんでしょう。
 
・・・こうした思考は、自分にはお馴染みのマインドなんですが、最近はあまり相手にしなかったのに活発に動き回って、対応に苦労していました。
 
特に批判するマインドは、自分にとっては苦しいものです。
 
まるで、自分がいじめられているように感じます。
 
ダイナミック瞑想やジベリッシュなど、自分には激し過ぎたんでしょうか? 
 
抑圧していた負の部分が、機会をみて一揆を起こしたんですかね。
 
(笑)「プレゼンスにいれば大丈夫たよ」と、キヨタカさんには言われそうです。
 
おっしゃられるように台風も渦の中心は静かです。
 
台風がきたら、中心とともに移動していけばいいんでしょうね。
 
「気づき」と「寛ぎ」、よく実践してみます。
 
とりとめもない感想ですが、もう1つだけ付記させてもらいますと、原因のない笑いと泣きのワーク後の瞑想のときに、マインドのブロックから解放されて、意識が上のほうへ突き抜け、広い空間に行き渡るような感覚を覚えました。
 
その広がりは宇宙空間のような静謐さを湛えていて、深い安らぎが感じられ、何も起きていないけどエネルギーに満ちている、そんなスペースです。
 
その中にいると、外界のことは自分とは全く関係ないことだと、明確に意識することができました。
 
時間が経って、あの感覚はなんだったんだろうとは思いますが、来ては去っていく体験に含まれているんだろう、とは思います。
 
自分はそういうところは淡白で、至福の体験を得たとしても、それが永続しないものなら価値をあまり置くべきではないというタイプです。
 
まあ、あまり面白みがありません。
 
ですから、またそれを再び得たいとは強くは思いません。
 
しかし同時に、それは恩寵とも言えるものであり、自分に訪れてくれたことには、深い感謝を捧げたいと思います。
 
また、その恩寵をいま、深く愛したいと思います。キヨタカさん、リトリートは本当にありがとうございました。
 
スタッフのみなさんにも本当に感謝の想いでいっぱいです。
 
また、リーラスペースというかけがえのない場、OSHO、アジズ、フーマンにも本当に感謝です。
 
皆さんにハートから愛をお送りします。
 
今後ともよろしくお願いいたします。
 
(合掌)   by  T
* *
 
キヨタカさんの教えは、分類すると「ドバイタ・アドバイタ」
 
いや〜、本当にビックリしました。
 
だって、「ドバイタ・アドバイタ」なんて教え、私は良く知りませんから…
 
そもそも「キヨタカの教え」などと言うものは、はじめからありません。
 
今までの瞑想体験で上手くいった事、失敗して学んだ事を、分かち合っているだけです。
 
キヨタカさんは「アドバイタ」へは批判的だと思いますが
 
いえ、アドヴァイタを批判した事はありません。
 
昔アジズと出逢った頃、「真我の一瞥が起こっただけでマスターとして君臨する西洋人」が続出した事があります。
 
あなたは「既にそれだ!」…という訳で、何をしてもオッケー。
 
酒を飲みながら瞑想会を主催するマスターや女性を追いかけ廻すマスターもいました。
 
その状況が可笑しくて、「似非(えせ)アドヴァイタ」とからかった事はあります。
 
真意が伝わらずに、反省(ρ_;)
 
時間が経って、あの感覚はなんだったんだろうとは思いますが、来ては去っていく体験に含まれているんだろう、とは思います。
 
現象世界の全ては来ては去って行きます。
 
肉体も思考も感情も恋人も仕事も家族も…
 
しかし「たった一つ」だけ、来ては去っていかないものがあります。
 
その「たった一つ」のものを見つけるのが、瞑想です。
 
>その広がりは宇宙空間のような静謐さを湛えていて、深い安らぎが感じられ、何も起きていないけどエネルギーに満ちている、そんなスペースです。
 
まさに、「これ」こそがそのたった一つのものです!
 
しかし「これ」を一瞥しても、やがて去って行くように感じます。
 
でも「これ」は、本当は去って行かないものなのです。
 
雲と青空の例えが解りやすいでしょう。
 
通常の私たちは、分厚いマインドの「雲」に覆われていていて、自己の本性という「青空」が見えません。
 
しかし、リーラスペースのリトリートで、雲と雲の隙間から「青空」をかいま見る事が出来ました。
 
しかしやがてまた分厚い雲がやってきて、「青空」は完全に消滅してしまった様に見えます。
 
「な〜んだ、青空も来ては去ってしまった(;д;)」
 
「永続しないのだから、あまり価値はない(゚Д゚)ハァ?」
 
「青空じゃない、もっと凄いものを探すぞ\(*`∧´)/」
 
…という訳で、見事にマインドの策略にハマってしまいます。
 
このマインドのトリックから自由になると、やがて永遠の至福に満たされるようになるでしょう。
 
どんな分厚い雲に覆われても、その背景にある青空に変化はありません。
 
恩寵は、来ては去って行きません。
 
今ここで、恩寵は燦々と降り注いでいるのです(*^-^)
 
やがて、恩寵があなたを通して他の人々に降り注ぐ日が訪れるようになるでしょう!
 

ペットボトルvs泉/Oさんの感想

2014年7月25日(金) BY キヨタカ

 子供の頃、「水は無料」が常識だった。

「外国に行くと水が瓶に入って売られるんだ」

という話しを聞いて、どうしても信じられなかったのだが…

最近は、「ペットボトルの水しか飲まない」という人も結構いるというから、驚くばかり。

 

エゴというのは、水入りのペットボトルに似ている。

120402_2 他人に与えると減ってしまう。

だから、なるべく他人から取り入れようとする。

しかも、奇麗な水だけを受け入れる。

汚れた水だと、自分のボトルの水も汚れてしまうから…

だから汚れた水にノーと言い、奇麗な水だけをたくさん取り入れた人が、成功者としてもてはやされる。

一升瓶やドラム缶くらいに増やした人もいる。

 

しかし例えドラム缶ぐらいに増えても、ペットボトルというゲシュタルト(存在の形)は変化しない。

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真実の愛に目覚めた人は、こんこんと湧き出る泉の様だ。

与えても与えても、涸れる事はない。

汚れた水がやって来ても、源泉で洗い清める事が出来る。

さらに、与えれば与える程、水量も増える。

井戸の場合、定期的に汲み上げないと、涸れてしまうそうだ。

その事を、キリストは次の様に語っている。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるであろう。(マタイ13-12)

 
だから多少なりとも源泉と繋がった人は、その水を自分のペットボトルに取り入れるのではなく、他の人にわかち合い始めた方が成長が早い。
 
分かち合う事で、源泉はどんどん増加して行く。
 
そうすれば、例えペットボトルを取り上げられても平気だから、自分を防御する必要もない。
 
リーラスペースでは、スタッフの数が多い。
(以前、参加者が少なくてスタッフの方が多かった事も…(;д;))
 
スタッフは、「分かち合う事」を意図してリトリートに参加してもらっている。
 
そうする事で、参加者のみならず本人も源泉とのつながりがより確固たるものになるからだ。
 
Oさんも、その一人。
 
自分のブログに、今回の体験を書いてくれた。
 
せっかくなので、転載させて頂きます。
 
Oさん、毎回参加してくれて有り難う♡

 
* * Oさんの感想 * *

20日21日とリーラスペースのリトリートに参加していました。
 
今年に入ってからスタッフとして参加いていますが、今回も素晴らしい恩寵と共にその場でただあることができました。
 
前々回、前回とリーラスペースの環境整備から参加していましたが、今回は仕事の都合で環境整備は参加できず、リトリートが始まる数時間前にリーラスペースに到着しました。
 
到着して間もなくスタッフで場を調えるために瞑想をするのですが、それに参加しました。
 
スタッフだけで行う瞑想は、いつも非常に深い濃密な場が形成され、ハートの沈黙のスペースを感じるのですが、今回は今までと違うハートの次元を感じていました。
 
それは言葉で正確に表現できませんが、今までよりも更に高次元のハートのスペースに至っているようでした。 
 
それは私自身の変化もあるでしょうし、リーラスペース自体も新たな段階へシフトしていっているような気がしました。 
 
今回はリーラスペースのリトリートに初めて参加された方が多かったですが、全員があまり苦痛もなく座っているのに感心しました。 
 
今回のリトリートでは、比較的何もせずただその場にあるという時間が多く、それは初心者の人にはかえって難しく、厳しいものですが、参加されている方々は皆さん淡々と座っていました。
 
以前なら体がしんどいとか、意識の浄化が起こって苦しいなどという人がいましたが、苦痛を訴える人もいませんでした。
 
瞑想の場により一層恩寵が降りてきていたからかもしれません。
 
 
私自身は現在浄化の時期で、色々と覆い隠していたものがあらわになってきており、瞑想中もかなり思考や感情が出てきました。
 
思考や感情が後から後から湧いてくるのには慣れているので、それで瞑想ができなくなることはなく、ただそれはそれとして眺めているようにしていました。
 
時々巻き込まれることもありましたが、気づきが生じるとそこから離れ、また別の思考や感情が湧き出てくることを繰り返していました。
 
湧いてくるものも封印していた記憶や、幼いころのものが多く、かなり深い領域の浄化が起きているという感じがしました。
 
深いレベルの浄化時には、子供のころや本当に幼いころの記憶が蘇るものです。
 
それは苦痛も伴うこともありますが、そこに巻き込まれないようにしていると、やがてそれは去っていきます。
 
しかし、ただやり過ごすだけではどうにもならない感情などもあり、それは感じ切って出し切るというのが有効なこともあります。
 
リーラスペースではOSHOの瞑想テクニックも行っていますが、OSHOの瞑想テクニックには感情を感じ切り、吐き出していくものが多くあります。
 
今回は浄化の瞑想テクニックをいくつか行いましたが、いつも以上に感情を感じ切り、思い切り吐き出しました。
 
私は静かに座っているのが好きですが、アクティブな瞑想も好きであり、今回はカタルシスの時間では、思い切り叫び、動き、慟哭しました。そうするとかなり意識がクリアになり、エネルギーも充実していました。
 
現代人は相当自分の感情を押し殺しており、それによって身体や精神を病んだり、個人的な問題だけでなく、社会的な問題にまでなっています。
 
アクティブな瞑想は今ははやらないかもしれませんが、現在でもやはり有効であり、失くしてしまってはいけないと思います。 
 
アクティブな瞑想以外は、最初の方にも書きましたが、静かにただあるという時間が多く、それがとても心地よかったです。 
 
 
普通は何かをして喜びを得るものですが、何もせずただあるという喜びは、それに勝るとも劣らないものです。 
 
そのことを改めて実感しました。
 
それはそれとしてやはりいつもより雑念が多く、内側だけに意識を向けているとなかなかマインドが静まらなかったので、内側と外側という区分をやめて、全体的に意識を向けるようにしました。 
 
また自分自身が瞑想で得た恩恵を周りに還元すると思念したところ、マインドが静まっていき、周りへのシェアも起こっているという実感がありました。
 
 
今の私は自分自身の瞑想だけでなく、それをシェアしていくということが必要なようです。
 
それも大勢の人にというのではなく、少ない人数でもI AMやフーマンの言う「これ」をシェアしていくのだなと感じました。 
 
以前はこういった集中的なリトリートに参加すると、その時はものすごく意識がクリアになり、エネルギッシュになるのですが、日常に戻るとそれを忘れてしまっていましたが、
近頃はリトリートに参加して、それが一過性のものではなく、持続してきているようです。 
 
それはハートにまで至るとそうなるようで、気づきとくつろぎだけは限界があります。 
しかし、気づきやくつろぎのないハートは、とんでもない世界へ繋がってしまうことになり、これらをトータルに行っていくリーラスペースのリトリートは非常にバランスが取れていると思います。 
 
次回は9月の13日と14日に開催される予定のようです。私はまたスタッフとして参加する予定です。 
 
次回のリトリートも素晴らしい恩寵を共有するものとなるでしょう。

Oさんの報告

2014年7月24日(木) by キヨタカ

 リトリートに参加された鹿児島のOさんから、その後の報告を頂きました。
 
Oさんは参加者の中で最年長で年齢的なものを多少気にしておられましたが、
「年齢と覚醒とは関係ありません」のでご安心下さい。
 
* * Oさんの報告* *
 
リトリート,大変お世話になりました。
 
リトリートのご報告です。
 
昨日,家に着き,椅子に座ってゆっくりすると,足の筋肉痛の他に,気づきに気づいている状態がずーっと続いていることが分かりました。(気づくのが遅い)
 
頭が痛いと思っていたんですが,座ってゆっくりすると,エネルギーがすとんと下に降りて来て,丹田がしっかり感じられ,ハートに響いて来ます。
 
「気づきはどのくらい保っておけばいいのでしょうか?」
 
との私の質問に,
 
「質問が自体が間違っている!。気づきはずーっとあるんだ。」
 
…と一喝されてしまったのですが,
 
本当は,「気づきに気づいている状態をどのくらい保てばいいかのでしょうか?」
 
というのが質問だったのですが,すでに解決している。
 
あれだけ,気づきに気づく練習をしてしていたのに,連続できなかった状態ができている!と思いました。
 
これがステート・オブ・プレゼンスが確立するということなんでしょうか。
 
今朝も同様の状態が続いています。
 
このまま続いて欲しいと思っています。
 
また,ハートに広がりを感じ,穏やかな至福を感じます。
 
「いま」は私にとって不足もなく,過ぎることもなく十分な状況が続いていたんだという気づきました。
 
昨晩,目が覚めた際に座ってみたのですが,膝においた両手のひらとハートに大きな重い風船のようなものがずしんと載って来て,少しずつ広がって来ました。 
 
とてもいい至福感がありました。 
 
ハートへのワークを続けてみたいと思っています。
 
これからもご相談させていただきたいと思っています。
 
お導きよろしくお願いいたします。
 
キヨタカさんとスタッフのみなさん,本当にありがとうございました。
 
追伸:事前にFaceTimeでご指導いただいたことをまとめて練習に使って来たものを添付いたします。 
 
キヨタカさんのお話のストーリーがきっちり完結していることが本当に凄いなと思いますし,素晴らしいと思います。 
 
今後も忘れずにこれを実践して行きたいと思っています。
 
* *
 
Oさんの御陰で、今回私は「リトリート最年長」の栄誉を逃してしまったが…(ρ_;)
 
「年齢と覚醒は関係ない」とは、理論的には正しい。
 
しかし本音を言うと…、
 
「還暦を過ぎて瞑想するのは、それなりに大変だろうな〜、理解も遅いだろうな〜」と予 
想していたのだが、見事に私の予想を覆してくれた。
 
実はOさんがリトリートに参加するに当たり、リトリートについてこれるように特別にFaceTimeセッションを行った。
 
FaceTimeとはMac版のスカイプで、ビデオ通話の事。
 (世の中は便利になったヽ(´▽`)/)
 
通常はどんなアドヴァイスをしても、適当に聞き流されてしまうものだが…
 
Oさんの場合は違った。
 
FaceTimeのアドヴァイスを、文章に起こし、それを毎日読んで実践しておられたと言う。
 
 
瞑想の進歩は、時間の問題ではない。
 
人生の優先順位の問題だ。
 
自分の人生にとって瞑想が最優先事項となれば、アッという間に加速化する。
 
人生で仕事とか恋人とかお金とか趣味とか他に大切な事があり、ついでに瞑想していると…
 
それはそれで構わないし、その場合は瞑想よりも他の優先事項を先にするべきだ。
 
…しかし、瞑想に関してはあまり進歩は起こらない。
 
Oさんが、20代の若者と同等かそれ以上に意識の進化が加速化したのも、
 
その情熱の故と納得(* ̄ー ̄*)
 
Oさんの情熱に感謝して、いづれOさんのFaceTime(ビデオ通話)セッションを特別公開したい。

リトリートの感想

2014年7月23日(水) by キヨタカ

今回は、わざわざ遠方から来て頂いた参加者が多かったので嬉しかったです。

参加者の出身地や、年齢、バックグラウンドは皆違います。

しかし、「誰もが究極的には同じものを求めているんだな〜」

と、深く静かに感動しています。

昨日の日誌に、鹿児島のOさんからコメントが入りました。

はじめて参加したリトリートでしたが,キヨタカさんやスタッフの皆さんのおかげでいい体験ができました。

また,道筋も随分とあきらかになり,腑に落ちるところがありました。

帰り着いてから,ゆっくりしてみると,常に気づきがあり,SPが確立したかな?と思われる感じになっています。

(…略…)

くつろぎのワークが良かったのだろうと思います。

普段の運動不足のため,今日は筋肉痛です(笑)。

年には勝てません。

改めて,ありがとうございました。

沖縄から参加されたYさんからも、感想をいただきました。
 
長文ですので、一部省略して掲載します。
 
2daysリトリート満喫しました。
 
1夜あけて色々な思考が押し寄せて来ます。
 
今回参加の動機のひとつに、根拠は無いのですがあと1年ちょっとくらいで解脱する
ような気がして、この幻想と実在とを行き来する中途半端な感じを1日でも早く終息させたいというのがありました。

私は、人に言わせると修行はいやだといいながら率先して行ってしまう癖があるようで、今回も「これが最後」「これはもしかしてマイルドかも」とうっかり申し込んでしまい、行ってみてやっぱり修行だった?と感じなくもありません。
 
リトリートの1?2週間前におこなっていた別のセッションで、

「なにも恐れなくてよい」

「何も信じなくてよい」

という言葉がやってきて、それを携えての参加でした。

事前にキヨタカさんと電話でお話したときから強い共鳴が起こっていました。

今回の体験は、自分にとって濃厚なワークと集中的な瞑想でした。

体の細胞配列が変わるようなビリビリとした電流が走る感じ、敏感になって毎回鳴る鐘の音が体を突き抜ける感じ。

思考が笹舟となって川を流れてくるイメージ、空っぽになっている自分を感じたり、一瞬自分が仏様になってすべてよしと光を放つ感覚がありました。

一方で、フーマンの穏やかさを期待して行ったらOSHOの狂気であり、ビミョーにショックだったともいえます。

そんな中、気持ちよい温泉とリーラスペースの緑に囲まれた落ち着いた環境、そして何よりおいしいごはんは予想以上に助けとなりました。

初めてお会いしたキヨタカさんは本の通りオープンで、面談でお話しているときに自分のハートが開いて「YES!」と言っているのを感じました。

よけいな事を言わないようにと、猫のぬいぐるみを載せた愛くるしい姿が目に焼き付いています。

…(略)…
 
最初に瞑想ホールに入ったとき、場ができている、と感じました。
 
座布団に座るとすぐに静まっている自分を感じ、くじでひいた位置も周到に用意されたように感じました。

そして一瞬感じたもののすぐに忘れてリトリートに入ったのですが、自分がどのような役割でここに来たかも今思えばわかっていたような気がします。

…(略)…
 
しかし、私自身のエネルギーの解放も浄化も確かにあったのです。

帰り道では、わりと普段通りの自分で「行っても行かなくても良かった?」という思いさえよぎりましが、家に帰って一夜明けてみると、その動いたエネルギーに愕然としています。

ボルテックスの役割を終えて1人になると自分が嵐になりました。

一気にネガティブな思考が過去と未来を行き来する時間がありました。

そして気づき。

家族も、仕事も、友人もすべては精神安定剤であったのだと、自分という個人のなかにある狂気を和らげるために、日々の大半を費やしていると気づいたのです。

またその苦痛と快楽が、愚かな方法ではあるものの私を生かし、導き、守り、今に至らしめるということも。

それを少しづつ、時には一気に超えていく時期であるとも。
 
そして、真我はいつも静かにそれであってどこにも行っていないし、なにもしていな
いことを改めて知った次第です。
(…略…)

感想文を書いていくなかで改めて今回のリトリートの意味を噛みしめています。
 
最後に、キヨタカさんのリトリートの閉じ方も秀逸でした。

「名残惜しいですが、これも過ぎ行くもの」という言葉で、繋がっていたエネルギーがキレイに切れた気がします。

キヨタカさん、ヨガビジャさんをはじめスタッフのみなさま、興味深いひとときを
ありがとうございました。

リトリート終了

2014年7月22日(火) by キヨタカ

2デーズ・リトリートが無事に終了。
 
参加者の皆様、お疲れ様でした。
 
今回は2デーズにしたため、「何もしない」という瞑想の真髄に触れる時間を多めに取る事が出来た。
 
私にとってはとても楽だったけれども、初めての方にとっては強烈なワークだったかも知れない。
 
瞑想は全くの初心者から、何十年も瞑想を続けている方が一つになって、場が出来る。
 
そこに神聖な次元とのつながりが生まれて…
 
毎回行っているのでなんだか当たり前の出来事みたいになっているけれども、実は毎回奇跡が起き続けているのだな〜と感慨深い。
 
言葉では上手く表現できないけれども、今回も参加者、スタッフ、そして陰で応援して下さるたくさんの方々のおかげでリトリートを終える事が出来ました。
 
どうもありがとうございます♡

我が家

2014年7月18日(金) by キヨタカ 

子供の頃は、大自然の中の広大な敷地内にある社宅に住んでいた。

近所中を駆け回っても、知っている人ばかり。

だから親も安心して遊ばせる事が出来、子供にとっては文字通り”天国”だった。

 

  ”東京タワー”が出来たのはちょうど幼稚園児だった頃。

父親に連れられてわざわざ見物に行き、東京の親戚の家に滞在。

ところが父が急用で出かけてしまい、留守番をする事にshock

大都会の見知らぬよその家で”借りて来た猫”みたいにしていたのに、親もいなくなった。

不安で寂しくて心配で…とうとう泣き出してしまった。

すると親戚のおばさんが慰めてくれたのだが…

「家に居るとあんなに元気なのに、キヨちゃんは内弁慶なんだね(*^-^)」

と笑われてしまった(;д;)

 

”我が家”にいると、人は自由を感じて安心して寛げる。

子供の頃は”天国”だと思っていた”我が家も”、成長するに連れて実はそうでもない事に気づき始める。

思春期になると親の言う事がウザったくなり、親に反抗して家出したりするのは、実は成長への健全なプロセスだ。

人は本当に自由で安心して寛げる場所を求めて、”旅に出る”。

世俗にとっぷりつかっていると、「お金や地位や名誉や健康や理想のパートナーを手に入れれば”安心して寛げる”」と錯覚しがちであるが…

実はそうでない事は、本当は誰もが知っている。

週刊誌をパラパラめくれば、不幸せな成功者のゴシップが満載だし…

例え完璧に幸せな成功者だとしても、”死”が全てを奪い去る。

そして歴史上、”死”を免れた人はいない。

 

”覚者”とは、死んでも奪われない”本当の我が家”を見いだした人の事を言う。

それが「自分の内側にあり、誰もが手に入れる事が可能だ!」とは、

実に驚くべき事だヾ(.;.;゚Д゚)ノ

しかも、実は既に誰もが日常生活の中で既に体験しているのである。

具体的に言うと…

人は、毎晩誰もが眠る。

そして眠っている間に、”深い寛ぎ”を体験している。

何故なら、寝ている間に”ビーイング”へ深く吸収されるからである。

1

つまり既に毎晩”本当の我が家”で寛いでいる。

そして、エネルギーを再充電して翌朝を迎えるのだ。

自己治癒力とかヒーリングの秘密も、実はここにある。

ただその事実を見過ごしているので、”我が家”を求めてさすらいの旅を続けているのだ。

”気づきを保ったまま寛ぐ”事さえ出来れば、何処へ行ってもこの世界は全てが”天国”となる。

そうすれば猫の様に自由気ままで…内でも外でも”弁慶”で在る事が可能だ。

渦の中心に在る

2014年7月17日(木)

 昨日「渦の中に飛び込め」と書いたが、実はこの広大な宇宙そのものが多次元にわたるスパイラル運動からなっている。D0063814_16473378
 
「宇宙を動かす力」そのものが「渦」である事は、昨年の日誌(13.8.16)でも紹介した。
 
そもそもこの現象世界は、天と地、昼と夜、男と女、プレゼンスとビーイング…、全て陰陽の対極で織り成されている。
 
それは動的であり、そこにはスパイラル運動の一貫した法則が貫かれている。
 
 つまり「陰から陽」、「陽から陰」へのスパイラル変化において発生するエネルギーが、この全宇宙を動かしている。
 
つまりミクロ世界の素粒子から、マクロ世界の銀河まで、どの世界を切り取っても同じ原理が貫いているのだヾ(*゚A`)ノ
 
 
例えば、私はウィンドサーフィンを楽しんでいる。Fig23
 
セーリングでは風上45度まで上れるのだが、それは「揚力」のせいだと言われている。
 
しかしその「揚力」とは、実はセールに当たる風が「渦」となり、流速の差が生じて「揚力」となっている事はあまり知られていない。
 
 (…知らなかったのは、ウィンドサーフィン界隈では私だけかも知れないが (ノ_-。))
 
しかしこうした「渦」の原理については、科学者に任せおけば良い。
 

「渦の中心に在るものは何か?」
 
いくら勉強して精密な理論を構築して答えを出しても、それは学問の世界だ。
 
実際に「渦の中に飛び込む必要がある」
 
ここからが、我々瞑想に志す者の出番となる。
 
実際に飛び込んでその中心を体験すると、驚くだろうw(゚o゚)w
 
渦の中心は動かない。
 
そこは「無」の世界であり「静寂」が支配しているのだ。
 
禅で言う「不動」とか「無心」とは、まさにこの体験の事だ。
 
 
ところで、「無心」であろうとし「動かない」でいると、とたんに力を失い非常に居心地が悪い。
 
以前フーマンから、「しばらく何もしないでいなさい」と言われた時、とても焦った。
 
「何もしないでいると路頭に迷うのでは?」という恐怖に襲われたのである。
 
しかし真実は、真逆だ。
 
居心地が悪く力を失うのは、自我だけだ。
 
自我を失い真我が目覚める事で、あなたの「無」はより深くなる。
 
すると、よりパワフルな「渦」が「無」であるあなたの周りに出来る。
 
ちょうど台風の気圧が低い程、パワーが増すようなものだ。
 
最近の研究では、銀河の渦の中心には巨大なブラックホールが有ると言う。
 
もしもあなたの「無」がブラックホール・レベルになったら、全世界を動かす力を持つ事になる。
 
「世界を動かそうとする自我」が不在のままに…。 
 

渦の中へ

2014年7月16日(水) by キヨタカ

 「洗濯機」に「独楽(コマ)」に「台風」。
 
最近の日誌で取り上げたネタだが、いずれも「渦巻」の形をしている。
 
この形は、古来より生と死の循環の象徴として使われている。
 
仏教の輪廻転生を意味する「車輪」もまた然り。
Img03307
 
グルグル廻る煩悩からいかに解脱するか、それが仏教の教えの要諦だ。
 
 
しかし仏教を通して、人類の意識は飛躍的進化を遂げた!
 
…とは残念ながらお世辞にも言えない。
 
解脱を目標とした仏教は、グルグル廻る現象世界の人間の営み自体を「煩悩」として断罪してしまったからだ。
 
他の宗教も似たり寄ったり。
 
キリスト教では「罪深き世界」として、現世を否定する。
 
だから真剣に解脱を望む人ほど、この現象世界を外から眺めるようとする。
 
 
ところが、「洗濯中の洗濯機を外から眺める」事は出来ても、生きている間は人間世界を外側から眺める訳にはいかない。
 
仮に外側から眺める事に成功したとしても、枯淡の境地に遊ぶそうした人々にあまり近づきたいとは思わない。
 
人間としての面白みに欠けるから…。
 
例えば、ガンジーは食事を味わう事を否定し敢えて不味いものを好んだ。
 
さらに性欲を否定し、晩年に若い裸の女性とベッドを共にする実験までしている。
 
そして実験の結果、まだ性欲がある事を恥じたとか(ρ_;)
こうした聖人として奉られた人々をよく観察すると、実は病的な部分があって驚く事が残念ながら多い。
 
 
伝統的な宗教教義に、人類の未来を託す事は出来ない。
 
もっと人間としてのダイナミズムを保ったまま、爽やかに解脱する別の方法はないのか?
 
実は、それがある。
 
輪廻の輪の「中心」にその秘密がある。
 
「中心」は「ゼロ次元」であり、そのままあちらの世界に通じている。
 
「中心」を通って、外側へ抜け出すのだ。
 
そのためには、渦の中に積極的に関わる勇気が必要だ。
 
いわば、洗濯中の洗濯機の「渦の中へ自ら飛び込む」のだ。
 
可笑しかったら「笑い」、悲しかったら「泣き」、腹が立ったら「怒る」!
 
喜怒哀楽の感情を押さえずに、むしろ積極的に表現する。
 
すると、どんな思考や感情にも影響されない「中心感覚」が自ずと明らかになる。
 
 
しかしそれでは、渦の中に溺れてしまう心配もある。
 
それを防ぐ為に絶対的に必要なものが、瞑想であり「気づき」と「寛ぎ」と言う事だ。
 
さらに「ハート」の感性が開かれれば完璧だ。
 
今週末のリトリートでは、その秘密が体験的に明らかにされるだろう。
 
人類意識の進化の最先端に立ち会えるのは、無上の喜びである。

洗濯機

2014年7月15日(火) by キヨタカ

Img_0722

 本館前の庭に設置していた、古い洗濯機がついに故障。
 
何しろ、22年前に購入したものだから仕方あるまい。
 
庭仕事の作業着の洗濯等に重宝していたので、さっそく代替品を購入する事に。
 
海外の格安メーカーが白物家電を席巻しているので、日本のメーカーは大変らしい。
 
そこで少しでも助けになればと、敢えて日本製を購入。
 
しかし、色々な新機能も付いて2万円台とは安い。
 
これで儲けが出るのか、ちょっと心配になる。
 
 
瞑想会では、「瞑想的気づき」を説明するために洗濯機を例に挙げる事がある。
 
「思考や感情と言うのは、ちょうどグルグル廻っている洗濯物の様なもの」
 
「思考や感情が自分だと錯覚すると、渦の中に巻き込まれてしまい、自分もグルグルしてしまう」
 
「でも、その渦から外側に飛び出せば大丈夫(*^-^)」
 
「ちょうど洗濯中の洗濯機を外から眺めるようなもので、楽しいですよ♫」
 
 
私の知り合いの瞑想家で、
 
「洗濯物がグルグル回って洗濯されているのを見るのが大好き♡」
 
という人がいる。
 
蓋を開けて洗濯中のグルグル回るのを「ぼ〜っと」眺めていると、深い瞑想状態になり、やがて無上の至福感に包まれるのだと言う。
 
だから「洗濯機の例え」は、瞑想家の裏付けもある由緒正しき比喩なのだ!
 
そこでさっそく新しい洗濯機を使い、由緒正しき瞑想をする事に。
 
 
ところが…
 
なんと蓋が開かないではないか・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
これじゃ、洗い物がグルグル廻る様子を眺められない。
 
どうやら最近の洗濯機は、安全性を考慮して自動ロックがかかるらしい。
 
「2万円台のくせに格好付けやがって\(*`∧´)/」
 
…と、洗濯機に対して怒るわけにもいくまい。
 
そういえば、富士見荘の洗濯機も30年前の古いやつだった。

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最近の若者に「洗濯機の例え」を話すと、たぶん「洗濯板にタライ」くらい古臭く感じられてしまうかも…shock
 
時代の進化を止める事は出来ない。
 
例え話しも、時代に合わせて進化させたいものである。

独楽

2014年7月14日(月) by キヨタカ

 世の中には、どうでも良い事に疑問を持ち夜も眠れなくなる人がいる。
 
昔流行った漫才のネタ…
 
「地下鉄の電車はどこから入れたの? 」
 
「それを考えてると一晩中寝られない(;д;)」
 
は、その代表例だろう。
 
 
私の場合、Images
 
「回転して止まっている様に見えるコマの中心は、果たして動いているのか止まっているのか?」
 
疑問を持ち、夜も眠れなくなった・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
「動いていたら、さらなる中心がある筈だ!」
 
「中心が止まっていたら、その廻りの回転している部分との間に摩擦が生じてしまう…」
 
中学生の時の疑問だが、理科の先生に聞いてもわからない。
 
高校生の時に、物理の先生に聞いてもダメ。
 
とうとう大学生になってしまった。
 
 
すっかり諦めかけていた時に、運命の出来事が起こった。
 
ある事がきっかけで学生坐禅会に参加。
 
そこで初めて坐禅の指導を受けたのだが…
 
「激しく回るコマの中心は動きません。コマの中心として坐りなさい。」
 
とアドヴァイスを受けたのである。
 
するとやがて、自分は宇宙の中心である事に気づいた。
 
このちっぽけに思える私とは…
 
天上天下唯我独尊
 
だったのである。
 
しかしこの中心は相対的なものだから、世界の中心は遍在している。
 
だから、誰もが宇宙の中心であり、
 
あなたも私と同じで…
 
天上天下唯我独尊
 
だったのだ。
 
私にとっては、世紀の大発見!
 
これで人類も救われると確信したのだが、他の人にとってはどうでも良い事だった。
 
最初は廻りの人々に一生懸命説明したのだが、「頭がおかしい」と思われてしまった。
 
…実際に、そうだったのかも知れない。
 
この真実を広げる為に、「記者会見を開きたい」と語ったりしたので…(ノ_-。)
 
 
だから、この事は私の中で長い間封印してしまった。
 
それからは自分だけの理解の中で、コマの中心に在る事を心がけている。
 
 もっとも始めの頃は、ただの中心でありどうって事なかったのだが…
 
次第に「ただ在る事の喜び」が溢れるようになった。
 
外側の状況に頼らなくても、「独りでも楽しい」のである。
 
自分というコマの中心に、ただ在れば良い。
 
そういえば、コマとは「独りで楽しむ」と書き…
 
独 楽
 
他の人にはどうでも良い事なんだろうと、勝手に思い込んでいたけれど…
 
「解る人は昔から解っていたんだな〜」
 
と、今更ながら感慨に浸っている。

自我と真我の狭間

2014年7月13日(日) by キヨタカ

 昨日は、「Let it go/ありのままに」の歌詞をネタに、禅の「あるがまま」そして道教や神道、キリスト教の真髄に言及した。
 
しかし、あの歌はそこまでは言及していない。
 
自分に秘められていた力を隠すためずっと城に閉じこもり、いい子を演じていた姉のエルサが、ついに自分の力を抑えきれなくなり吹っ切れた感情を爆発!!
 
人の迷惑を顧みず、自分の衝動を優先する事を堂々と宣言した歌である。
 
 
実際に、王女としての地位を放り出し王国は凍り付き、崩壊の危機に陥った。
 
性悪説の論者が危惧しているように、
 
「ありのまま」では、社会が乱れて世も末だ\(*`∧´)/
 
との指摘は一見すると正しく思える。
 
だから、自我ではなく真我を目指して瞑想し、神に祈って惟神(かんながら)…
 
御心のままに生きようとする。
 
すると自己の能力は封印されたたまま…人畜無害の去勢された信者達が量産される事になる。
 
 
自我から真我へ、一気にジャンプする事は難しい。
 
自我と真我の狭間に、意識変容の鍵がある。
 
それまで押さえつけられていた「抑圧された自我の解放」というプロセスが必要だ。
 
去勢された人々に、覚醒へのエネルギーはない。
 
抑圧された自我を解放しエネルギーを取り戻す事で、初めて真我へジャンプ出来

Unknown

る。
 
OSHOは「反逆」という言葉を用いて、既成の社会体制から自由になる事を奨励した。
 
どちらかと言うと「人畜無害」だった私は、OSHOの過激な言葉に魅了されて、反逆の道を選んだ。
 
当時はまだ社会的枠組みも厳しく「〜すべき」という価値観が強かった。
 
だから、「反逆」には相応の代償を支払う必要があった・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
 
 
今の時代は、社会的枠組み自体が崩壊しつつあり、価値観もめまぐるしく変化する。
 
性悪説の論拠たる、善悪の基準すら曖昧だ。
 
「反逆」以前に、幸か不幸か既に「社会が乱れて世も末」になっているではないか!
 
意識の覚醒にとって、これほど有り難い時代はない。
 
だから、「自我の解放」が驚くべき早さで進むだろう。
 
「真我意識が世界を覆う日ももうすぐだな〜」と、
 
「Let it go/ありのままに」の歌を聞くたびに思う。

ありのまま

2014年7月12日(土) by キヨタカ

車に乗ってラジオをかけたら、例の曲が流れて来た。
 
ありのままの 姿見せるのよ♪
 
ありのままの 自分になるの  何も恐くない♫
 
最近外出すると、あちこちから「Let it go/ありのままに」の歌が聞こえてくる。
 
映画「アナと雪の女王」が大ヒットしたのは、この曲の御陰だとか…
 
 
禅では「あるがまま」という事が、様々に説かれている。
 
たとえば、道元禅師は次の様に語る。
 
「ただわが身も放ち忘れて仏のいへになげいれて、仏の方より行われ、是に従い行くとき ちからも入れずこころもついやさずして 生死を離れてほとけとなる」
 
道教では「無為自然」、神道では「惟神/かんながら」、キリスト教では「御心のままに」というが皆同じ真実を指し示している。
 
宗教がらみだと説教臭くなってしまうが、ヒットソングという形で「ありのまま」という生き方が世間に広がる事は実に素晴らしいヽ(´▽`)/
 
 
…と思っていたら、
 
「ありのまま」という風潮は実に嘆かわしい!
 
人間はありのままでは絶対にダメ。
 
なぜなら、人間の本性は「悪」だから!
 
「ありのまま」では、社会が乱れて世も末だ\(*`∧´)/
 
という主張を、某雑誌で読んだ。
 
「性善説 vs性悪説」という有名な議論があるが、この論者は徹底的な「性悪説」に立っていた。
 
 
どちらが正しいかは別として、「性悪説」を信じている人は生きる事自体がしんどいだろうな〜。
 
人間の本性が悪だったら、他者は言うに及ばず自分自身すら心から信用する事は出来ない。
 
だから、いつも警戒して絶えず「緊張」していなければならない。
 
難しい議論はすっ飛ばして、私は迷わず「性善説」を選ぶ。
 
なぜなら、いつも寛いで「リラックス」していたいから(o^-^o)

戻りました。

2014年7月11日(金) by キヨタカ

 一週間振りに、先ほど修善寺に戻った。
 
台風の被害が皆無で、ほっと一息。
 
しかし、施設の庭は雑草の勢いが凄くて唖然とした。
 
とりあえず、富士見荘前の芝生を芝刈り機で剪定した。
 
マインドと雑草は、刈っても刈っても、すぐに生えてくるものだな〜(ρ_;)

シンプル

2014年7月10日(木) by キヨタカ

 昨日紹介した本:「老人力」に、江戸っ子老人力なるもの書かれていた。
 
曰く。

宵越しの情報は持たねえ!
 
記憶力の低下を逆手に取った名言である。
 
 
真実は、とてもシンプルだ。
 
気づいている事、寛いでいる事、ハートの至福に満たされている事。
 
たったそれだけ。
 
情報とは全く関係がない。
Img_0707
 
 
小山の町を散策していたら、いつも通るお寺の掲示板に
 
何やら張り紙が…
 
よく見ると、小林一茶の俳句だった。 
 
Img_0704_2
 はだかにて
 
      生まれてきたに
 
           何不足
 
実に、シンプルだな〜。
 
 
 
江戸時代の人々の方が、真実に近い暮らしをしていたのかも知れない。
 
最近、「欲しがらない」若者が増えていると言う。
 
「さとり世代」などと揶揄されたり、消費経済を揺るがす大問題だとする論者もいるけれども…
 
ようやく、人間の意識がレベルアップしてきた、という事ではないか?
 
大量生産・大量消費の経済と密接に結びついている大量情報の罠から、スルリと抜けたいものである。

老人力

2014年7月9日(水) by キヨタカ

 昨日は、「隣のおばさん」が遊びに来た。
 
小学5年生の時からの付き合いだ。
 
今はもう立派なおばあさん(82歳)になっている。
 
でもすごく元気だから、私の中ではまだ「おばさん」のイメージが強い。
 
母も「おばさん」も話し好きなので、昔の思い出話に会話が弾んだ。
 
私の方は、2人の聞き役に徹する事に。
 
 
しかし母は、少し耳が遠い。
 
「おばさん」は、自分の事を一方的に喋くりまくる性格。
 
おまけに2人とも、声が異様にデカい。
 
2人の会話は完全にすれ違いの平行線のまま、私に向かって話しかける( ̄Д ̄;;
 
しかも、私の頭脳を外部記憶装置として2人とも遠慮なく利用する。
 
「えーと、えーと、あれ何だっけ…?」
 
「ほら、ほら、あの人、あの人…えーと、誰だっけ…?」
 
「そうそう、あん時の、あれ、あれ、…あれかしら?」
 
といった調子で、ジベリッシュに近い会話が延々と続く(;д;)
 
私は仕事を理由に早々に退散したが、後を引き継いだヨガビは最後までつき合ったのでで、ヘロヘロになってしまった。
 
でも2人とも非常に楽しそうで、何より\(;゚∇゚)/
 
「老人力」のパワーに圧倒された一日だった。
 
 
「老人力」とは、赤瀬川氏のエッセーで有名になった概念。
Img_0703
 
加齢による衰えを肯定的に捕らえる言葉で、「流行語大賞」に選ばれた事もある素晴らしいネーミングだ。
 
人は誰もが、老いる。
 
記憶力が衰え、何もしないでぼ〜とする時間が増え、外側への関心や欲求が少なくなる。
 
しかし、この現象はまさに瞑想の境地とそっくりではないか!
 
瞑想とは…
 
過去から自由になる事だ。
 
自分は誰かという過去の記憶との同一性を、一切捨て去る必要がある。
 
さらに、未来を思い煩わない事だ。
 
そもそも、未来などない!
 
あるのは、今だけ。
 
永遠の今へ、全てをお任せしてゆったりと寛ぐのだ。
 
だから…
 
悟りとは 老人力と見つけたり!
 
 
しかし、違いもある。
 
ボケ老人と瞑想家の決定的な違い、それこそが…
 
「ステート オブ プレゼンス」
 
「気づきそのものに目覚めた状態に在る」かどうかという事だ。
 
願わくば、「プレゼンス」を保ちつつ老いの境地を楽しみたいものである。

内なる台風

2014年7月8日(火) by キヨタカ

 7月としては観測史上最大の台風が接近中shock10610_00
 
7月のリトリートには沖縄や九州からも参加者が来られる予定なので、ちょっと心配。
 
「進路から外れて、真っすぐ大陸方面へ行ってしまえ!」
 
…と不謹慎な事を思ってはいけない。
 
あちらにも人々の生活があるし、今回は韓国からも参加者がいるので尚更だ。
 
被害が最小限である事を、切実に願っている。
 
 
しかし、そもそも台風が発生してから毎回大騒ぎするのはなんとも残念な話しだ。
 
臭い匂いは元から断たなきゃダメ。
 
台風だって、元から断たなきゃダメじゃないか!?
 
実は、台風の発生箇所に「海水温低下装置」を配置する事で、台風の目を摘んで発生を防ぐ事は理論上可能らしい。
 
同じ発想で、潜水艦を使い海中の低水温をくみ上げる事で台風の勢力を弱める仕組みは、
 
 
一日も早く実行すべきと思うのだが…あれから4年経つが何の音沙汰もない。
 
大自然が相手だと、それなりの大掛かりな装置とコストがかさむからやむを得まい。
 
 
しかし自分が相手なら、今日からでも実行出来る。
 
「人間は宇宙の縮図だ」
 
…と、精神世界では良く言われる。
 
世界の中で起こる事は、すべからく個人の中でも起こっているという。
 
晴れたり曇ったり、人間の感情は天候に似ている。
 
台風は、さしずめ爆発的な怒りの感情の様だ。
 
しかし台風と同じで、どんなにコントロール不能の感情でも、発生源というものがある。
 
爆発的感情が発生する前に、発生源に働きかけて元を断てば良い。
 
最近、怒りとか慚愧の念とかの激しい感情に襲われる事が非常に少ない。
 
別に、「年の功」という訳でもない。
 
激しい感情が起こる前に、その背後に既に存在しているプレゼンスに働きかけるからだ。
 
 
例えば、非常に理不尽な扱いを受けたとしよう。
 
以前なら、「カチン(-ε-)」⇒「許せない(≧ヘ≦)」⇒「バカヤローヽ( )`ε´( )ノ」…
 
と、思考の自動連鎖反応が核分裂の如く起こり、感情の渦がたちまちに生じた。
 
そして、感情の巨大な台風が発生して暴風雨が吹き荒れたものだが…
 
最近は、「カチン(-ε-)」で止まるから、台風は滅多に発生しない。
 
「カチン(-ε-)」となったら、即その背後にあるプレゼンスに留まるのだ。
 
 
自然の台風をコントロールする事は、未来の世代に任せよう。
 
しかし、内側の台風は今すぐコントロール可能だ。
 
しかも無料!
 
無用な台風の発生を避けて、毎日を晴れ晴れと過ごしたい。
 
毎日を晴れ晴れと過ごす人々が増えれば、それが自然界にも影響を及ぼして、気候が穏やかになる可能性すらあるのだ。

逆風の時

2014年7月6日(日) by キヨタカ

 
人生が追い風の時に幸せを感じるのは当たり前だが、本当の真価が問われるのは逆風の時。
 
逆風とは言っても、命まで脅かされる状況は滅多にない日本という平和な国に生まれた事は有り難い。
 
しかし私の両親の青春時代は、戦争のど真ん中だった!
 
あの時代に「幸せでいる」のは至難の業だと思うのだが…
 
人気ブログ「自由人のカルマ・ヨガ ノート」を覗いたら、ブログの主:広大さんのおじさんの話しが載っていた。
 
その方は大陸に派兵され、戦後極寒のシベリアに数年間抑留されたにも関わらず…
 
「あぁ、でも向こうでは、けっこう楽しいこともあった…」と、
 
苦労をねぎらう家族に話して、仰天させたという。
 
不幸のどん底と思える状況で、幸せ感をキープ出来るとは実に驚きだ。
 
本当に幸せで在る人は、外側の状況に左右されないのだ。
 
 
そういえば私のおじさん(父の弟)も、戦争経験者。
 
ビルマ戦線に投入され手榴弾で負傷、左目は義眼だった。
 
しかし、「俺は運が良かった」といつも語り、感謝していた。
 
おじさんによれば、負傷した御陰で前線から離脱し死を免れたのだとか…。
 
同じ部隊に属していた仲間は、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦で全滅してしまったそうだ。
 
いつも物事を肯定的に捉える性格で、人の悪口は決して言わない人だった。
 
だから他人からの信頼も厚く、戦後はビジネス方面でも大成功を納める事が出来た。
 
 
ところで昨日YouTube で駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長:工藤俊作氏のストーリーを知り感動した。
 
1942年4月、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国艦船の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物だと言う。
 
敵潜水艦の潜む戦闘中の海域での救助は、相当の覚悟が必要だったはず。
 
しかもその事実は、戦後黙して語らず。
 
ようやく世間が知る事になったのは、なんと60年後。
 
救われた側の元イギリス海軍士官が「死ぬ前に感謝の意を伝えよう」と来日して解った、という驚きのエピソードだ。
 
外側の状況に左右されず己の信念を貫いた姿勢は、まさに「海の武士道」として賞賛に値する。
 
 
「艱難汝を玉にす」ということわざがある。
 
人は困難や苦労を乗り越えることによって、成長が起こる。
 
意識の覚醒もまた然り。
 
アジズは、「家庭環境が最悪」だったからこそ真理へのあくなき探究心が培われた。
 
フーマンも、イラン革命でアメリカへ脱出した事が覚醒への布石となっている。
 
人生に逆風が吹いたら…
 
「御陰で意識の覚醒が加速化する」と喜べば良い。
 
「千載一遇のチャンス」が訪れたのである\(;゚∇゚)/  
 

若さを保つ秘訣

2014年7月5日(土) by キヨタカ

 実家に戻り、母を迎えにショートステーに行く。Img_0695

食堂には、母の貼り絵が飾られている。

今月は、七夕がテーマ。
 
よくよく見てみると、天女の足下を飾る雲が綿を利用した3Dだ!
 
月替わりで創作しているが、だんだん上手くなっていて驚く。
 
「老人力」という言葉があるけれども…
 
老人も進化するんだな〜 w(゚o゚)w
 
Img_0696_3先月は肺炎で元気がなかったけど、今は調子がよさそう。
 
8月は花火の貼り絵にチャレンジするそうで、今から色々と思案している。
 
作業中の苦労を、嬉しそうに夢中で話す。
 
どうやら「創造する」というのが、若さを保つ秘訣のようだ。
 
「創造性を発揮する事」が自分にとって大きなテーマなのだが、参考にしよう。

エシャロット

2014年7月4日(金) by キヨタカ

 子供の時から、カレーが大好物。Images
 
カレーには、必ず「福神漬け」を添える。
 
「らっきょう」も時々添えるけれども、ちょっと苦手かも。 
精神世界の巨人:出口 王仁三郎は、
 
Images1
「日本人はらっきょうを食べよ。霊性開発の助けとなろう。形が勾玉(まがたま)に似ておるのは、深い訳がある…」
 
と述べている。F4032l1
 
 
 
江戸時代の農業全書では、
 
「学問をするもの、食すると神(しん)に通じ、魂魄(こんぱく)を安じる」
 
とある。
 
霊性開発の助けとなること間違いなさそうだから、食べよう!
 
とは思うのだが、あの妙な甘酸っぱさは「初恋の味」とは明らかにちがう。
 
だから、圧倒的に「福神漬け」派だった。
 
 
ところが、先日NHKの「ためしてガッテン」を何気に見ていたら…
 
衝撃的事実が判明したヾ(*゚A`)ノ
 
なんと、フランス直輸入の高級食材…と勝手に思い込んでいた野菜:
 
エシャロットとは、早取りらっきょうの別名だった!
 
名付け親の張本人も実名で登場したので、真実である事は間違いない。
 
例の甘酢漬けは、大正時代に流行ったものがそのまま残った食べ方だったとか。
 
本当は、生で食べたり、煮たり、焼いたり、天ぷらでも美味しいらしい。
 
「らっきょう」に対する半世紀に及ぶ概念が、180度ひっくり返ってしまった。
 
長生きして良かったヽ(´▽`)/
 
 
ネーミングとは、実に大切だ。
 
最近では、「神」とか「悟り」という言葉にうんざりしている。
 
「らっきょう」と同じく、非常に古臭い独特の味がするからだ。
 
全く同じ内容を、エシャロット風のしゃれた名前にしたとたん、味わえる領域は格段に広がる。
 
アドヴァイタ系の悟りを世間に広めたガンガジは…
 
「悟り」を、「満たされて生きる」と置き換えた。
 
「悟り」に食傷気味でも、思わず誰もが「味わいたく」なるグッドネーミングだ(o^-^o)
 
 
ところで、キヨタカの辞書に失敗の文字はない!
 
 
失敗を⇒タックに置き換えて、タックした場所に後から大きな的を描いたのだ。
 
すると驚いた事に、失敗だらけの人生が…
 
子供の時から数々の成功体験に裏付けられた輝かしい人生
に変貌を遂げたのである。
 
だから、今では自信満々で事に臨む事が出来る。
 
例え結果がイマイチでも、タックして後付けの的を描く。
 
そうすれば、

♪All is well!

誰もが「♪きっと、うまくいく」
 
人生が上手く行かないと思い込んでいる人は、レッテルを張り替えよう!
 
例えば、「俺は貧乏だ」と言わずに、「俺はマハルシの様だ、とか良寛さんみたいだ」と言えば良い。
 
「らっきょう」人生から「エシャロット」人生へ…
 
輝かしい変貌を遂げるだろう(* ̄0 ̄)ノ 
 

肉体のヴァージョン・アップ

2014年7月3日(木) by キヨタカ

 
 我が家の無線LAN、エア・マックを最新型に変えた。
01
 
結果は、”爆速” ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
 
文字通り、”サクサク”という感じでインターネットを検索出来る。
 
頭の回転も早くなった感じ( ̄ー ̄)ニヤリ
 
ヨガビに聞いたら、「もともと早いからよく解らない」との事。
 
それもそのはず。
 
ヨガビのパソコンは、既に古いハードディスクを最新のSSDに改装してある。
 
だから、もともと”爆速”なのである。
 
 
瞑想とは、思考や感情の背後にある「気づきのスペース」にただ在ることだ。
 
伝統的な禅では、「無心(ノーマインド)」と言われて来た。
 
「無心」に在ると、脳内のプログラムをリセット出来る。
 
だから新しいプログラムにそって、冴え渡った思考をする事が可能となる。
 
 パソコンに例えると、古いOSを最新OSにする事で、とたんに賢い事が出来るようなものだ。
 
 
だがここで、重大な問題に直面する。
 
古いパソコンは、最新OSの動きが鈍い。
 
パソコンなら、最新モデルに買い替えれば良い。
 
しかし人間の場合、新しい肉体に替える訳にはいかない。
 
だから、死んで新しい肉体を手に入れるのがベストかも…
 
この件に関してアップルの創始者スティーブジョブズ氏は、非常に達観していた。
 
「死はたぶん、生命の最高の発明。それは生物を進化させる担い手だ」
 
とうそぶき、さっさとあちらの世界へ戻ってしまった。
 
だから今頃は、新しい肉体に宿る機会を伺っているに違いない。
 
やがて新しい肉体を手に入れて、人類進化の担い手として大活躍をする事だろう。
 
 
しかし私の様に還暦になっても…
 
「あと60年生きる気がする」
 
と思う人には、あまり嬉しくない発明だ。
 
…仕方ないけど( ̄Д ̄;;
 
じゃ、どうする?
 
まだまだこの古いパソコン…じゃなくて、
 
この古い肉体に執着している人向けに、最新OSが機能する方法はないものか?
 
 
実は、その解決策がある。
 
ヨガビのパソコンの様に、ハード面を改造すれば良い。
 
つまり、この肉体をヴァージョン・アップさせて、最新OSが快適に機能するようにするのだ。
 
もう少し具体的に言及しよう。
 
この「無心」のスペースは、肉体も最新ヴァージョンにシフトさせる力を潜在的に持っている
 
…と言う事だ。
 
非常に残念ながら、悟り系の精神世界ではこの事に関する理解や関心が足らない様に私は思う。
 
私も長年そうだった。
 
「悟れば永遠を手にするから、早死にしてもまあいいか」と考えていた。
 
今思えば、癒し系の精神世界に「病気治し」とレッテルを貼り、低レベルと見下していた。
 
しかし、高レベルのはずの瞑想世界に長年関わった結果、
 
「意識レベルが高い人ほど早死にする」
 
と思いたくなるような、悲しい事実に何度も遭遇した。
 
古い肉体のままで新しい意識を動かそうとすると、様々な不具合が生じるのだ。
 
だからその問題に対処すべく、従来の瞑想に欠けているものを今現在探求し実験中。
 
この肉体をヴァージョン・アップさせるというのも、その一つ。
 
御陰さまで、自分自身に対しては相当な効果を発揮しつつある。
 
いずれ、他の人にも分かち合う時が来れば良いと願っている。

ノア

2014年7月2日(水) by キヨタカ

映画:「 ノア〜約束の箱船〜」を見に行く。
 
最近映画館で見る映画は、ことごとく満足度が高かった。Noah_wall08_1920x1200
 
今回は、例の衝撃的な名作「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー監督の最新作という事で大いに期待した。
 
よく知られた旧約聖書の大洪水の物語を、壮大なスペクタルで描くと言う。
 
しかも敬虔なクリスチャンが卒倒する様な、斬新な解釈で!
 
さらに、存在感溢れるラッセル・クロウやアンソニー・ホプキンズが出演するのだ。
 
満足度120%で間違いない!
 
 
…と思いきや、とても残念な結果になった(ρ_;)
 
ストーリーの始めの方で「岩の怪物」が登場した時点でアウト。
 
もともとハリー・ポッター的ファンタジー映画は苦手なので、それは別として…
 
そもそも主人公のノアの苦悩に、さっぱり共感出来なかった。
 
「世界的な大ヒット」という事なので、他の人がいったいどんな所に感動したのか大いに興味がある。
 
ぜひ鑑賞して、感動した場面を教えて欲しい。
 
 
個人的に面白かったのは、登場人物達が天を仰いで、
 
「神は呼びかけても、答えてくれない。沈黙しているだけだ!」
 
と嘆く場面が何度も登場する所だった。
 
「それはないよね!」と、思わ苦笑してしまった。
 
私が監督だったら…
 
「沈黙こそ神の答えなのだ」という方向へストーリーを展開したい。
 
そもそも人類の苦悩は、神が「智慧の実」であるリンゴを食べるのを禁じた事にある。
 
さらに、「命の実」を食べる事を恐れて、エデンの園から追い出した。
 
そして、理不尽な難癖をつけて、「罪と罰」でもって人類を脅し続けている。
 
さらに「悪魔」まで創造して、人類を不幸のどん底に追い込んでいるではないか!
 
もし天に神が実在していたら、この神こそが諸悪の根源だ。
 
今こそ、神に反逆する時だ\(*`∧´)/
 
 
今の時代は、ノアの時代と非常に良く似ている。
 
いつ大洪水や大地震あるいは原発災害が起こって人類が壊滅しても、何の不思議もない。
 
しかし地下シェルターなどのどんなに頑丈な箱船を作っても、その船に乗る人間が同じだったら、同じ過ちを繰り返すだろう。
 
神が天に実在していると信じ込んでいる人間の子供じみた意識こそが、人類の不幸の根源だ。
 
 
外側の神を一掃しよう!
 
どんなに映画で「愛」を賛美しても、それが外側からやってくる限り永遠ではない。
 
そもそも、神なしで人類は幸せになれる。
 
今こそ、マインドを超えた新しい意識に目覚める時だ。
 
その秘密は、「沈黙」にある。
 
「沈黙」こそが、意識のノアの箱船だ。
 
そして沈黙意識に内在する、真実の愛と叡智が解き放たれる事で、人類は救われると私は確信している(* ̄0 ̄)ノ

真我を生きる

2014年7月1日(火) by キヨタカ

 「意識の覚醒」には、2つの次元がある。
 
一つは、自我から真我へと目覚める事。
 
21世紀の今においては、これはそれほど難しい事ではない。
 
リーラスペースのリトリートも、最近では殆どの参加者が真我の一瞥を体験できる時代になっていて驚く。
 
しかし真我意識を一瞥しても、真我を実社会で生きないと定着しない。
 
さらに今急務とされている事は、真我意識を携えてこの現実社会に積極的に参加して、新しい時代を創造していくという事だ。
 
そうでないと、人類の未来に希望はない。
 
だから、社会の中で活躍中の方こそ、真我意識に目覚めて欲しいと願っている。
 
 
今回の新宿イベントには、Mさんがわざわざ九州から来て頂いた。
 
Mさんは長年瞑想を続けながら、実社会の中にもしっかりと根付いて大きな仕事をしている。
 
こうした方々の間に瞑想が静かに広まって行く事で、いつのまにか社会が大きく変容していくのではないかと思う。
 
感想のメールを頂いたので一部を抜粋します。
 
 
* * * Mさんの感想 * * *
 
 昨日東京より戻ってまいりました。
 
 先日はありがとうございました。
 
『個人セッション』『ナイトセッション』ともに素晴らしいひとときでした。
 
 特に『個人セッション』における『ハートへの瞑想』には深い気づきがありました。
 
 最初『海に深く潜ると青色が濃くなるように深いハートの層』を感じ
 
次に『心から懐かしい気持ちがこみ上げて涙が溢れ』
 
それを抜けると『広大でで無限』が広がっていました。 
 
まさに、魂の故郷 なんでしょうね。 
 
意識が自然とシフトするのを感じました。 
 
 そして、数時間後にの『ナイトセクション』もこれまでにない深い瞑想状態を体験できました。  
 
これからの大いなる指針、進む道がわかったような気がします。  
 
…(略)…
 
キヨタカさんの言葉で 『悟りの後、それを実社会でどう実現させるか、どう三次元の世の中で展開させるか、今のビジネスがどううまく、大きく展開していくかが、非常に重要。』 という言葉に共感しております。

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