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金太郎飴

2015年2月8日(日) by キヨタカ

 先日、OSHOの本を久しぶりに読み始めたが、「第2章まで読んで本棚に戻してしまった」と書いた。
 
別にOSHOに飽きた訳ではない。
 
それどころか、OSHOの洞察の深さを再認識出来て、感慨深いものがあった。
 
 
不生禅で有名な江戸時代の覚者:盤渓和尚は、「不生で一切が整う」と説いた。
 
何を問われても、「不生」を軸として、やさしい言葉で人々を教導したと言う。
 
中国の倶胝和尚は、何を問われても、ただ指一本を立てて(一指頭禅) 導いたとか・・・。
 
 
禅の世界では、こうしたシンプルな教えのマスターが多い。 
 
OSHOはタントラマスターを標榜するだけあって、その世界は万華鏡の様に多彩だ。
 
「OSHOは全ての道をテーブルの上に広げた」とフーマンは語る。
 
だから、そこから勝手にOSHOのメッセージを我田引水したり、誤解したり毛嫌いしたりする人も結構いる。
 
 
しかし、究極の真理はたった一つ。
 
縦横無尽に語られる饒舌なOSHOの書物は、どの頁を開いても、そこにたった
Images
一つの真実が隠されている。
 
それはちょうど金太郎飴のようだ。
 
どこを切り取っても、そこに真実が顔がある。
 
 
盤渓や倶胝和尚であれば、その顔つきが同じだから分かりやすい。
 
OSHOの場合、その顔つきが多義に渡るので、人によっては戸惑う。
 
しかし多彩な顔つきの背後にある「金太郎」を読み解けるようになると、OSHOワールドの深みにハマるのだ。
 
 
ところが、その金太郎とは実は自分の事だったと知り、自己という書物をダイレクトに読み始める時がやって来る。
 
その時、外側の書物は不要となり、本棚に戻されるのだろう。
 
 
私の古くからの友人の中には、OSHO関連の本を全部処分してしまった人も結構いる。
 
私の場合、こうして時々手にする事で、その時々の自分の立ち位置がより明確になるので、まだ手元に残して置くようにしている。
 
別に、昔の恋人に執着している訳ではない。
 
OSHOやフーマンといった覚者は、時空を超えている。
 
だからいつも「今・ここ」にいる、永遠の恋人なのだ。

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コメント

拝啓、、、、。

      一歌

         ”永遠の

               一つのかけら

                        今に在り

                              貴方と居れば

                                       全ては一つ”

                         Yょㇼ

                                                  敬白

 盤珪禅師については、以前読んだことがありました。なつかしく思い、少しネットで検索したら、新しい発見がありました。盤珪自身は筆舌を絶した厳しい坐禅修行を経た後に、不生の仏心を悟ったのですが、彼の法話に集った庶民や武士たちには、坐禅を決して勧めなかったのです。盤珪は聴衆に向かって「私の話をよく聞いて、不生の仏心を悟りなさい。」と言っていたのです。坐禅をしなくても、悟れるという説き方は、禅僧にしては、珍しいと思います。彼の教えのポイントは、悟りとは心の方向性(態度)が正しく定まることであると解釈できます。
 以前、リトーリートの質疑応答で、「あと何時間坐ったら、悟れるでしょうか?」という質問をしていた人がいましたが、心の方向性の転換は常に今この一瞬の出来事なので、このような質問が出てくるうちは、その人の方向転換は、まだまだ当分先なのかなあと思いました。 「不生の仏心で、すべてが整ってござる。」という盤珪の言葉が腑に落ちるかどうかが、問題ですね。

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