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2015年4月

枯山水

2015年4月29日(水) by キヨタカ

最近少し食べ過ぎの傾向があるので、久しぶりに3日間のフルーツ断食を行う。
 
フルーツだけを食べて3日間過ごすというもの。
 
以前は、「フルーツ断食リトリート」と称して、毎月開催していた事もある。
 
ハワイのフーマンから教わったもので、波動が繊細になりとてもパワフル。
 
ただし南国と違い、日本だと体が冷えるので、一般にはお勧めできない。
 
 
今日で2日目だけど、非常に寒く感じる。
 
エネルギーが内側に入り、自然とビーイングへ引き込まれる。
 
「何もしない」事が、とても自然な感じ。
 
声も普段より小さくなり、少し戸惑う。
 

Dscn4102_2

「いつも大声だから、その位がちょうどいいよ」
 
と、ヨガビに揶揄されしまった。
 
いつものエネルギッシュなキヨタカが消え去り、枯山水みたいだ(ρ_;)
 
 
孔子によると・・・
 
七十而從心所欲、不踰矩
   ( 七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず)

七十になると思うままにふるまって、それで道をはずれないようになった。
 
枯れてしまえば、欲望もないから、道から外れることもあるまい。
 
なんだか突然70歳位になってしまった気もするけど、『枯淡の境地』というのも悪くない。
 
特に今回は女性参加者が圧倒的に多いので、期せずして それに相応しい準備が起こっているのだろう。

ヒーコー

2015年4月27日(月) by キヨタカ

 『ヒーコー』という南国の飲み物をご存知だろうか?20150428_75333
 
別にドラッグではないが、しびれるような香りで、飲めばおいしく心がウキウキ・・・
 
それを思い起こすだけでいい。
 
そうすれば、自宅でも職場でも、いつでも何処でも 『ヒーコー』を飲んで、人生をウキウキと楽しめるようになる!
 
 
だから、ぜひ 『ヒーコー』を思い起こして下さい!
 
といくら言われても、飲んだ体験がない人は思い起こしようがない。
 
おまけに、そんな飲み物は私が勝手にでっち上げたものだから、尚更だ。
 
しかし、『コーヒー』と言われれば、普通の日本人なら直ぐに思い起こせる。
 
飲んだ事がある飲み物だから・・・
 
 
ステート オブ プレゼンスのワークとは、『プレゼンス』をいつでも思い起こし続ける練習の事。
 
マインドという牢獄から脱出するために、非常に有効な手段だ。
 
あなたが『プレゼンス』を思い起こし続ける事が出来れば、やがて人生をウキウキと楽しめるようになる事を私は確約出来る。
 
しかし、『プレゼンス』の明確な体験がなかったら、それを思い起こす事は不可能。
 
『コーヒー』を飲んだ事のない人が、それを思い起こせないのと同じ理屈だ。
 
 
その味を知らない人は、どうやって思い起こせばいいだろう?
 
いくら私がその美味しさをくどくどと説明しても、あまり意味がない。
 
喫茶店に行って、美味しい『コーヒー』をダイレクトに飲めばいい。
 
たちどころにその美味しさの虜ととなり、忘れようがなくなる。
 
 
あなたが、本当のプレゼンスを味わいたかったら、喫茶店に行ってはいけない。
 
ぜひリーラスペースに来て欲しい。
 
プレゼンスの味を、ダイレクトに体験出来るだろう(*^-^)
 
「キヨタカの言う事が信じられない?」
 
うそかまことか・・・ダイレクトに体験してみる事がベストだ。
 

コーヒー・ルンバ   井上陽水 投稿者 goodsound46

ステート オブ プレゼンス

2015年4月27日(月) by キヨタカ

 鏡の国の中に囚われている私たちは、刑務所内の囚人と似ている。Prison06_m
 
犯罪を犯した囚人とは違い、我々にはそこから脱獄する正当な権利がある。
 
 
脱獄する為には、先ず刑務所の塀までたどり着く必要がある。
 
刑務所なら、閉じ込められている塀が見えるけれど、鏡は透明だから囚われている事に気づく事すら難しい。
 
だから、どんなに鏡の中で苦しんでいても、
 
「人生ってこんなもんさ(ρ_;)」と諦めてしまう。
 
 
瞑想に志した我々は、非常にラッキーだ。
 
鏡の中に映し出されている対象物から、意識の鏡それ自身へと気づきのベクトルが逆転し始める。
 
そうすると、遅かれ早かれ「見えない鏡の塀」にたどり着く。
 
それがプレゼンスのワークだ。
 
「見えない鏡の塀」にとどまっている状態を、アジズは「ステート・オブ・プレゼンス」と呼び、絶えずこの状態に留まる事を奨励した。
 
「ア〜ユ〜、イン・ナ・ステート・オブ・プレゼンス?」
 
と朝から晩まで問われ続けて閉口したのも、懐かしい思い出だ。
 
 
しかし、プレゼンスのワークだけに留まっても、あまり意味がない。
 
それはちょうど、刑務所の塀にしがみついているようなもの。
 
塀から外へ脱獄して、初めて自由を満喫できる。
 
それが、ビーイングへ寛ぐあるいは手放すというワークだ。
 
 
プレゼンスとビーイングは、瞑想という車の両輪だ。
 
片一方だけでは、決して 先へは進めない。
 
左右の足を交互に使って、マラソンのような長距離も走れるようになる。
 
呼吸だって、吸ってばかりはいられない。
 
深く吐く事で、また深く吸う事が出来る。
 
 
アジズが初期の頃に奨励していた、『ステート オブ プレゼンスの確立』という方便を、今だに信じ込んでいる方々が時々いる。
 

Unknown

アジズ自身、そうした方便は放棄している事は、「アジズとの対話」以降の出版物で明確にしている。
 
実は「恩寵の扉が開くまで Ⅱ」は、『ステート オブ プレゼンスの確立』を金科玉条の如くに信じ込んでしまった方々に向けて出版されたとも言える。
 (参照→P155:アジズを超えて)
 
堀にたどり着いたら、即、こちら側へ飛び降りて解放される必要がある。
 
中にはこちら側で寛ぐよりも、「堀にしがみついていたい」と主張する人もおり、当惑している。
 
 
人はそれぞれユニークだから、それぞれが自分が正しいと信じた道を歩むしかない。
 
しかし、しがみついたままでは緊張状態だから不自然だし疲労困憊する。
 
やがて、塀から転げ落ちるだろう。
 
 
私としては・・・
 
「鏡の中ではなく、こちら側に転げ落ちてネ」
 
・・・と祈らざるを得ない。
 

鏡の国のアリス

の2015年4月25日(土) by キヨタカ

ルイス・キャロルの児童文学に、『鏡の国のアリス』という物語がある。Alicelg
 
有名な『不思議の国のアリス』の続編で、今度はアリスが鏡の世界に迷い込むお話し。
 
児童文学だからザッと読めるかと思ったら、登場人物がチェスのルールに則って描かれていたり、
 
『粉な(flower)を取って・・・』
 
『その花(flower)はどこで摘むのじゃ』
 
等々、英語に堪能じゃないと面白くない言葉遊びや、歴史を知らないと分からないパロディが満載。
 
途中で頭が痛くなり、読むのをギブアップした思い出がある。
 
 
しかし『鏡の世界に迷い込む』というコンセプト自体は、強烈なインパクトを与えてくれた。
 
なぜなら・・・
 
鏡の世界に迷い込むアリスとは、実は我々自身の事だから!
 
というのも・・・
 
私たちが外側の世界を知るためには、「気づき」という意識作用が不可欠。
 
「私が在る(I AM)」からこそ、世界がある事を知る。
 
だから、「私が在る(I AM)」とは気づきの鏡とも言える。
 
気づきの鏡に、世界が映っている。
 
あなたが今、修善寺日誌を読めるのも、あなたという気づきの鏡があればこそ。 
 
しかし残念ながら、鏡に映った世界にのみ意識は向かう。
 
つまり気づきの対象物の方にだけ意識のベクトルが向かい、気づきそのものをすっかり忘れてしまう。
 
そしてちょうどアリスと同じように、鏡の世界に迷い込んでしまうのだ。
 
 
アリスの迷い込んだ世界が奇妙奇天烈であるように、我々も奇妙な世界に迷い込んでいる。
 
しかし、鏡の世界に迷い込んでいる当の本人は、少しも奇妙だとは思わない。
 
どんなに奇妙な夢でも、夢を見ている間はそれが現実と疑わないのと同じ理屈だ。
 
 
ごく稀に、
 
「この世界は少し変だゾ?」
 
と疑問を感じる人々がいる。
 
そうした人々は、非常にラッキーだ。
 
遅かれ早かれ、瞑想に関心を持つだろう。
 
 
そして実際に瞑想して、意識のベクトルを鏡の対象物から鏡自身へと逆転させると、
 
アッと、驚く体験が起こる。
 
鏡の中から、外へ飛び出すのだ。
 
飛び出して初めて、気づく。
 
「な〜んだ、私は初めからココにいたw(゚o゚)w」
 
 
最近の精神世界は百花繚乱だが、「鏡の世界から飛び出す事」を心から願う人は少ない。
 
鏡の中の世界で、より良い人生を送るべく、愛し愛され、頑張ったり、寛いだり、癒されたりしている。
 
それは決して悪いことではない。
 
しかし、いくら悪夢を良い夢に変えても、夢が夢であることに変わりはない。
 
鏡の国から抜け出す事。
 
それが瞑想の基本だ。

努力と恩寵

2015年4月24日(金)   by キヨタカ

「努力か寛ぎか?」
 
私を長い間悩ませていた、難問だ。
 
「アジズとの出会い」によりその難問は氷解するのだが・・・
 
それまで、様々な覚者からそれぞれ味わい深い答えを頂いた。
 
 
例えば、アリゾナのマスター:リー・ロゾウィックの答えはこうだ。
  (「覚者を求めて」 P78より引用)
 
キヨタカ:「悟りとは努力の結果ですか? それとも自己を超えた存在の恩寵によるものですか?」
 
リー:「あなたは自己と神を2元対立的に捉えている 。
 
真実は、神の恩寵としてあなたの中に魂を目覚めさせようという努力が起こる。
 
だからその努力を続ければ、目覚めへと導かれるだろう。」
 
 
昨日の日誌に、Yさんから素敵なコメントを頂いた。
 
”我々が石を突き破るF0194407_952362_2
 
      筍のように
 
  貴方方は曇りをすり抜ける
 
      陽射しの様、、、、”
 
 
なるほどね。
 
「あなたが一歩神に歩み寄れば、神も一歩あなたに歩み寄る」とはコーランの教えだそうだが・・・
 
春になれば、分厚い雲をすり抜けて、恩寵の光が燦々と降り注ぐ。
 
そうすれば、石を突き破る竹の子のように、逞しい成長が起こり始める。

竹の子

た2015年4月23日(木) by キヨタカ

 最近、庭の植物の成長が著しい。
 
冬の間は枯れ木のようだったのに、いつのまにか葉っぱが生い茂り、燃え立つような緑の木々が施設全体を覆っている。
 
今朝は、施設の片隅に生えている竹の子を発見してビックリw(゚o゚)wImg_1790
 
確かつい先日までは、存在していなかった筈だが・・・
 
1メーター近く成長しているではないか!
 
 
竹の子の生えた地面を見て、2度ビックリヾ(*゚A`)ノPhoto
 
根元の拡大写真をよく見て欲しい。
 
左側の塊は、コンクリートの破片。
 
何とコンクリートの敷石を突き破って、生えている!
 
 
静かに黙して座り、 何もしない、
 
 春が来て、 草はひとりでに生える......。
 
OSHOが講話で、よく好んで引用した禅語だ。
 
 
精神世界でも、春が来れば、草はひとりでに生える・・・。
 
しかしその為には、春が来る正しい場所を選ばなければならない。
 
冬の環境のままでは、どんなに頑張っても、草はひとりでに生えるのは難しい。
 
リトリートとは、「春を呼ぶ環境を整える場」だと言えるだろう。
 
 
リトリート常連のAさんからメールを頂いた。
 
キヨタカ様、常連のAさんでーす(^o^)/
>リトリートも常連にもなりますと、少しは成長するものだと思いますが、私の場合?>は、何だか全く変化も成長もして無い感じですね。
 
いえいえ、庭の竹の子のように、凄い勢いで成長していますよ!
 
 
>悟り得る為に座禅するのでは無い  By道元
 
>悟りを得る為に、リトリートに参加するのでは無い  ByA
 
その通りですね。
 
悟りなんか忘れて、楽しむのが一番!
 
リトリートに参加するには、それ相当の努力が必要です。
 
しかし、いったん参加すると決めたら、努力は不要です。
 
ただその流れに沿って、春を楽しんで下さい。
 
草はひとりでに生えるでしょう。
 
たとえ困難があっても、庭の竹の子のように、障害を突き破って天高くそびえ立つでしょう!

ベートーヴェン復活

復活2015年4月21日(火)

小学生の頃、ベートーヴェンが大好きだった。
 
「子供じみた大人」と定評のあるキヨタカだが、あの頃は「大人じみた子供」だった。
 
小学生の頃、死ぬのが怖くてノイローゼになったりもしたから・・・
 
生きていたら死ぬしかない運命から、何とか救われる方法を無意識に模索していたのだろう。
 
 
ジャ、ジャ、ジャ、ジャ〜ン♪
 
と叩かれて開かれる運命の扉は、人それぞれに過酷だ。
 
「キヨタカほど幸せな子供時代を送った人は珍しい」
 
と、いつもヨガビに揶揄されるが、そんな事は断じてない。
 
『にんじん3本→にんじん2本→貧困→死じゃうshock
 
と負のスパイラルにすぐに陥る、繊細で気弱な子供の部分もあったのだ。
 
 
呑んだくれの厳しい父親、難聴、貧乏、失恋、自殺未遂、後継者問題等々・・・
 
ベートーヴェンの運命は、私以上に過酷だった。
 
しかし数々の試練を乗り越えて、 「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」 素晴らしい音楽を次々に作曲。
 
「諸君、喝采を。喜劇の終わりだ」と呟いて亡くなったそうだが、葬儀には2万人の参列者があったという。
 
変人と言われながら・・・いかに人々から敬愛されていたかの証拠だ。
 
 
瞑想に親しむようになってからは、長い間ベートーヴェンの曲が聞けなくなってしまった。
 
壮大であまりにも人間味溢れた曲調が、大袈裟でやかましく、瞑想に邪魔だと感じたのである。
 
 
ところが数年前から、ベートーヴェンが私の中で復活した。
 
同じ曲でも、今は全くうるさく感じないのが不思議だ。
 
ダイレクトに魂を揺さぶる。
 
天才モーツアルトの曲も、魂に心地よい音楽で大好きだ。
 
しかし、それは天上界を彷彿とさせる響きであり、地上を生きる人間の魂の救いにはなりにくい。
 
 
純真無垢な子供の魂そのもの響きが、モーツアルト。
 
ところがベートーベンの音楽は、わざわざ地上に降臨して傷ついた人々の魂を癒し、天上界へと救い上げる。
 
地上界へ落とされて復活した魂が持つ、力強さと優しさが溢れているのだ。
 
仏教的には、天部(天道に住む神)と菩薩(地上で衆生救済に励む)の違いか?
 
 
ベートーヴェンというと、大編成のオーケストラのイメージが強いが、小規模の傑作も
多数ある。
 
今朝聞いた弦楽四重奏曲第15番(第3楽章)なんかも、素晴らしい!
 
病気で作曲中断というアクシデントを乗り越えた曲だそうで、「病が癒えた者の神への感謝」とのコメントが書かれているそうだ。 
 

〜にもかかわらず幸せ

2015年4月20日(月) by キヨタカ

あなたは、今日幸せですか?
 
私は、今日も幸せです。
 
今朝のにんじんジュースは、3本→2本に減ってしまったけど(;ω;)
 
(→修善寺*裏*日誌  「貧乏のハードル」 参照)
 
私の幸せの境地は、微動だにしない。
 
 
実は正直言って、Img_1799
 
>キヨタカの朝のにんじんジュースは これからは2本にしてね。 
 
と宣言された時は、一瞬ヤバかった。
 
「3本飲める金がない・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」
 
思わず貧乏意識が入り込み、不幸スパイラルに陥る可能性もあった。
 
 
 
金がある、だから幸せだ。
 
恋人がいる、だから幸せだ。
 
にんじんジュース3本、だから幸せだ。
 
「 〜、だから幸せ」な人は、不幸スパイラルの予備軍だ。
 
自分の幸せを、外側の状況に頼っている。
 
「〜、だから」が失われると、たちどころに不幸のどん底に陥る。
 
 
永遠の幸せを手にするには、幸せの条件を外側に求めない事だ。
 
その為に、私が編み出した精神世界の最強テクニックが役に立つ。
 
そのテクニックとは・・・
 
 
〜にもかかわらず私は在る。
 
金がない、にもかかわらず私は在る。
 
恋人が逃げた、にもかかわらず私は在る。
 
にんじんジュースが2本に減った、にもかかわらず私は在る。
 
 
私が在る(I AM)、それが幸せの源泉だ。
 
それさえわかれば、幸せは決して消え去らない。
 
だから、永遠の幸せを手にする。
 
 
にんじんジュース2本、にもかかわらず今日も私は幸せだ(*^-^)
 
明日は1本に減らされても、私の幸せは微動だにしない。
 
〜にもかかわらず幸せだ。
 
幸せよ、永遠なれ(* ̄0 ̄)ノ
 
 

吸って吐く

2015年4月19日(日) by キヨタカ

真理を求めて、様々な覚者と出会い、何度も海外へと旅立ったけれども・・・
 
今にして思えば、その必要はなかった。
 
もし、松庵さんが語った事を正しく理解していさえすれば・・・。
 
 
松庵さんは、私が学生時代に出会った禅寺の尼さんだ。
 
禅では、初心者に「数息観(すうそくかん)」の技法を教える。
 
坐禅を組んで、『息を吐くときに1から10まで数え、また1に戻る』 シンプルなテクニックだ。
 
上達すると、ただ呼吸に気づいている意識のまま寛げるようになる。
 
遂には荒れ狂う思考や感情から解放されて、『自由自在の境地』を味わえるようになるのだ。
 
 
吸って吐く あなたのひと呼吸の中に 真理があります。
 
百万巻のお経に書かれてある真理が、あなたのひと呼吸の中にあるのですよ。
 
松庵さんの語った言葉で、私の全身に衝撃が走った。
 
あたかも雷に打たれたかの様で、 探求の炎がメラメラと燃え上がった。
 
喜び勇んで坐禅修行に邁進し、自分の呼吸の中に分け入ったのだが・・・
 
しかし、結果は散々だった。
(結果を知りたい人は、「覚者を求めて」を参照)
 
 
 
長年に渡る探求を終えて、今ようやく、呼吸の中に分け入る事が出来るようになった。
 
吸って吐く
 
・・・実にシンプルなのだが、驚くべき神秘がその呼吸に隠されている。
 
 
吸って吐く

そもそも、いったい誰が呼吸しているのだろう?
 
通常我々は、自分が呼吸していると信じて疑わない。
 
しかし、本当に呼吸しているのは私ではない。 
 
 
信じられない人は・・・
 
吸って吐く
 
息を吐いたら、そのまま呼吸を止めてみると良い。
 
するといくら「吸うのを止めよう!」と一大決心しても、やがて新しい息が入って来ざるを得ない。
 
 
その新しい息のパワーは物凄い。
 
止めようとすればするほど、怒涛の如く、吸う息が押し寄せる。
 
その勢いに比べたら、
 
「呼吸を止めよう」
 
とするあなたの意志の力など、足元にも及ばない。
 
未だかつて、「吸うのを止める!」と決意して、息を止めたまま自殺した人はいない。
 
切腹したり、首をつったり、ビニール袋を被ったり・・・様々な工夫をしない限り、「吸うのを止める」事は絶対に出来ないのだ。
 
 
ところが、たった一度だけ、例外がある。
 
その時は、いくら次の息を吸おうと全身全霊を込めても、そうはいかない。
 
シンプルに次の呼吸が入って来ない。
 
それが、「臨終」という事だ。
 
 
つまり、我々が日常生活の中で「呼吸しているのは当たり前」と思い込んでいるが・・・
 
「一度たりとも呼吸はした事がない」というのが、真実だ。
 
吸って吐く
 
それは人智を超えた摩訶不思議な現象で、「呼吸はただ起こっている」。
 
我々は、生きているのではない。
 
『より大いなるものによって生かされている』
 
その真実を知る為に、偉大な覚者や宗教家や哲学者の話を聞いたり、万巻の書物を紐解く必要はない。

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吸って吐く
 
そのひと呼吸の中に、真実が隠されいる。
 
自分の呼吸の中に、全ての答えがある。
 
なんと、喜ばしい事だろう(*゚▽゚)ノ

魂の開花

2015年4月18日(土) by キヨタカ

 リトリート参加の常連となりつつあるAさんから、今回も参加申し込みがあった。
 
リピーターが増えるというのは、私にとりとても嬉しい事。
 
参加者にとっては、参加するたびに新しい発見があるし、私にとっても参加者の成長ぶりを定期的に知る事が出来る。
 
 
「魂の目覚め」は、一瞬にして起こる可能性がある。
 
しかし、魂としてこの現象世界をたくましく生きるには、通常相当な年月が必要だ。
 
それはちょうど、植物が成長するようなもの。Img_1797
 
ある日、春が来ると、あたかも突然のように新しい芽が顔を出す。
 
毎日接していると、ほとんど変化を感じない。
 
しかしやがて、いつのまにか、美しい花が咲いている事に気づく。Img_1794_2
 
リーラスペースの庭は、今は水仙と桃の花が満開。
 
植物でさえ花が咲くのだから、万物の霊長たる人間の魂が開花するのは当然の事。
 
 
 
瞑想とは、魂の開花をサポートする必要不可欠なツールだ。
 
それは、漢方薬よりも即効性はないかも知れない。
 
しかし効果は絶大。
 
一度花咲けば、植物と違い枯れる事がない。
 
  永遠の花だから、多少時間がかかるのもやむを得まい。
 

しくじり先生

2015年4月17日(金) by キヨタカ

例のテレビ番組(しくじり先生 俺みたいになるな!)を見て、気づいた事がある。
 
『失敗談は、成功談より何倍も面白い!』Main
 
「しくじり先生」は人前に出て失敗談を語るわけだから、失敗のトラウマから見事に立ち直っている。
 
だから ユーモアたっぷり、客観的にしくじり体験を語る事が出来る。
 
失敗体験は本人だけでなく、聞いている人にも大いに役立つ!
 
 
私なんか数々の失敗を体験してきたから、「しくじり先生」としての充分な資格があるだろう。
 
よくよく考えてみると、瞑想リトリートやスカイプセッション等で語る事は、多くの場合しくじった体験がベースになっている。
 
だから、既に「瞑想しくじり先生」として活動しているのかも知れない。
 
 
失敗は、誰だって避けたい。
 
しかし不思議な事に、失敗を避けようと思えば思うほど、失敗する機会は増大する。
 
舞台なんかに立つ時、「あがるまい」と思えば思うほど、あがってしまう体験は誰もが経験しているだろう。
 
避けようとすればするほど特別に意識するから、「引き寄せの法則」が働いてしまうのだ(ρ_;)
 
「失敗する可能性のあるものは失敗する」とは、マーフィーの法則。
 
だから、失敗は避けようとしない方が賢明だ。
 
 
瞑想は、人類の潜在的可能性を花開かせる非常に重要なツールだ。
 
瞑想を通して、愛や喜び、創造性など様々な能力の扉が開かれる。
 
しかし扉が開かれるタイミングは、人により実に様々。
 
瞑想して直ぐに扉が開く人がいる一方で、何十年瞑想しても思考や感情の奴隷のまま、相変わらずもがき続けている人もいる。
 
 
以前は、OSHOやフーマンのように若くして悟った人が優れているマスターだと信じて疑わなかった。
 
しかし今は違う。
 
瞑想の天才は、天才であるが故に、なかなか凡人の苦悩を理解出来ない。
 
我々瞑想の凡人は、同類だから凡人の苦悩を心底理解出来る。
 
瞑想しても可能性の扉がさっぱり開かず、苦悩し続けている方こそが、「瞑想しくじり先生」として、やがて大活躍するのではあるまいか?
 

失敗から学ぶ

2015年4月16日(木)  by キヨタカ

昨晩、修善寺へ戻った。
 
途中で喫茶店に寄り、夕食を食べる。
 
ヨガビが食べるのが遅いので(・・・私が多分早すぎ)、時間を持て余してiPadで動画を見ていたら・・・
 
その様子が、修善寺*裏*日誌にアップされてしまった(ρ_;)
 
 
> さっさと食べ終えて、なにやらiPad で観ているキヨタカ。 
 
いったい何を見ていたかと言うと・・・
 
適当にググっていたら、
 
『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日)、 をヒット。
 
毎回『しくじり』体験を持つ有名人が、「先生」として教壇に立ち、失敗談とその教訓を面白おかしく語る番組だった。
 
 
あまりにも面白かったので、家に到着してからも・・・
 
杉村大蔵、ダイアモンド⭐︎ユカイ、さとう珠緒、オリエンタル・ラジオと立て続けに見続けてしまい、寝るのが遅くなった。
 
 
「人は成功よりも、失敗した方がより深く学び成長するのかも知れない」
 
と、つくづく感心した。
 
人生がず〜っと順風満帆で一度も失敗しなかったら、後から振り返ると、つまらない人生だと後悔するだろう。
 
人生は、この先どうなるか予想不可能だからこそ面白い。
 
予想出来なければ、危険もあるし失敗はつきもの。
 
失敗しても、そこから学び成長できるのだから、危険ではあっても冒険に満ちた人生を歩みたいものだ。

忘れる力

2015年4月15日(水) by キヨタカ

 日誌を書くのは楽しい。
 
しかし、いざ書き始めると・・・
 
「あれ?、これ既に書いたよな〜」と思う事が度々ある。
 
気になって調べて見ると、数ヶ月前、時には数年前に同じ様な内容を書いている事が判明。
 
そういう場合、途中までの書きかけをデリートして、別の新しいテーマを見つけるようにしていた。
 
今迄は・・・
 
 
先日、某雑誌で人気時代小説家の佐伯泰英氏のエッセーを読んで、とんでもない間違いをしていた事に気づいた。
 
佐伯氏は多作作家として有名で、15年間に200冊の文庫本を書き下ろしている。
 
20日に一冊のハイペースであるw(゚o゚)w
 
しかも57歳からスタート・・・というから恐れ入る。
 
 
「多作のコツは?」
 
と問われると、
 
「書いた作品の内容をかたっぱしから忘れる事です」
 
と答えるそうだ。
 
60代までは、意識的に忘れる事に勤めていたそうだ。
 
今では、そんな努力は不要らしい。
 
最近は「書きながら忘れている」、とか!
 
「それは決して老いではない。73歳にして『忘れる力』が備わったということです。」
 
という言葉が、半世紀以上生きている私には嬉しいメッセージ🎵
 
 
子供の頃は、忘れると学校の先生から叱られたものだ。1313981214031293
 
「 バカ者が! 3歩歩くとすぐに忘れるニワトリと同じだナ!!」
 
だから、忘れる事はニワトリの仲間になるみたいで怖かった。
 
 
しかしよくよく考察してみると、『忘れる力』というのは、「幸せな人生の王道」だ。
 
過去の恨みも、失敗も、後悔も、全てそんなもの忘れてしまえれば、今日から再スタート出来る。
 
年齢だって、忘れるのが一番。
 
そうすれば 、青春時代をいつまでも謳歌出来る!
 
 
だから日誌も、今まで書いた事なんか、全て忘れてしまおう!
 
毎日毎日、日々新たに、新鮮な気持ちで書きたい事を初めて書くのだ。
 
 
そうは言っても、唯一の気がかりは、同じ内容を読まされる読者の方。
 
でも読者だって、以前読んだ日誌の事は忘れているに違いないから、問題はあるまい。
 
 
「あれ?キヨタカのやつ、先日と同じ事を書いている\(*`∧´)/」
 
という方は、まだまだ『忘却力』の修行が足らない、という事にしよう。
 
 
あたかも、今日初めて修善寺日誌を読むつもりで、フレッシュな気持ちで読んで下さいネ。
 
『忘れる力』が高まれば、「幸せな人生の王道」を歩くのは間違いナシ(* ̄0 ̄)ノ

自己評価を高める〜スカイプセンションより〜

2015年4月14日(火) by キヨタカ

 『私が在る(I AM)』
 
あまりにも当たり前で、自明の理だ。
 
中には「私はいない」と主張する覚者もいるが、「私なぞいない」と言っている人がしっかりと存在しているではないか!
 
 
人は誰もが、『私が在る(I AM)』という意識をもって生まれた。
 
「あなた」は、『私が在る(I AM)』という意識そのものだった。
 
残念ながら、あなたという意識の鏡に映るものは、全て外側の世界だけ。
 
鏡は外側の全てを写し出すが、鏡そのものは写せないのと同じ理屈だ。
 
だから、この世に生を受けてしばらく経つと、 『私が在る(I AM)』という意識そのものをすっかり忘れてしまう。
 
 
正しい瞑想を行うと、外側に向かう意識のベクトルが、逆転する。
 
そして、『私が在る(I AM)』という意識そのものを再発見する。
 
人によっては、それを発見した喜びや嬉しさは、狂喜乱舞するほどのものとなる。
 
私の場合、狂喜乱舞し過ぎて、日常生活に支障をきたす程だった。
 
 
しかし、人によっては、
 
「え? 何これ、これが本当の私/(゚Д゚)ハァ?」と当惑する場合もある。
 
これがそれだと明確に指摘されても、ピンと来ないのだ。
 
 
白隠禅師は、「長者の家の子となりて、貧裡に迷うに異ならず」と坐禅和讃に詠っている。
 
大金入りの財布を拾ったので、持ち主に返却すると仮定しよう。11k
 
持ち主がお金持ちなら、「ああ〜良かったヽ(´▽`)/有難う!」と喜んで受け取る。
 
しかし長者の家の子供でも、家出して貧乏暮らしがあまりにも長くなると、自分が金持ちである事をすっかり忘れてしまう。
 
だから、財布を渡されても、当惑する。
 
「え?、そんな大金入りの財布、私のものであるはずない(`ε´)」
 
と、中味を確認せずに受け取りを拒否してしまう。
 
 
だからそういう方は、自己評価を高める必要がある。
 
『自分はそれを受け取るに価する』と、自信を持たなければならない。
 
 
スカイプの連続セッションを受けておられるMさんも、受け取りを拒否するタイプだった。
 
様々なテクニックを駆使して、プレゼンスを明確に指摘しても、
 
>自分なりに行っていた時に感じていた同じ「私」という感覚しか感じない

・・・本当にこれで良いのでしょうか?
 
と、狂喜乱舞とは程遠い感じだった。
 
 
そこで、下記のメールを送ったところ、
 
>お答えいただきありがとうございました。
 
>今の私の状況がはっきりわかりました。そして、スタートラインからずれてないこと 
 
>も感じることができ、実習も心置きなくおこなえます。
 
>ありがとうございました。
 
との嬉しい返事を頂いた。
 
 
せっかくなので、Mさんへのメールを一部公開します。
 
* * * Mさんへのメール * * *
 
・・・
 
プレゼンスとは、『気づきの主体』であり「私」という感覚の事です。
 
・・・
 
既にセッションで説明したように、どんな異なるテクニックを使っても、同じものへ導かれます。
 
Mさんの場合、既に直感的にそれを体験しています。
 
ただ、それに対する自信がないのだと思います。
 
最初は微妙なので、「本当にこれでいいのだろうか?」と疑問に思ったり不安を感じたりします。
 
でも、不安や疑問は脇に置いて、プレゼンスを思い起こし続ける練習を続けて下さい。
 
思い起こし続けていると、やがてプレゼンスのエネルギーが高まり、疑問の余地がなくなる時がやってきます。
 
 
「正しいか 間違っているか」というのは、マインドです。
 
プレゼンスはその背後にいつでもあります。
 
「正しいとか間違っている」以前に「既に存在している気づきという意識そのもの」のことです。
 
あまりにも当たり前のものなので、マインドは抵抗して疑問を感じてしまうのです。
 
 
プレゼンスに留まる事が出来るようになると、自分に対する存在感が増してきます。
 
マインドが惹きつけられる過去や未来ではなく、「今ここ」というリアリティーが明確になります。
 
頭もクリヤーになり、中心軸が定まります。
 
そうすれば、例えマインドが激しく動いたり不安や疑問を感じても、やがてそれとは切り離された背後の気づきに止まれるようになるでしょう。
 
キヨタカ
リーラスペース

楽しむ事

2015年4月13日(月) by キヨタカ

 ウィンドサーフィンの大会で、景品が当たりボードをゲットしたのは40日前。
 
久しぶりに、大会主催者のホームページを開いたら、大会の写真が多数アップされていて、その中に私の勇姿(?)も何枚かあった。
 
最年少・世界チャンピオンのフィリップ・コスター(20歳)からボードをプレゼントされた時の写真がコレ。
 
Photo_2前日、フィリップを囲んだパーティで質疑応答の時間があった。
 
子供が:「僕も将来チャンピョンを目指したいけど、どうしたらなれるの?」
 
 
という質問に対して
 
フィリップ:「楽しむ事だよ!」
 
と笑顔で答る姿が爽やかで、とても印象深かった。
 
 
風がなくて、初日はサップ(パドル付きサーフィン)の大会になってしまったが、その時の様子もあった。
Photo_3
 
 
なんだか久しぶりの運動会みたいだったが、年齢を完全に忘れて奮闘。
 
チーム対抗レースとなったが、チームの一人はまだあどけない中学生の可愛い女の子。
  (しかしウィンドサーフィンは私よりずっと上手)
 
私が遅れたせいで、チームは惨敗(ノ_-。)
 
 
後で彼女に、「私のせいでゴメンね〜」と謝ったところ・・・
Photo_6  
それが、彼女にはとても不思議だった様子。
 
「え!?、でも天野さん楽しかったでしょ? それが一番よ!」
 
と、明るい笑顔で答えてくれた。
 
 
私が育った昭和の世代は、ど根性時代。
 
頑張って競争して、勝つことが当たり前に賞賛された。
 
中学生時代はサッカー部に属していたが、
 
「負けたけど楽しめました」
 
などというコメントは思いもよらなかった。
 
 
勝ち負けの結果だけにこだわる人生は、惨めだ。
 
人生を楽しむ姿勢は、魂の目覚めへとやがて導かれる。
 
ただ在る事の喜び、それが魂だから・・・
 
新しい時代の価値観が、既に育っているのを知りとても嬉しい。

当たり前の真実

2015年4月11日(土) by キヨタカ

昨晩、「覚者を求めて」の読者から、電話を頂いた。Book20130525
 
聞けばご本人も長年瞑想に取り組んでおられる事もあり、話が弾んだ。
 
話が進む中で、
 
「いきなり天野先生ご自身が電話に出られてびっくり。
 
お取り次ぎのような方が出られるかと思っていた。」
 
と話されたので、私の方がびっくり。
 
 
リーラスペースは宗教団体ではないし、私は先生として教えてはいない。
 
だから、秘書もお取り次ぎもいない。
 
問い合わせが殺到するには程遠いから、その必要がない・・・
 
と言う現状もあるけど(^-^;
 
 
万一有名になり人々が殺到しても、秘書もお取り次ぎもいないままだろう。
 
もちろん、弟子や信奉者もいない。
 
そもそも内的な真実を、先生として弟子や信奉者に分かち合うというシステム自体が、 
新しい時代には合わないのではないか?
 
私はそうした世界に長年深く関わってきたので、殊更にその功罪には敏感だ。
 
もちろん、ブッダやキリストを始めとする覚者方が偉大で尊敬に価する事は言うまでも無い。
 
しかしいくら偉大だからといって、必要以上に崇める必要があるだろうか?
 
 
電話された方は、さる有名な覚者のお弟子さんとして長年真剣に瞑想に取り組んでおられるようだった。
 
しかし、未だ自己のI AMに関する確信がない様に感じた。
 
自己のI AMに完全に根付く為に、ある時期が来たら外側の師を手放す必要がある。
 
そうでないと、外側の覚者を崇めれば崇めるほど、自己に内在する仏性やキリスト意識を何か手に届かない遥か彼方のもとして遠ざけてしまう危険性がある。
 
 
ブッダやキリストと同じ光が、自己の内側に宿っている。
 
それが、I AMの光だ。
 
それは、ちょうど「空気や水」のように当たり前に存在している。
 
いや、もっと当たり前に、ちょうど「重力」みたいにあまりにも当たり前だから、見過ごしてしまう。
 
だから、 それを認識するのが少しだけ難しい。
 
その当たり前の真実をただシンプルに、同じ立場の友人として分かち合っていきたい。

思川桜

2015年4月10日(金) by キヨタカ

 昨晩から、実家の栃木県小山市に滞在中。
 
いつも通り母を施設に迎えに行ったのだが、車に乗るなり・・・
 
「あんたは字が下手だから、パソコンに頼らず手書きの練習をした方がいい!」
 
とか、
 
「もっと身だしなみをよくしなさい!」
 
とか、
 
「施設の職員への挨拶をもっと丁寧にしなさい!」
 
とか、他にも
 
「ああしなさい!」、「こうしなさい!」 とか、とか、とか・・・
 
 
昨日の日誌で、
 
>どうせ拝むなら神社に祀られた人畜無害の神様よりも、個々人に宿る生き神様を分け隔てなく拝めるようになりたいもので・・・
 
と書いたのだが・・・
 
やはり、生き神様を拝むのは非常に難しい(ρ_;)
 
特に自分の親を生きている内に拝めるかどうか、自信を喪失しかけた。
 
 
昔の人々は、瞑想修行に専念するために、出家した。
 
しかし私にとっては、こうして毎月実家に戻り親の小言を聞く事の方が、本当の修行になっている。
 
実家に戻ると、自分を小さな枠に閉じ込めていた数々の条件ずけが思い出される。
 
会社を辞めて海外へ飛び出したのは、こうした条件付けを振り解く為でであり、当時は絶大な効果があった。
 
今は、それとは真逆の状況が起こっている。
 
こうして定期的に実家に戻り、かつて私を苦しめていた条件ずけの数々ともう一度意識的に直面する事が、大切なワークとなっているのだ。
 
 
 
親の小言で失った自信を取り戻す為(?)、 思川の桜を見に出かけた。
 
思川は、小山市を流れる一級河川。Img_1751
 
思川桜は、私が生まれた昭和29年に小山市で発見された桜の新種で、ポピュラーな染井吉野より、少し遅れて咲く。
 
ピンク色が鮮やかで、半八重咲の可愛い花が、今ちょうど満開。
 
見事な思川桜の美しさに囲まれて、気分もスッキリ!
 
桜の花に助けられ、実家での一週間の修行を、今回もなんとか無事に終える事が出来そう。

神様

2015年4月9日(木) by キヨタカ

 昨日の日誌を読んだヨガビが・・・
 
ヨガビ:「御前崎なら、私もあのあたりの神社に行った事あるよ!」
 
キヨ:「へ〜、何という神社?」Img_1700
 
ヨガ:「名前忘れたけど、池なんとか・・・?瀬織津姫神を祀っていた。」
 
キヨ:「え〜! 桜ヶ池には神社があったよ w(゚o゚)w」
 
Img_1701
 
実はヨガビが訪れた池宮神社こそが、この場所だった事が判明!
 
何たる偶然の一致\(;゚∇゚)/
 
ヨガビによると、知る人ぞ知るパワースポットだとか。
 
4年くらい前に瀬織津姫に関心を持ち、お参りに行ったそうだ。
 
 
御祭神の瀬織津姫(せおりつひめ)は、古事記や日本書記にはない不思議な神様。
 
瀧の神、河の神としても知られているから、桜ヶ池の龍神伝説に相応しい。
 
神道に造詣の深い某氏によると、古代に封印された神様で、最近復活とかヽ(´▽`)/
 
 
フーマンの影響もあって、一時期は神社や日本の神様にとても強い関心を持った事があるが、最近はご無沙汰している。
 
神様を信奉している方々には叱られるだろうが・・・
 
自分自身の中に最高の神が鎮座しているのだから、わざわざ他所の神様へお参りに行く必要もあるまい。
 
外側の神様を祭り上げる事で、逆に内なる神を封印する事にもなりかねない。
 
どうせ拝むなら神社に祀られた人畜無害の神様よりも、個々人に宿る生き神様を分け隔てなく拝めるようになりたいもので・・・
 
 
オッ〜と、これ以上余計な事は 言わぬが花。
 
口は封印して、内なる神の封印を解き放つ事に専念しよう。

龍神伝説

2015年4月8日(水) by キヨタカ

 今日も朝から雨。Photo_3

右の写真は、先日御前崎の帰り道に立ち寄った『桜が池』

とても美しい場所で、桜も美しかった。 

しかし 連日の雨と風で、ほとんど散ってしまっただろう(;ω;)

 

この池には、ある『龍神伝説』が残されている。

Photo_4 平安末期、比叡山の名僧:皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)にまつわるストーリー。

伝説によれば、阿闍梨は悟りを開いて世の中を救済しようと難行苦行を重ねた。

しかしとうとう悟れなかった。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

 

「かくなる上は、弥勒菩薩に直接教えを請うしか方法がない!」

しかし、弥勒菩薩が到来するのは56億7千万年後。

そこで、この池に身を投じて龍神に姿を変えてしまった。

それからず〜っと 、弥勒菩薩の到来を待っているとの事である。

 

皇円阿闍梨は、日本三大史書のひとつ「扶桑略記」を選しており、非常に才能豊か。

浄土宗の開祖、法然の師としても知られている。

しかも、龍神入定したのが96歳という。

末法思想が蔓延した当時の世相では、皇円阿闍梨のような優れた人物でも・・・

『悟りとははるか先の未来にあるもの』

  と信じて疑わなかったようだ。

 

しかし最新宇宙論によると、約28億年後には太陽が白色矮星として膨張を始め、地球は灼熱地獄となってしまう。

だからようやく弥勒菩薩が到来しても、救われるべき生物は完全に絶滅。

不老不死の龍神でさえ、とっくの昔に蒸発してしまうだろう。

自分がお釈迦様やキリストなど、自分自身でないものになるのは到底不可能。

難行苦行を56億7千万年続けても、絶対無理な話だ。

 

しかし・・・

「自分が自分自身で在る」ことは、今すぐにでも可能だ。

他人の人生を真似するのをやめて、自分自身として生きる。

そうすれば、「自分で在る事の喜び」が湧き上がる。

そしてその喜びに目覚めた人々が、現代には大勢現れつつある。

 

「平安時代ではなく、今の時代に生まれてよかった」

としみじみ思う。

同時に、難行苦行ではない道を歩めるのは、それが無理な事を先達が実証してくれたからこそ。

そう思うと、皇円阿闍梨の献身的努力に感謝の気持ちが湧く。

そうなんだね

2015年4月7日(火) by キヨタカ

 瞑想関連の世界に長年関わっていると、病的に『ネガティブ』な人々に多く出会う。
 
「自分は何をやってもダメだ」
 
「自分が嫌いだ」
 
「生き続ける事自体が苦しみだ」
 
・・・etc.
 
 
私自身、以前はそうした『ネガティブ』な傾向に苦しんだ。
 
長年に渡るセラピーや瞑想のおかげで、ようやくそこから脱出できた。
 
だから、そうしたネガティブな人々に会うと、なんとかその泥沼から這い出すお手伝いをしたいと思う。
 
 
その為には、『自己の存在』に目覚めるのが王道である事は言うまでもない。
 
「私はネガティブ」👉 「〜にも関わらず私が在る」と、意識のベクトルを逆転させるのだ。
 
もっとも言葉で言うのは簡単だが、正しい時節が到来しないと、なかなかそれは起こらない。
 
 
しかし、「病的ネガティブ」から抜け出し健康な人間生活を送る方法は他にもいろいろとある。
 
「ネガティブな面はそのままにして、ポジティブな面に意識を向ける」
 
というのもその一つ。
 
少なくとも私の場合、かなりの効果があった。
 
 
そこで病的にネガティブな人から悩みを相談されると・・・
 
「あなたにはこんなに素敵なところがある!」
 
と、つい相手のポジティブな面を伝えてしまうのだが・・・・
 
骨の髄までネガティブな人にとっては、どうも逆効果らしい。
 
 
逆に「バカにするな\(*`∧´)/」と叱られたり、
 
「やっぱり私ってダメ゚゚(´O`)°゚と落ち込ませたり・・・
 
散々な目に会う事が多かった。
 
 
だから最近は、『相手も私も、あるがままでO.K』という態度を貫くようにしている。
 
ネガティブな人にとっては、ポジティブよりネガティブな事の方がよりリアリティを感じる。
 
1427805
  ポジティブな事はどんなに伝えても、軽薄な「絵に描いた餅」のようにしか受け取ってくれないのだ。
 
 
 
 
全て存在するものには理由がある。
 
だから、 ネガティブなものもそのまま認める事が、ベストのようだ。
 
「自分は何をやってもダメだ」
 
👉そうなんだね、だめなんだね。
 
「自分が嫌いだ」
 
👉 そうなんだね、嫌いなんだね。
 
「生き続ける事自体が苦しみだ」
 
👉そうなんだね、生きるのが苦しいんだね。
 
 
エネルギーは本質的に流動的であるから、その存在をブロックしなければ良い。
 
いったんネガティブな存在をそのまま認めてあげると、そのエネルギーはそこには止まれなくなり、流れ出さざるを得ない。
 
 
ネガティブな方は、ぜひトライして欲しい。
 
「そんなやり方じゃ、私のネガティブは治らない(`ε´)」
 
と思う方もいるだろうけど・・・
 
👉そうなんだね、あなたの場合は治らないんだね。

消しゴムも進化する

2015年4月5日(日) by キヨタカ

青春時代の真ん中は〜、道に迷っているばかり〜♪

最近は、草食系とか宇宙人系の若者が多いので、断定できないが・・・
 
少なくとも私の青春時代は、苦しかった。
 
 
青春時代は、思考や感情の嵐や大波に翻弄される。
 
様々な不安や葛藤、苛立ち、既成社会に対する反抗等々、それに加えて肉体的な成熟に伴う性的妄想の嵐・・・
 
ゲーテは、この時代を『疾風怒濤の時代』と呼んだそうだ。
 
 
そんな中にあって、禅の尼さんから『無の消しゴム』の技法を教わった私は、心底感激した。
 
『疾風怒濤』の荒海を乗り切る、「大船」を手にしたからである。
 
釈迦や達磨を始めとする祖師方は、皆この船に乗って彼岸に渡り、融通無碍の境地を遊んでいるという。
 
だから喜び勇んで、座禅修行に邁進した。
 
 
ところが、結果は散々。
 
それはちょうど ウィンドサーフィン初心者が、御前崎の荒海へ乗りだそうとしたようなもの・・・
 
まだ 乗る前に、轟沈してしまった。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
 
 
なぜ轟沈してしまのか、誰も教えてくれず非常に孤独だった。
 
その孤独を救ってくれたのが、インドの神秘家OSHOだった。
 
シンプルな時代だった釈迦や達磨ならともかく、複雑に発達した現代人のマインドはそう簡単には消えないと、OSHOは語る。
 
抑圧されたマインドが、潜在意識の奥底に堆積しているからである。
 
潜在意識の浄化の重要性を教えてくれたOSHOには、心から感謝している。
 
OSHOに心服した私は、OSHOの下に馳せ参じた。
 
そしてOSHOコミューンという理想的な安全な環境で、○×セラピーやら△□ヒーリングを、探求し尽くすことが出来た。
 
 
しかし、新たな問題が発生。
 
「セラピーをいつまでやり続けるか?」という事だ。
 
OSHOは、「セラピーは瞑想の土壌を整えるものであり、数日のセラピーが必要」と明言している。
 
しかし実態は、延々と潜在意識の浄化に取り組み続ける人が多い。
 
そして、肝心の瞑想をおろそかにしてしまう。
 
瞑想的に人生を送ろうとしても、疾風怒濤の人生の荒波に巻き込まれてしまうから、浄化のワークをやり続ける人々の気持ちはよくわかる。
 
かくいう私の場合、28歳〜45歳まで、実に17年間を「潜在意識の浄化」に 費やしてしまった。
 
 
アジズと出会って初めて、「気づきの主体」に目覚める事の重要性に目覚めた。
 
それまでは、浄化すべき思考や感情にフォーカスがあった。
 
『無の消しゴム』で消したい対象物の方に関心が向い、肝心の『消しゴム自体』に意識が向かなかったのである。
 
意識のベクトルを、対象物から意識そのものへ逆転(→ ・ ←)させる必要がある。
 
この事は、いくら私が語っても、本当に納得する人は実は非常に少ない。
 
例え気づきの主体が目覚めても、相変わらず対象物の方に関心を持ち続ける。
 
そして、対象物に相変わらず翻弄され続ける。
 
だから『気づきの主体』が目覚めても大したことない、と反論する。
 
しかし、やがて正しいタイミングが訪れると、それがそうだと確信するだろう。
 
 
フーマンと出会って以降は、さらに『消しゴム』が進化した。
 
消しゴム自体に光が注がれ、『光るゴム』へと変容し始めたのである。
 
 
潜在意識に蓄積された、思考や感情のトラウマは、消されるべき対象ではない。
 
それは、光を失い暗闇を彷徨う幼子のようなもの。
 
『消しゴム』で、北風の様に消し飛ばしてはいけない。
 
さらに潜在意識の奥深くへ、隠れてしまう。
 
 
『光るゴム』として、太陽のように光を注ぎ、暖かく包み込む事が大切だ。
 
そうすれば、幼子は再び光を手にする。
 
そして本来の元気を取り戻し、それ自身が光り輝くようになる。
 
 
味方が敵に寝返ると、大問題だが・・・
 
潜在意識に蓄積されたエネルギーが輝き始めると、憎むべき強敵が頼もしい味方に大変身する。
 
そうすれば、自分が自分である事の喜びは、計り知れないものとなる。
 
『消しゴム』から『光のゴム』へ・・・
 
そしてあなた自身が光そのものとして燦燦と輝きますように!

無の消しゴム

2015年4月4日(土) by キヨタカ
 
最近、Yさんの投稿が絶好調ヽ(´▽`)/
 
これも、リトリートの成果だろうか?
 
”I AMは  ボケていようが 今に在り      

     全てはいつも    It’s alright !”
 
確かに、ボケと悟りは、どこか共通点があると昔から感じている。
 
唯一の違いは、”気づきに気づく”かどうかだ。
 
 
韓流ドラマ全盛期に、『私の頭の中の消しゴム』という映画が話題となった。Unknown
 
私はまだ見ていないのだが、“若年性アルツハイマー”というテーマをめぐる不朽の愛の名作だと言う。
 
実は、『頭の中の消しゴム』とは、私が一番長期に渡って続けている瞑想テクニックそのもので、とても印象深い。
 
今まで黙っていたが、Yさんの投稿に敬意を表して、初公開。
 
 
あれはまだ紅顔の美少年の面影がある、学生の頃だった。
 
松庵さんという禅の尼さんに出会い、本格的な禅の瞑想を学んだ。
 
「坐禅とは無になること。
 
吐く息とともに、 ひと呼吸、ひと呼吸を、無〜、無〜と、吐いてご覧なさい。
 
呼吸を『無の消しゴム』と思い、雑多な思考を、ム〜、ム〜と消すのです。」
 
このサジェスチョンは、非常に深いところに響くものがあった。
 
そこで勝手に、『無の消しゴム』と名付けた。
 
 
もっとも、 呼吸と共にム〜ム〜 とやっても、そう簡単に思考や感情が消えるものではない。
 
漢方薬より効き目ははるかに遅い。
 
しかし効果は確実だ。
 
Cleaning_a27 イメージとしては、消しゴムよりも黒板消しの方がピンと来る。
(最近は、絶滅してしまったようだが・・・)
 
 
あれから40年近く経過して・・・
 
最近ようやく、『無の消しゴム』で、無用な思考や感情が消えるようになった。
 
しかし、「瞑想ではなく、単にボケたため”今に在る”ようになったのかも?」
 
と心配することもあったのだが・・・
 
 
Yさんの投稿に救われた。
 
『無の消しゴム』であろうが、『ボケ』であろうが、”今に在る”のが先決。
 
そうすれば・・・
 
 ”全てはいつも    It’s alright !”

思い込み

2015年4月3日(金) by キヨタカ

 名古屋からの帰り道、菊川で一泊。
Photo_3
 
翌日は天気が良いので、帰路に久能山東照宮へ立ち寄る。
 
桜が満開で、最高だった。
 
 
この東照宮は、晩年を静岡で過ごした家康公が最初に祀られた神社として有名。
 
私は栃木県出身だから、東照宮と言えば日光という『思い込み』があった。
 
しかし久能山の他に、全国各地に130社あるという。
 
静岡に住んで、初めて知った事実だ。Img_1664
 
 
久能山までロープウェイで渡る事は知っていたので、カーナビを頼りに山麓へ到着。
 
ところがいくら探しても、ロープウェイの乗り場がない。
 
地元の人に聞いて初めて、山の頂上が乗り場であることを知った。
 
ロープウェイは、山の下から上へ登るものとすっかり思い込んでいた。
 
しかし久能山では、 山の頂上(日本平)から神社へ下るのが正解だった。
 
 
『 思い込み』ついでに・・・
 
Photo_4
霊廟にあった 徳川家康公の遺訓も、その思い込みの代表かも知れない。
 
人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず・・・
 
実はこれ、家康の言葉ではなく、旧幕臣/池田松之助が創作したそうだ。
 
さらに、この遺訓そのものが思い込みの最たるものだろう。
 
 
確かに自分の行動規範を外側に求め、「〜すべき」をモットーにすると、人生は重い。
 
そこに、子供時代からの様々な条件ずけやカルマを背負うと、重き荷を背負った艱難辛苦(かんなんしんく)の人生を歩む事になる。
 
しかし21世紀を生きる我々は、こうした思い込みから解放される必要がある。
 
人の一生は重き荷を手放し、覚醒の翼を広げ永遠の空へ飛翔するが如し
 
光陰矢の如し、急ぐに如かず!
 
 
頂上の日本平は、太平洋が一望に見渡せる最高のロケーション。
 
そこに、『恋人の聖地/絆の鍵』のモニュメントがあった。Photo_5
 
恋人達は、隣の売店で鍵を購入して隣の柵に鍵を掛けるのだとか。
 
『お互いに鍵を掛ける事で永遠の愛が成就する』
 
というのも、世界中で信じられている代表的な思い込みの一つ。
 
 
鍵に象徴される束縛は、本当の愛ではない。
 
人は、自らのエネルギーに依り立ち自由になって初めて、相手の自由を認める事が出来る。
 
『思い込み』という鍵を一つ一つ解放していくことが、我々の大きなテーマだ。

ブレないと言う事〜奇跡の一枚〜

2015年4月2日(木) by キヨタカ

 現在、名古屋からの帰途中。
 
帰りが遅くなったので、菊川の某ホテルに一泊。
Img_20150331_150128_3
 
ビジネスホテルだけに、wifi完備。
 
ヨガビのお父さんが撮った『家山桜とSL』奇跡の一枚をアップ出来た。
 
 
なぜ奇跡かと言うと・・・
 
ご高齢のため、手が震えがち。
 
老人性震戦(しんせん)と言うそうだが、 今までは携帯で写真が上手く撮れなかった。
 
ところが今回買った高齢者向けスマホは、『手ぶれ機能』がしっかりしている。
 
だから 、奇跡的に上手に撮れたと言うわけ。
 
 
写真をアップしながら、『気づきの主体は動かない』という、瞑想の基本原理を思い起こした。
 
通常、私たちは気づきの対象物に意識のベクトルが向いている。
 
外側の出来事はもちろん、思考や感情も、気づきにとっては対象物だ。
 
それは、絶えず変化・変動し続けている。
 
思考や感情が自分だと思い込む事は、ちょうど手ぶれの状態で写真を撮るようなもの。
 
本当は自分がブレているのだが、被写体がブレているように見える。
 
すると、ブレた被写体に翻弄される人生に陥る。
 
 
『気づきの主体』が明確になれば、自分がブレないから、自ずと被写体もブレない。
 
そうすれば・・・

Imgp3457_2

あるものをあるがままに受け止めて、虚心坦懐(きょしんたんかい)に人生を歩む事が出来る。
 
『明鏡止水』、静かに波立たない鏡の様な湖面の如く、澄み切って落ち着いた人生を送りたいものである。

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