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真実は両方

2015年8月17日(木) by キヨタカ

 昨晩は、Tさんとスカイプセッション。
 
Tさんは非常に熱心な瞑想家で、伝統的な坐禅スタイルの瞑想技法を徹底的に追及されている。
 
真理探究に深い関心があり、南インドの聖人ラマナ・マハルシにも関心をもっていたいのだが・・・
 
何と先ごろ、南インドのラマナのアシュラムがあるアルナチャラをわざわざ訪問したと言う。
 
そこには、世界各国から巡礼者が集まっていて、思い思いのスタイルで瞑想している。
 
ところが、そこで目にした瞑想者達の様子に、Tさんは大きなショックを受けたそうだ。
 
坐禅スタイルで、シャキっと背筋を伸ばして瞑想している人が殆どいない。
 
姿勢を崩したり、ダランとした感じで瞑想している人が多く、中には横になっている人もいたとか・・・。
 
今までの、瞑想修行とは随分様子が違う。
 
「今までの自分の瞑想技法は間違っているのではないか?」
 
と思い始めたそうだ。
 
 
別にTさんの瞑想技法が間違っているわけではない。
 
しかし、一口に瞑想と言っても、それぞれの伝統により強調される部分は異なる。
 
所変われば品変わる。
 
国によっても、瞑想のスタイルはかなり違う。
 
日本では、禅に代表される様に、『プレゼンスの目覚め』が強調される傾向がある。
 
だから、『瞑想』=『修行』がほぼ常識になっている。
 
ところがインドへ行くと、プレゼンスよりもビーイングへ明け渡す事の方が強調される傾向がある。
 
 
究極の明け渡しは、死だ。
 
ラマナは、16歳の時に死の疑似体験をして真我に目覚めた。
 
真実を求め、修行によって悟ったわけではない。
 
だから、ラマナ信奉者には「修行は必要ない」 とか「修行が悟りの邪魔になる」とか言う人が多いのも頷ける。
 
 
プレゼンスの目覚めは、通常は大いなる努力が必要であり、修行が不可欠。
 
男性エネルギーが要求される。
 
一方、ビーイングへの明け渡しは、女性エネルギーそのもの。
 
だから、修行や努力を手放して、初めてそれが起こる。
 
 
「瞑想とは修行か明け渡しか?」
 
マインドは、2元対立的にしか考えられない。
 
しかし、真実はその両方だ。
 
プレゼンスとビーイング、それが矛盾なく両立して統合された時に、本当の瞑想状態が起こる。

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コメント

拝啓、、、、。

       一句

             ”吸う息も

                          吐く息もまた

                                           息は息”

                      Yょㇼ

                                                  敬白

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