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2015年11月

ムカデの歩き方

2015年11月16日(月) by キヨタカ

 
『気づくこと』と『寛ぐこと』は、瞑想の2大要素。
 
やがて両者は統合して、『偏在する気づき』となる。
 
その状態に到達するために、様々なテクニックが古今東西用いられてきた。
 
しかし既にその状態にあれば、ことさらテクニックは不要だ。
 
 
ムカデを題材にしたジョークがある。
 
ムカデは漢字で百足と書くが、100本近い足を器用に使って整然と歩む。
 
ある時ムカデに、歩き方のコツを尋ねた。
 
「100本の足があるのに、どうやって器用に歩けるの?コツを教えて!」
 
今まで自然に歩いていたムカデは、改めて自分の歩き方を観察し始めて・・・
 
「え〜と、え〜と、まず左の一番目の足を出して、次に2番目の左・・・いや右だったか?」
 
と考え始めた途端に・・・
 
コケでしまったとか、、(ρ_;)
 
 
おかげさまで、瞑想スカイプセッションは好評を頂いている。
 
特に6連続セッションを申し込まれた方には、状況に応じでその方に役立つと思われる瞑想テクニックを色々とお伝えしている。
 
昨日は、Tさんに「頭頂留意」というプレゼンスをパワフルに思い起こすテクニックをお伝えした所・・・
 
今日はなぜだか緊張してしまいました・・・
 
という正直なメールを頂いた。
 
 
 
知的側面から瞑想を理解するというのも、大切だ。
 
しかし特に女性の場合、知的理解やテクニックが瞑想の邪魔になってしまう場合がある。
 
Tさんの場合、既に自然な『偏在する気づき』を体験している。
 
にもかかわらず余計なテクニックをしたせいで、緊張を創り出してしまったようだ。
 
 
瞑想テクニックは、それがパワフルであるほど、合う人と合わない人がいる。
 
そして実際にやってみないと、合うかどうかわからないところがある。
 
Tさんの場合、「頭頂留意」のテクニックはシンプルに合わなかったにすぎない。
 
だから、決して自分の瞑想はまだまだと思わない欲しい。
 
不要なテクニックの事は、忘れましょう!

リニューアル

2015年11月14日(土) by キヨタカ

修善寺温泉は、1200年の歴史を誇る伊豆最古の温泉。
 
伝説によれば 平安時代に空海が開いたと言われている。
 
しかし車で30分程度奥へ行くと、吉奈(よしな)温泉と言うさらに古い温泉がある。
 
奈良時代に行基が発見したと言われ、1300年の歴史があるという。
 
 
修善寺に越したばかりの頃は、風光明媚な伊豆半島が珍しくて、暇を見つけてはドライブを楽しんだものだ。
 
もちろん、吉奈温泉にも行った。
 
東府屋という老舗旅館に岡本太郎のギャラリーがあるというので見に行ったのだ。
 
 
最近は、暇を見つけては海へ行ってしまうので、伊豆半島巡りは殆どしない。
 
しかし今日は朝から雨で、 海にも行けないが気分は最高。
 
そこで・・・
 
「久しぶりに、ちょっとドライブしよう!」
 
ということで、ベーカリーが新設されたという噂の東府屋へヨガビと2人で出かけた。
 
 
 
到着してびっくり仰天!
Img_2475
 
「え!行き先を間違えた?」
 
と思ったくらい・・・
 
東府やResort&Spa』として、完全リニューアル。
 
3.6万坪という広大な敷地いっぱいに広がる非常に洗練された和のリゾートに大変貌を遂げていた。
 
 
 
 
 
今日は雨ということもあり、自然の美しさがよりいっそう体の中に染み込むような感じ。
 
あたかも日本画の中にすっぽり入り込んだような、不思議な体験だった。
 
 
お目当のカフェでは、足湯に入りながらコーヒーとパンを楽しめる。
 
日本情緒豊かな大自然の風景と、西洋風のカフェが見事にマッチ!
 
車で30分程度と、ドライブにちょうど良い距離。
 
新たなお気に入りのスポットとして、これから時々お世話になりそう。
 
 
すべてこの世は生々流転していく。
 
どんなに古い旅館だって、手をかければ見違える程素敵な場所へと変貌する。
 
どんなに古い人間だって、多少の手をかけさえすれば、変貌可能だ。
 
気づきは、意識のリニューアル!
 
自己の本性に気づいたら、あとはそこに寛ぐのみ。
 
足湯よりも暖かいエネルギーが、存在全体を満たしてくれるだろう。

流れる

2015年11月12日(木) by キヨタカ

>『する事』と『在る事』が統合された生き方こそが、人生の極意なのだろう。
 
先日の日誌に、コメントを頂いた。
 
この部分、よろしければ、もう少し詳しく話してくださいますか?

う〜ん。

統合とか在る事とか・・

まだアジズの影響から抜けきれず、表現が硬いな〜。


ようするに、「流れるように物事が起こる」感覚なんです。

日誌なんか書いているとよくそうなるけど、文章が勝手に出てくる。

私はただパソコンの前に座って、寛いでいる。

すると言葉が湧いてくるから、指を動かす。

いつの間にか、日誌が仕上がっている。

自分で、「している」感覚がないから、とても楽。


背後に大いなる生命力があって、それが物事を起こさせている。

私は喜んで、それに乗る。

ウィンドサーフィンで、風をはらんだセールに体を預けて、プレーニングしている感覚。

身体はゆったり寛いでいるけど、実際はぶっ飛んでいる快感。

実際に体験している方にしか、理解されないのが残念。

心理学用語で言う、「フロー」という言葉がそれに近いだろう。


存在の流れに任せて、人生の荒波をプレーニングしたいものである。

実存ではない

表現2015年11月9日(月) by キヨタカ

 私が「私が在る(I AM)」という事は、私にとっては無上の喜びであり説明はいらない。

美味しいコーヒーを飲んだら、美味しく感じるから自動的に喜びがやってくるのと同じ理屈だ。

しかし、人によっては、「私が在る(I AM)」という体験 を痛みや悲しみとして感じてしまうらしい。

 

「私が在る(I AM)」は、いわゆる哲学者達が言う「実存」とは違う。

有名なサルトルという哲学者は、実存をダイレクトに体験する事は嫌悪を伴うものであり、「嘔吐」と表現している。

 

「私が在る(I AM)」を、認識の対象物として捉えている限り、哲学上の終わりなき議論になってしまう。

また、それが対象物である限り、痛みや苦痛として体験する場合もある。 

 

至福は、意識そのものの属性だ。

痛みや悲しみや嘔吐を感じている主体、物自体の実存を体験している主体としての意識そのもの、そこにシフトした時、本当の喜びが溢れてくる。

 

日誌では、どうやら「私が在る(I AM)」という用語を安易に用い過ぎた感じがする。

もう少し、正確でダイレクトな言葉を選ぶ必要があるかもしれない。

悟りの木

2015年11月8日(日) by キヨタカ

OSHOの伝記映画: The Rebellious Flower が、まもなく一般公開されるそうだ。

You Tubeの予告編を見たが、なかなか面白そう。

公開が楽しみ。




上記の冒頭で、OSHOが木の下で座っている場面がある。
 
OSHOの講話によると、
 
『 21歳の時、ジャバルプールのバンヴァータル庭園にあるモールシュリ の木の下で光明得た』
 
と言う。
 
OSHOが悟りを開いた状況を、自ら語った講話は非常に美しい。
 
映画の中でも、どうやらその講話を10分間そっくり引用しているらしい。
 
 
実はインド滞在中に、OSHOの悟りにあやかろうと、『悟りの木』を求めてわざわざジャバルプールにまで出かけた事がある。
 
インドの埃りまみれの薄汚れた寝台列車に1日近く揺られて、ようやくジャバルプールに到着。
 
現地のOSHO瞑想センターを訪ねて、そこで教わった情報を頼りに、お目当てのモールシュリの木をようやく探し当てた。
 
それまでにOSHOの例の講話を何度も聞いて、妄想が勝手に膨らんでいた。
 
『この木の下で座れば、悟りの一瞥を得られるかも』と、大いに期待したのだが・・・
 
実際には、インドのありふれた公園の、どこにでもありそうな木だった。
 
 
妄想と現実のギャップがあまりにも大きくて、悟りの木の下での瞑想もそこそこに、記念の葉っぱを一枚失敬して、早々に引き上げた事を、懐かしく思い出した。
 
 
記念の葉っぱは、長年の間、OSHOの写真と共に大切に飾っていた。
 
しかしある時、外側に頼る事を一切やめる決意をして、写真も葉っぱも手放してしまった。
 
 
 
最近では、OSHOが偉大な覚者として、世界中で社会的に認知され始めているようだ。
 
社会の秩序を乱す危険人物として、世界各国からテロリスト並みにマークされていた時代からすると雲泥の差だ。
 
 
生前のOSHOは、語っていた。
 
『生きているマスターは危険だ。
 
死んだマスターは安全だから、世間も安心して認めるようになる。』
 
反逆者OSHOのストーリーが一般劇場で公開される事自体、OSHOの反逆性がかなり薄まってしまったようで寂しい。
 
これも時代の流れだから、仕方あるまい。
 
 
この映画が一般公開されると、例のモールシュリの木も、聖なる木としてブッダガヤの菩提樹並みになるかも知れない。
 
しかし、お釈迦さまが悟ったからと言って、ブッダガヤの菩提樹の下で悟ったという覚者は聞いた事がない。
 
柳の下に、二匹目の泥鰌はいない。
 
覚者の真似をしても、覚者にはなれない。
 
人は誰もが、ユニークな存在だ。
 
あなたにふさわしい唯一の場所で、あなたという唯一の覚者が顕現しますように! 
 

ゆったり

たり2015年11月5日(木) by キヨタカ

 
先日NHKの番組で、『競歩』の第一人者谷井選手が後輩を指導する番組をたまたま見た。
 
内容をコピペすると‥
 
陸上競技でメダル最有力種目となった競歩。
 
ところがユース五輪金メダルの小野川稔が、この秋の国体で下級生に敗れる波乱が!
 
観戦していた世界選手権銅メダルの谷井孝行はフォームのある欠点を見抜く。
 
さっそく谷井は小野川のトレーニングに付き合い、奇妙な教えを授ける。
 
「速く歩きたいと思ったら、ゆっくり動け」
 
戸惑う17歳に対し、世界一の技術を惜しげもなく披露し、その極意を伝授。
 
わずかな時間で超新星に驚きの変化が!
 
 
番組を見ていて、思わず唸ってしまった。
 
「速く歩きたいと思ったら、ゆっくり動け」
 
速く歩こうと力まず、余分な力を抜いて歩けば、逆に速くなるという。
 
 
私はウィンドサーフィンが趣味。
 
初心者の頃は、余計な力が入って両手がマメだらけになり血がにじむ事も。

最近は、マメが出来なくなりつつある。
 
余分な力を使わなくなったからだ。
 
超一流のプロのウィンドを動画で見てみると、波や風に合わせて、実にゆったり軽々と優雅に動いている。
 
これって、全てのスポーツや武術に通じる 極意 なんだと思う。
 
 
いや、実はもっと奥深い。
 
人生の極意そのもの、なのではあるまいか?
 
 
私は長年の探究の中で、大勢のいわゆる『覚者』と自称する人々に出会った。
 
同じく『覚者』と言っても、十人十色。
 
中には、 非常に落ち着きのない人もいて、戸惑うこともあった。
 
 
しかし、本物の覚者は、例外なくゆったりと自己の実存に落ち着いている。
 
そういう人のそばにいると、こちらも自然にゆったりと寛いでくる。
 
 
あくせくしても、ゆったりしても、与えられた命は同じ。
 
どうせなら、ゆったりと寛いだ人生を送りたいものである。
 
もっとも最近は「ゆったり」し過ぎて、日誌の更新が「フンドシ」の記事で滞ってしまった。
 
ゆったり寛ぎ、気づきを持って為すべきことをなす。
 
『する事』と『在る事』が統合された生き方こそが、人生の極意なのだろう。

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