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実存ではない

表現2015年11月9日(月) by キヨタカ

 私が「私が在る(I AM)」という事は、私にとっては無上の喜びであり説明はいらない。

美味しいコーヒーを飲んだら、美味しく感じるから自動的に喜びがやってくるのと同じ理屈だ。

しかし、人によっては、「私が在る(I AM)」という体験 を痛みや悲しみとして感じてしまうらしい。

 

「私が在る(I AM)」は、いわゆる哲学者達が言う「実存」とは違う。

有名なサルトルという哲学者は、実存をダイレクトに体験する事は嫌悪を伴うものであり、「嘔吐」と表現している。

 

「私が在る(I AM)」を、認識の対象物として捉えている限り、哲学上の終わりなき議論になってしまう。

また、それが対象物である限り、痛みや苦痛として体験する場合もある。 

 

至福は、意識そのものの属性だ。

痛みや悲しみや嘔吐を感じている主体、物自体の実存を体験している主体としての意識そのもの、そこにシフトした時、本当の喜びが溢れてくる。

 

日誌では、どうやら「私が在る(I AM)」という用語を安易に用い過ぎた感じがする。

もう少し、正確でダイレクトな言葉を選ぶ必要があるかもしれない。

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コメント

 拝啓、、、、。

       一句

              ”卓上の

                         言葉のパズルに

                                         惑わされ”

                     Yょㇼ

                                                  敬白

「私が在る(I AM)」、至福は、認識の対象物ではなく意識そのものの属性...


ここを読んで、そっか、そっか、そうだった!と思い出しました。以前、覚醒体験された色んな方がそれぞれに遊園地や映画とかの例えを使って色々話してはったときの言葉がいもずる式に思い出され、あ~!って。

感じてる、共鳴してる、それだけで嬉しいんだ、と、ある人は話していました。

話は変わりますが、恩寵の扉が開くまで、のシリーズ等々、ネットで公開してくれてありがとうございます。もう数年前の話になりますが、ずっと瞑想を続けてきて、あれれ?と自分の変化に戸惑った時、あの本の何ヵ所かがすごくドンピシャで、その後も他の色んなホームページに廻り合い、なるほどね!なるほどね!ってなりました。

色んな人が色んな実体験を話されてて、個性があるから、その全てに共鳴するわけではないけれど、それぞれの言葉の隙間なり、エネルギーなり、その一言!がすごく腑に落ちて、また安心して、この道を歩む...そういう日々でした。


今ではすっかり当たり前になってる事なのですが、初めてだと戸惑うところがあって、言葉で表現しきれない事であっても、少しでもああやって言葉にしてくれていたことで、すごく助かりました。


〉私が「私が在る(I AM)」という事は、私にとっては無上の喜びであり説明はいらない。

へ~~どんな感覚なんだろ~
わ~味わいたいなぁ~(*^¬^*)


それでは!

ご無沙汰しています。久しぶりに、ブログを訪れて、2012年1月に受けた瞑想カウンセリングを思い出しました。

キヨタカさんから「気づきの対象に意識が巻き込まれている状態が迷いであり、気づきの主体に意識が留まっていることが悟りである」という説明を受けました。

実存としての「私が在る(I AM)」は現象であり、気づきの対象なので、正にサンサーラ(生死流転、六道輪廻)であり、諸行無常、諸法無我、一切皆苦の世界であります。ほとんどの人たちは、平均的・日常的に二元論的・対象的認識の世界に生きて、喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりしています。

キヨタカさんの無上の喜びである「私が在る(I AM)」は一元論的・主体的認識の次元であり、実存ではなく本質であり、サンサーラではなくニルバーナ(涅槃寂静)の世界であります。主体が主体を主体として主体的に認識する場合、エネルギー体験的には、自己の内と外の区別がなくなり、宇宙との一体感、天地いっぱいの自己、尽十方無碍光如来というような境地がからだを通して実感されます。

そろそろリトリートに参加してみようかなあと思っています。その節は、よろしくお願いします。

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