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天上天下唯我独尊

2015年5月20日(金) by キヨタカ

 個人リトリートの為、数日間山籠りしていた。
 
新緑に囲まれた静かな森の中で、誰とも会話せずただ自分とだけ向き合う。
 
最高に贅沢な時間だった。
 
 
実は フーマンが存命の頃、「数ヶ月に一度個人リトリートをすると良い」と勧められ、あの頃は良く 個人リトリートをしたものだった。
 
しかし、当時は「今度こそ悟るゾー!」という意気込みばかりが空回りして、この一人のスペースを楽しむ余裕は全くなかった。
 
 
しかし、今は違う。082002200620022
 
大自然の中でただ一人在ることで、自然と釈迦の言う『天上天下唯我独尊』の境地を味わえるようになった。
 
 
 
 
内村鑑三の著書『代表的日本人』によると、江戸時代の儒学者 中江藤樹は釈迦のこの言葉が大 嫌いだったそうだ。
 
「こんな高慢な人間が天下にいるだろうか?」と疑問を投げかけている。
 
生涯に渡って、仏教が嫌いだったらしく、
 
「釈迦は天竺の狂者だ!」
 
とも語っている。
 
お釈迦様を向こうに回してこき下ろすのだから、中江藤樹は見上げた根性の持ち主だ!
 
さすが、『代表的日本人』に選ばれるだけの事はあるw(゚o゚)w
 
な〜んて、私なんかは感心してしまう。
 
 
しかし、もちろんそれは誤解である事は言うまでもない。
 
自我とは、他者との関わりを通して形成される自己イメージであり、固定化されたフィクションに過ぎない。
 
しかし、自然の中で他者を介在する事なく一人在ると、自我の必要性が失われる。
 
だから、いつの間にか「I AM/私が在る」の状態になる。
 
さらにはこの私は、大宇宙に偏在する大いなる私(That I AM)とつながっている事が、ごく自然にわかり始めるのだ。
 
そして自我を忘れる事で、大自然の生きとし生けるもの全てが、『I AM THAT I AM』を享受している事が自ずと明らかになる。
 
 
 
同じく『代表的日本人』で紹介されている二宮尊徳は、この事をとても良く理解していたようだ。
 
とても素敵な記事を見つけたので、コピペしておこう。
 
 
* * 二宮翁夜話巻の4 * *
 
【37】尊徳先生があるお寺に参詣された。
灌仏会があった。
尊徳先生はおっしゃった。

 
天上天下唯我独尊という事を、侠客者流などが、広言を吐いて、天下広しといえども、我にしく者はなしなどというのと同じように、釈尊の自慢と思っている者がある。
 
これは誤ちである。
 
これは釈尊だけでなく、世界皆、我も人も、ただこれ、我こそ、天上にも、天下にも尊い者である、我に勝って尊い物は、決して無いものであるという教訓の言葉である。
 
したがって銘々それぞれ、この我が身が天地間にこの上も無い尊いものである、なぜかといえば、天地間に自分がなければ、物が無いようであるからである。
 
そうであれば銘々それぞれ皆、天上天下唯我独尊である。
 
犬も独尊である、鷹も独尊である、猫も杓子(しゃくし)も独尊といってよいものである。 
 
唯我独尊と・・・是は釈氏のみならず、世界皆、我も人も、唯(ただ)此(これ)、我こそ、天上にも、天下(てんげ)にも尊き者なれ、我に勝りて尊き物は、必ず無きぞと云ふ、教訓の言葉なり、然れば則ち銘々各々、此の我が身が天地間に上無き尊き物ぞ、如何(いかん)となれば、天地間我(われ)なければ、物無きが如くなればなり、されば銘々各々皆、天上天下唯我独尊なり、犬も独尊なり、鷹も独尊也、猫も杓子(しやくし)も独尊と云ふて可なる物なり

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