カテゴリー「スピリチュアル」の記事

国常立尊の復活!

2017年10月19日(木) by キヨタカ

 友人が、スピリチュアルブロガーとして有名な阿部敏朗さんのブログ「かんながら」の記事をコピペして送付してくれた。
 
要約すると・・・
 
 11月18、19日に天河神社で特別神事が行われる。
 これにより、国常立尊のエネルギーが復活される。
 国常立尊が立ち上がると、人の中に神が目覚める。
   これこそが、OSHOの教えであり私(阿部)が長年望んできたビジョンだ。
 
 
国常立尊(くにのとこたちのみこと)と言われても、新宗教系の神道に詳しい人以外はピンとこないかもしれない。
 
実は私も長年そうだったのだが・・・ある出来事があって『国常立尊』を意識し始めた。
 
阿部さんの記事を読んで、『国常立尊』に関わる不思議な出来事を懐かしく思い起こしたのでちょっと日誌に書いてみよう。
 
 
あの日から、もう20年の歳月が経とうとしている。
 
修善寺にOSHOリーラスペースを立ち上げた私は、その翌年の1998年の3月21日 をメインに『OSHOエンライトメントデー・セレブレーション』を修善寺で企画。
 
赤字だけど、それなりに結構人数が集まる大きな瞑想イベントとなった。
 
そのイベントの最中に、名古屋の白鳥神社の神主を名乗る女性の方が突如来訪。
 
要件を伺うと・・・
 
「神様のメッセージを受け取ったので、それを伝えにきた」
 
という。
 
女性の神主という事で驚いたけど・・・彼女のメッセージがぶっ飛んでいいたので、さらに驚いたヾ(*゚A`)ノ
 
 
彼女のメッセージを手短に言うと・・・
 
「天上界で政変が起こりました。
 
長らく天上界を支配していた天津神系(アマツカミ/高天原から天降った神の総称)の神様から、今まで御隠れになっていた国津神系(クニツカミ/それ以前の根源神)の神様に政権が移譲されることになりました。
 
国津神とは、国常立尊でもあります。
 
OSHOは、国津神系です。
 
これからは、OSHOのワークが大々的に盛り上がりますよ!」
 
これだけの事を伝えると、さっさと立ち去って行ってしまった。
 ( 『白鳥、後を濁さず』・・・少し違うか(^^;; )
 
 
妙な事を言う人だな〜と内心呆れたけど、当時の私はOSHO一筋。
 
これからはOSHOの教えが広がって行くであろうと解釈して、大いに納得。
 
いずれOSSHOリーラスペースは、新人類誕生のメッカになることを確信したのである。
 
 
ところがその翌年には、OSHOの看板を外して、アジズやフーマンをオーガナイズ。
 
さらにはアジズやフーマンの看板も外して・・・
 
OSHOやアジズやフーマンの信奉者は殆ど来なくなり、独自マイナー路線を世に知れることもなく、ひっそりと歩み続けている。
 
 
リーラスペースの歩みを振り返る時・・・
 
OSOの看板を外してからと言うもの、神主さんのメッセージとは真逆の方向へ行ってしまったと長らく思っていた。
 
しかし阿部さんのブログに書いてある通り、
 
国津神の復活=内在神の目覚め
 
と紐解けば、リーラスペースはまさに「国常立尊の復活!」の王道を一歩たりとも違わずに確実に歩んでいる事が私には理解できる。
 
天河神社で起こるであろう国常立尊の復活が、20年前にリーラスペースで既に起こっていたのである。
 
『内在神の目覚め』をシェアすること。
 
これこそが、阿部さん同様に私の長年の望みだ。
 
今週末の瞑想会や来月のリトリートでは、国常立尊のエネルギーを後ろ盾としたパワフルかつ楽しいものになるに違いない。

あるがまま

2017年6月17日(土) by キヨタカ

『あるがままを受け入れる』ことは、瞑想の大原則。
 
だが 実際にあるがままを受け入れる事は、なかなか難しい。
 
しかし、よくよく考察して見ると、
 
「あるがまま」とは「今・ここで起こっていること」そのもののこと。
 
だから、それを受け入れようが受け入れまいが、「あるがまま」の事実そのものに何の違いもない。
 
受け入れるかどうかは、こちら側つまりエゴの勝手な都合に過ぎない。
 
一方、「あるがまま」とは事実そのもの。  
 
事実唯真
 
事実とは常に動かすことのできないもので、この事実こそが真実である。
 
だから本当は、受け入れるか受け入れないかの選択の余地はない。
 
 
 
あるがままを受け入れないとは、
 
それはちょうど、沈みかかった夕日に向かって、
 
「ダメよ、ダメ、ダメ\(*`∧´)/」
 
と叫ぶようなもの。
 
どんなに受け入れを拒否しても、夕日は西の果てへと消えて行く。
 
 
マインドにいると、あれかこれか選択の余地があるような錯覚に陥る。
 
ハートにいれば、あれかこれかの選択が無い。
 
あれはあれ、これはこれ。
 
夕日は沈み、朝日は昇る。
 
何とシンプルで、楽な事だろう(o^-^o)

リトリート進行中

2016年10月8日(土) by キヨタカ

現在、3デーズリトリート進行中です。

自我の嵐

2016年10月6日(木) by キヨタカ

 心配されていた台風18号も、温帯低気圧になり無事通過!Img_2915
 
10月らしい、素晴らしい青空が広がった。
 
現在、今週末のリトリートの準備で忙しい。
 
ずっと天気がイマイチで、参加者の布団を干せなかった。
 
もしかしたら、今日は布団乾燥機に頼らずに済むかも?
 
 
最近巷では、瞑想が大ブームらしい。
 
1日3分瞑想すれば、ストレスが減り、精神が安定し、意識がクリヤーになり、病気にもかかりにくくなり、認知症予防になり‥
 
先日のNHKの番組などで紹介されている、「瞑想のすごいパワー」の内容である。
 
  確かに瞑想の功徳を広く知らしめた点で、この番組の貢献度は素晴らしい。
 
 
しかし本格的に瞑想に取り組むと・・・
 
実はそう簡単には行かない。
 
本当の瞑想とは、自我を落として真我に目覚めるためにある。
 
そのためには、必然的に自我を落とすプロセスを通り抜けなければならない。
 
 
「自我を落とす」なんて、自我にとってはとんでもない話だ。
 
当然、落とされないように必死で抵抗する。
 
だから、瞑想者の意識は自我と真我の狭間で混乱し、内的な嵐が巻き起こるのである。
 
そして抵抗する自我の嵐が過ぎ去って初めて、自己本来の青空が広がるのだ。
 
瞑想の功徳は、この青空のことだ。
 
 
しかし、この内的な嵐を経ずして青空を手にする人はほとんどいない。
 
リーラスペースのリトリートは、この内的な嵐を事前に予知し、今回の台風のように温帯低気圧レベルに引き下げるプロセスも織り込んでいる。
 
こうしたリトリートは、他には殆どないと自負している。

光り輝け!

2016年7月13日(水) by キヨタカ

瞑想は、2つの相反するエネルギーの融合だ。
 
『気づき』(プレゼンス)は、男性エネルギーで陽極(プラス)。
 
『くつろぎ』(ビーイング)は、女性エネルギーで陰極(マイナス)。
 
この両者が融合すると、光明が起こる。
 
 
これって、豆電球が光るのと似ている。Soket3
 
乾電池の陽極はプレゼンス、陰極はビーイング、光る部分がハートという訳だ。
 
プレゼンスとビーイングが一つになる時、ハートの内奥で眠っていた魂が目覚め、光り輝く!
 
 
人は誰もが立派なバッテリーと素晴らしい電球を持って、この世に生まれてきた。
 
にもかかわらず、暗闇を彷徨している。
 
残念ながら、配線接続が正しく機能していないせいだ。
 
 
解決策は、とてもシンプル。
 
正しく回路を繋ぎ直せば、自動的に光り輝くようになる。
 
真の瞑想とは、正しく回路を繋ぐことに他ならない。
 
今度のリトリートで、多くの参加者にそれが起こるだろう。
 
魂よ、光り輝け!

夢から醒めて・・・

2016年5月24日(火) by キヨタカ

 昨日から、実家に戻っている。
 
朝起きて庭を見たら、トヨタの高級車レクサスが停まっている。
 
キヨタカ:「新車だね、誰のだろう?」
 
ヨガビ:「キヨタカの車古いから、レクサスに変えたの。」
 
キヨタカ:「え〜w(゚o゚)w 冗談でしょ!」
 
ヨガビ:「冗談じゃないわ。キヨタカがよく言う『想定の法則』に従ったの(* ̄0 ̄)ノ」
 
キヨタカ:「あたかも金持ちであるかのように想定して行動すると、実際にそうなる・・ってやつ?』
 
ヨガビ:「そう、これで私たちお金持ち路線を真っしぐらね。」
 
キヨタカ:「ひぇ〜、高級車じゃウィンドの道具だって気軽に運べないよ!夢であったら醒めてくれ〜!!」
 
 
 
・・・と強く思ったら、本当に夢から醒めた。
 
念のため庭を見たら、同じトヨタのイプサムが停まっていてホッとひと安心。
 
走行距離を月まで(38万キロ)延ばすべく、現役で頑張ってくれている愛車だ。
 
 
夢であると知りながら見る夢を、明晰夢(Lucid Dreaming)と言う。
 
最近、明晰夢を見るべく色々とチャレンジしているのだが、これがなかなか難しい。
 
ヨガビがレクサスを買うなんて、現実では絶対にありえない事だが・・・
 
夢の中では、それに何の疑問も感じななくなってしまうから不思議だ。
 
夢を夢と見抜くには、予想以上に相当の気づきと修練が必要なようだ。
 
 
ところで、今こうして日誌を書いているわけだが・・・
 
実は、今ここにある現実そのものが夢でないという保証はどこにもない。
 
ちょうどレクサスが夢である事を見抜けなかったように、日誌を書いているこの現実が夢の中の出来事にすぎないとしたら・・・?
 
『胡蝶の夢』で有名な荘子は、まさにこの難問を我々に問いかけ続けている。
 
もしかしたら、荘子が夢の中でこの日誌を書いているのかも?
 
蝶が夢の中で荘子になり得るのだったら、荘子がキヨタカの夢を見る事は十分に可能だ。
 
 
しかし、荘子の難問から抜け出す唯一の方法がある。
 
それが、「この夢を見ている私は誰か?」という、根源的な問いだ。
 
もちろんその答えは、キヨタカとか荘子と蝶ではない事は明らか。
 
なぜならそうした自己イメージは、それ自身が夢でありストーリーに過ぎないから。
 
その背後に、真の答えが潜んでいる。
 
それこそが真の実在であり、『「I AM/私が在る』という事だ。
 
 
『想定の法則』は、実際に上手くいく事が多々ある。
 
例えば、「自分はお金持ち」と想定したり、あるいは「健康である」とか「良い仕事が見つかった」とか、はたまた「女性にモテる」とか想定し、実際にそのように行動する事で、望む結果が得られたという話は枚挙にいとまがない。
 
しかし、お金がないのにお金持ちと想定するのだから、それらはフィクションであり夢に過ぎずそれなりの限度がある。
 
しかしながら、数ある想定の法則の中で、唯一フイクションではないものがある。
 
それが、『「I AM/私が在る』という事だ。
 
 
哲学者のデカルトもまた、存在の全てを疑い、唯一疑いようのない基盤を発見した。
 
それが同じこの、『「I AM/私が在る』だ。
 
残念ながら、それを哲学の命題として、『我思う、ゆえに我あり』と考察し、思考の世界に舞い戻ってしまった。
 
だから覚者方からは、『それはベーシックエラーだ。「我あり、ゆえに我思う」としなければいけない。』と批判されてしまう。
 
 
真の瞑想は、デカルトと同じ基盤つまり『「I AM/私が在る』から出発する。
 
しかし思考の世界とは180度違う、内的領域へと旅立つ。
 
そして永遠の世界へ、思考の必要ない世界へ目覚めて行くのである。
 
言葉で伝えられるのはここまで。
 
体験されたい方は、ぜひ瞑想会に参加して下さい!

I AM 瞑想

2016年3月21日(月・祝) by キヨタカ

今日は春分の日。
 
伝統的に一年で一番エネルギーが強い日と言われている。
 
OSHOが悟りを開き、空海が入滅した日でもある。
 
特に今年はまもなく満月を迎え 、なんだか人生の成就を迎えつつある気分。
 
そこで、今日は特別に、とてもシンプルかつパワフルな瞑想技法をお伝えしよう。
 
名付けて、『I AM瞑想』
 
但し、気づきの主体としてのプレゼンスと、寛ぎの場としてのビーイングが明確でないとあまり効果は期待できない。
 
 
やり方はこうだ。
 
息を吸いながら『I』と言うマントラを心の中で唱えつつ、気づきのベクトルを主体としてのプレゼンスへ向かわせてそこに留まる。
 
息を吐きながら『AM』というマントラを心の中で唱えつつ、ビーイングへと明け渡す。
 
吸うときも吐くときも、呼吸のギャップを意識できる事が望ましい。
 
特に、吐いた後のギャップに溶け去れたら、素晴らしい(*^-^)
 
 
特別にこの瞑想をする時間を確保する必要はない。
 
朝から晩まで、呼吸している限り、この瞑想を続けることができる。
 
実は寝ている時も、呼吸しているのだから、この瞑想が可能。
 
つまり、この瞑想は理論的には24時間いつでも、どこでも、何をしていても、する事ができる。
 
『I AMの目覚め』への、とても簡単かつ非常に効果的な技法であると自負している。
 
皆さん、是非トライしてみて下さいネ!

浄化を伴う瞑想

2016年1月7日(木) by キヨタカ

 連続スカイプセッションを受けている Aさんから、質問のメールがあった。
 
>最近、少しのことで、ものすごく腹をたてることが増えたのですが、ジベリッシュと関係ありますでしょうか?
 
ジベリッシュ瞑想とは、でたらめ言葉を敢えて使い潜在意識の奥底に潜む抑圧された思考や感情を浄化させる非常にパワフルな瞑想テクニックだ。
 
 
瞑想とは、既に内在する真我を目覚めさせる手段。
 
姿勢を正し、静かに目を閉じる。
 
そして、気づきのベクトル(方向)を、対象物から気づきそのものへと逆転させる。
 
そうすれば、やがて真我の目覚めが起こるはず。
 
 
しかし、実際はなかなかそうはいかない。
 
静かに目を閉じて内側を見つめると・・
 
最初に出会うのは、残念ながら真我ではなく、不条理な思考や感情の嵐。
 
座禅やビパサナなど、伝統的な瞑想修行では、「とらわれるな!」とか「ただ観想せよ!」
 
とか言われるけど、それで上手くいく人はほとんどいないだろう。
 
残念ながら、少なくとも私はダメだった。
 
 
しかし私の場合、浄化を伴う瞑想技法がとても役に立った。
 
無意識に抑圧していた不条理な思考や感情を積極的に解放する事で、その奥に潜む真我の領域へ比較的簡単にアクセスできるようになったのだ。
 
だから、リーラスペースの瞑想会やリトリートでは、積極的に浄化を伴う瞑想技法を使っている。
 
 
上記のジベリッシュは、その代表的なもの。

しかし、正しいやり方で行わないと効果がない。
 
だから、通常は遠隔セッションの場合は行っていない。
 
でも最近は、効果のありそうな方には積極的にスカイプでも伝えるようにしている。
 
 
 
しかし薬と同じで、効果があるほど副作用も伴う。
 
抑圧していた感情をリリースし始めると、最初は今まで出なかった感情が出始めて戸惑う事がある。
 
私の場合、感情がもろに出てやたら怒りまくっていた時期がしばらくあった。
 
Aさんの場合も、浄化を伴う瞑想技法は初めてなので、その可能性は大いにある。
 
 
しかし、心配には及ばない。
 
不自然な抑圧がなくなるにつれて、やがていつでも穏やか感情を保てるようになる。
 
さらには、たとえそうした感情が出ても、それを受け入れる事で、エネルギーの変容が起こるようになる。
 
 
『怒り』と言う感情は、それを相手や自分自身に投げつける事で問題が起こる。
 
『怒り』そのものは、生命エネルギーの爆発でありとても素晴らしいヽ(´▽`)/
 
泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり・・
 
それは、生きている事の証。
 
人生に起こる事は積極的に受け入れて、なおかつその背後にある真我意識にしっかり根付きたいものである。

ムカデの歩き方

2015年11月16日(月) by キヨタカ

 
『気づくこと』と『寛ぐこと』は、瞑想の2大要素。
 
やがて両者は統合して、『偏在する気づき』となる。
 
その状態に到達するために、様々なテクニックが古今東西用いられてきた。
 
しかし既にその状態にあれば、ことさらテクニックは不要だ。
 
 
ムカデを題材にしたジョークがある。
 
ムカデは漢字で百足と書くが、100本近い足を器用に使って整然と歩む。
 
ある時ムカデに、歩き方のコツを尋ねた。
 
「100本の足があるのに、どうやって器用に歩けるの?コツを教えて!」
 
今まで自然に歩いていたムカデは、改めて自分の歩き方を観察し始めて・・・
 
「え〜と、え〜と、まず左の一番目の足を出して、次に2番目の左・・・いや右だったか?」
 
と考え始めた途端に・・・
 
コケでしまったとか、、(ρ_;)
 
 
おかげさまで、瞑想スカイプセッションは好評を頂いている。
 
特に6連続セッションを申し込まれた方には、状況に応じでその方に役立つと思われる瞑想テクニックを色々とお伝えしている。
 
昨日は、Tさんに「頭頂留意」というプレゼンスをパワフルに思い起こすテクニックをお伝えした所・・・
 
今日はなぜだか緊張してしまいました・・・
 
という正直なメールを頂いた。
 
 
 
知的側面から瞑想を理解するというのも、大切だ。
 
しかし特に女性の場合、知的理解やテクニックが瞑想の邪魔になってしまう場合がある。
 
Tさんの場合、既に自然な『偏在する気づき』を体験している。
 
にもかかわらず余計なテクニックをしたせいで、緊張を創り出してしまったようだ。
 
 
瞑想テクニックは、それがパワフルであるほど、合う人と合わない人がいる。
 
そして実際にやってみないと、合うかどうかわからないところがある。
 
Tさんの場合、「頭頂留意」のテクニックはシンプルに合わなかったにすぎない。
 
だから、決して自分の瞑想はまだまだと思わない欲しい。
 
不要なテクニックの事は、忘れましょう!

モグラ叩き

2015年8月18日(火) by キヨタカ

 マインドは、問題を見つけるのが得意だ。
 
問題を見つけると、反射的にそれをなんとかしようとする。
 
しかしたとえ解決しても、新たな問題を見つけ出す。
 
 
それは、ちょうどモグラ叩きの様だ。
 
叩いても、叩いても、新たなモグラが顔を出す様に・・・
 
次々と新しい問題が見つかる。
 
 
意識が外側に向いている人は、自分の外側に問題を見つける。
 
問題がなくなれば幸せになると思うから、問題のある相手を変えようとする。
 
しかしなんとか相手の問題が解決しても、別の相手が次から次へとひょっこり現れる。
 
 
意識が内側に向いている人は、自分の内側に問題を見つける。
 
問題がなくなれば幸せになると思うから、問題のある自分を変えようとする。
 
しかしなんとか自分の問題を解決しても、別の問題が次から次へとひょっこり現れる。
 
 
しかし、本当の幸せは問題とは関係ないところに存在している。
 
思い切って、 モグラを叩くのを止めてみよう。
 
モグラがいても、ただ放って置く。
 
そして、問題のない部分に寛いで、それに感謝して、お祝いする。
 
すると、ただ在る事の喜びがどこからともなく自然に溢れ出す。
 
それが、瞑想の極意だ。
 

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