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「恩寵の扉が開くまで」補足説明6(再掲載)

2014年11月7日(金) 曇り by ヨガビジャ  **修善寺日誌より再掲載**  
 
 
6、フーマンの目に映るのは… 
 
「恩寵の扉が開くまで」を読まれるにあたって、ぜひ理解しておいていただきたいことがあります。 
 
それはフーマンがキヨタカに語りかける時、通常私たちが一人の人と向き合うのとは違ったレベルで対峙しているということです。 
 
具体的にいいますと、パーソナリティ(人格)としてのキヨカタに語りかけている時と、Thisを体験しているキヨタカ(正確にいうとThisとしてのキヨタカ)に語りかけている場合とがあるということです。 
 
「恩寵1」では、フーマンはキヨタカの様々な質問に答えました。 
 
それはおそらく想像ですが、キヨタカの質問に答えることで彼に必要な情報を与えると同時に、彼のマインドをリラックスさせる必要があったのではないかと思います。 
マインドをリラックスさせることなしに彼のプレゼンスをビーイングへと手放させ、さらにThisの体験へと導くことは不可能だったのでしょう。 
 
この理由により「恩寵1」では、キヨタカのパーソナリティへの働きかけにウエイトが占められていたと思います。 
 
それに対し「恩寵2」では、キヨタカのパーソナリティには極力触れず、Thisに目を向けさせ、そこに留まることにエネルギーを注いでいました。 
 
「恩寵2」においてフーマンは、
『もし、あなたが私を「フーマン」にすると、 
 あなたは「キヨタカ」という立場からやってくるようになる』と言っています。 
あるいは『私はフーマンではない』と。 
これはフーマンが極力、キヨタカのパーソナティを機能させないための言葉だったのだ思います。

そして、このことは、フーマンはキヨタカを「自分と同じThisの違った表現」として見ていたことを示しており、またキヨタカにもそのように自分自身を認識するよう何度も促しました。 
 
フーマンの視点においては、目の前の相手は「魂」であり「This」なのです。 
 
本来フーマンは、パーソナリティとしての相手には関心がなく、必要に応じてその人の人間の部分に繋がっているに過ぎませんでした。 
 
ですから、もしキヨタカを直接知っている人がこの本を読まれたら、フーマンのいうキヨタカ像と自分の中のキヨタカ像にギャップを感じて、そのギャップからこの本の信憑性に疑いを持たれるかもしれません。 
 
しかし、すでに述べましたように、フーマンの視点は一般的な私たちの視点とは違うことを忘れなければ、この本の理解もさらに深まることと思います。 
 
私たちもフーマンのように相手をパーソナリティとして見るのではなく、その奥にある魂やThisとして認識することができたら、私たちの関係性はもとより、世界は劇的に変化することでしょう。 
 
(つづく)

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 拝啓、、、、。

     一歌

        ”おだやかに

                無心になりて

                         手放すは

                               言葉にならず

                                        筆を擱こうか”

               Yょㇼ

                                                  敬白

ポイッ!! (ノ゜▽゜)ノ ⌒ pen

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