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新しい年に

2018年1月17日(水) 雨 
 
年が明けて早くも半月が過ぎました。。 
 
私とキヨタカの
暮れから新年にかけての過ごし方は、この伊豆に住み始めた頃とは随分様変わりしました。 
 
特にここ2年は両方の親の骨折、手術、介護認定の申請、腰痛、入所、入退院などなど、、なぜか12月、1月に集中していました。 
 
ですから、ほっとして自分のペースに戻るのはだいたいこの時期になっています。 
 
自分の子供の頃の成長と変化を思い起こし、また、親が老いて衰えてゆく様を目の当たりしていると、成人してから中年に向かう頃の身体や体力、健康はもっとも変化が少なく安定していたのだなと思います。 
 
子供の頃は目前に広がる世界は無限の可能性を秘めた未知としてその目に映り
、そして(自分の親を観る限り)高齢者と呼ばれる頃になると、自分の後にでき道の方へとその視線の多くは向けられている様です。そしておそらく、これからどれほど続くか見通せない先も、後ろに続く道の延長線上にあることに疑いはないようです。
 
だから今私が立つ人生の半ばを過ぎたこの場所は、その両方を見渡すことができる位置としてとても興味深い時だと感じています。  
 
これは数日前に撮った部屋からの朝焼けです。 
 

P11600772
 新年の抱負は 
 ほとんど考えない私ですが 
 
 いま自分がいる場所で 
 大きく見渡せる年にしたい 
 
 そう思えた1枚です 



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コメント

僕の前半は8歳頃から始まり42歳頃まで続いた喘息の発作で数日間の死ぬ思いを繰り返し、それが去った後の清々しさとまだここにいることを感じていました。

それでかどうかはわかりませんけど、「無限の可能性を秘めた未知」ではなく「苦しみとその開放」の繰り返しを意識していました。

母(94歳、左目の僅かの視野と0.06の視力で、そして6か月ほど前から認知症でトイレがどこかわからなくなり、それでも5分、10分、20分、30分ごとにトイレに行こうとし、夜中から朝まで大声で僕の名前を叫んでいるのですけど)を見ていると、確かに「自分の後にできた道」の話を毎日何度も繰り返しています。
「先」については彼女の生活に協力し始めた13年前から「もう長いことない」を繰り返しています。

こんな状況で実感したことがあります。

彼女の頻繁なトイレ通いは「過活動膀胱」ですでに2年以上も続いていて、夜も十分休めていない、それに気づいている僕も休めていないのですけれど、どうも僕の方がダメージが大きいように感じるのです。

すぐに気づいたのは、彼女はそれほど頻繁にトイレに行っていることを覚えていないため十分な休息がとれていないという意識がないようです。

それに反して、僕は、最近の流行の言葉でいうなら「睡眠負債」が日に日にたまっているという意識があり、高血圧、帯状疱疹とその後の神経痛や坐骨神経痛らしき痛みを体験しました。

喘息の発作が出ていた頃を想い起しましたしたけれど、後半の今は、「今立つ場所」すらも過去、すべては即座の過去というUNKNOWNの体験が僕には宝物になっているようです。

私のしていることはまだ介護とはいえませんが、 amano nishokさんの現状をお聴きするとかなり厳しいものと感じました。
細かな状況はわかりませんがどうぞくれぐれもご自愛くださいね。

子供の頃、nishokさんほどではありませんが、私も喘息で消化器系が弱かったです。親の不仲もなかなかなものでした。(;-_-+
だから「無限の可能性を秘めた未知が目に映り」と書いたのは自分にはあまり該当しない部分もありますが、一般的には子供にとっての未来は希望のあるものと感じてそう書きました。空想の中でも夢は見られましたし。

>「今立つ場所」すらも過去、すべては即座の過去 
 
とは・・・
すばらしいですね。
といっても、私は実体験ではなく知識として知っている、理解できるだけですけど。 

写真のような空をを見ていると、過去とか今とか未来とかに明確な境界などなく、ただ全体として感じていればいいような気がしてこの日誌を書き始めました。 
でも文章しようとすればするほど、なにか独立した別々な存在のようになってしまって、自分の書きたかったことがよく分からなくなった日誌でした^^;

文字や音楽や映像、そしてそのような媒体では表わしつくせない「何か」を感じるきっかけをyogabijaがシェアしてくれていると感じています。

ありがとう∞

後半の僕の目には「無限の可能性を秘めた未知」が映っているようです。

「すべては即座の過去」「UNKNOWN」という体験が伴っても、僕のブラックボックス(僕の両親の不仲の記憶も含めて)は自由気ままに体調不良もプレゼンしてくれます。

ようやくブラックボックスを友として迎える時が来た、そんな気がします。

ブラックボックスとはいい表現ですね。

私もやっとこのブラックボックスは
今の私を形作っている1つなんだと思えるようになりました。

と同時に、無意識に繰り返される過去のパターンから自由な
純粋な今を味わいたい想いがだんだん大きくなっています。

もうひとつ僕のお喋りに付き合ってくれますか。

『僕のブラックボックス』には「無意識に繰り返される過去の蓄積」だけではなく、それ以外の、そしてそれ以上の「何か」を含んでいます。

心臓などを動かそうとしていないのに動いていること、映像として写っているたくさんの点の集まりにすぎないものが実際に存在する物としてわかること、kiyotakaの神経麻痺が何もしないで治ったこと、意識する前に目の前に何かが飛んで来た時に目が閉じること などなど。

そして、僕が生まれて社会で日本人のある名前で呼ばれる者になる前にあったすべて。これがyogabijaの「無限の可能性」でしょうか。

僕のブラックボックスの中で起きている何かわからないこと。これに対する言葉は見つかりません。

ブラックボックスの中身にかかわらず、今に影響を及ぼしている過去から自由になった『今』に無限の可能性があるのように感じます。 
 
同時に、その過去(や経験)こそが今の自分を作り上げいるわけで・・・
矛盾する感覚がありますが、たった今に否定すべきものはなにもなく
ただ未知が生まれ出づる『今』を純粋に保ちたい感じです。
・・・言葉には限界がありますね。

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