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2018年6月

おしらせ

 :::::   タロットリーディングの無料モニターは終了しました  :::::  

 
   お申込みいただき
ありがとうございました。<(_ _*)> 

私のしたいこと

2018年6月23日(土) 雨 
 
先の日誌の流れからですが、、 
 
「自分の現実」に閉塞感を感じたり無限ループに入ってると感じたら、
私はタロットカードを引きます。 
 
現実へのフォーカスが特定の部分に限定され視界が狭くなり、思考の柔軟さが失われてると感じたとき、カードは私のマインドに風穴を開け新鮮な空気を運んでくれるから。 
 
タロットは私にとって身近な話し相手のような存在です。 
 
そこそこの年数、自分なりの方法でカードの使用してきたので自分をみることには慣れたのですが、他の人をみる経験は少ないです。 
 
でも、昨今の事件をみるにつけ感じる「どうしてそうなのか?」という、人間という存在に対する関心や知りたいという想いをもう自分の中で無視できなくなってきました。 
 
なのでやっと本題なのですが、再びタロットリーディングのモニターを募り理解を深めたいと思っています。 
 
そしていつか誰かの鏡となって、今はその人の目に映らない別の現実や新たな可能性を伝えることができたらいいなと思います。 
 
具体的なことはまた別途お知らせします。 
 
Photo_3 
 
  
 
 
 
 
 
 
 自分自身でいて 
 恐れず 軽やかに 
 自由に生きたい 
 

問いかけ

2018年6月22日(金) 晴れ 
 

先日の日誌(事件に思うこと)と同じ視点で書かれた、お笑いタレント・カンニング竹山さんの記事を見つけました。

 
彼は「肝心なことが報道されていない」として、問題の
核心をより深く理解することの必要性と、このような事件を繰り返さないために「なにができるか」を個々人に問いかけ、そこにマスコミ本来の役割と可能性を見出しているように感じました。 
興味のある方はご覧ください。↓ 

新幹線死傷、虐待殺人の容疑者らの生い立ちが知りたい 
 
これらの事件から私の思考が行き着く先は、人は誰もが同じ現実を生きているのではないということ。 
 
きっと現実というのは人の数だけあってそれゆえに、自分は理解されないとか、相手が理解できないとか、互いに分かり合えないとか、、そんなことが日常茶飯事なのだと思います。 
 
新幹線の事件、虐待死させてしまった事件、その加害者たちにとっては「自分の現実」だけが唯一の絶対的事実になっていった。 
 
でも、している行為やその程度こそ違え、起きていることの構造自体は私も同じです。
 
今この状況(=あくまで自分の認識)ではこうすべきで、それが当たり前。そんな狭い独自の世界観の中で考え、感じて、行動してるのですから。
 
問題となるは、これまで通りの思考や行動が立ち行かなくなり、苦痛を感じそこから抜け出そうとしても、固定化された「自分の現実」から逃れられなくなったとき。  
 
自ら作り上げた現実にからめとられ身動きがとれなくなったときに必要なのは、客観的視点とそれに基づいた新しい現実の認識だと感じます。 
 
その人にとって他者の存在がとても重要だと思うのです。 
 
誰かの現実という壁が壊せないほど強固になってしまう前に、誰かが声をかけられたら、、、 
 
そう思うにつけ、自分になにができるか、なにがしたいか?を問いかけられてるように感じます。 

事件に思うこと

2018年6月12日(火) 晴れ 
 

最近胸の痛む事件が多いです。 
 
幼い子供が虐待の末に死んでしまったり、 
新幹線で襲われた女性を庇った男性が殺されてしまったり、、 
 
犯人は許せない、極刑に、という意見を見かけますが、こういった事件は単に法で裁けばそれで終しまいとは思えず考えさせられます。 
 
このように事件として私たちの目に触れるのおそらく氷山の一角。 
この瞬間にも人知れず起きている、あるいは潜在的にその可能性を秘めている人、状況はそこかしこにあるように感じます。 
 
以前「人類が存在しなければ地上は生き物にとって楽園となるだろう」という言葉を目にしました。 
 
人はほかの生物と違い高度な社会性を持ち、霊的にも科学の分野でも進化の可能性を秘めると同時に、それが故に迷い道を誤り、自分自身や他者、ひいては自然環境、社会・国家・民族という集団単位にまで多大な打撃を与えうる存在であることは過去の歴史をみれば明らかです。 
 
そして最近は「なぜこの行動に至ったのか?」と思う事件がとても多いと思います。 
 
事件を起こした犯人の背景が少しずつ明るみなるつれ、これは犯人や家族といった特定の誰かを断罪すればおしまい、、などというものではない、そう思われてしかたありません。 
 
「犯人はどうしてこの行動をとったのか?」「周囲の人間になにができたのか?」などなど様々なことが頭を過ります。 
 
子供の物事の捉え方はとても柔軟です。 
経験が少なく、善悪の判断もなく、無知故に、この現実はひとつの限定されたものではなく、粘土のように変幻自在であらゆることが可能な世界、それが子供にとっての現実でしょう。 
 
でも、年を経て酸いも甘いも経験を重ね、現実とは堅固な形をとったたった1つの事実、そう認識を変えながら大人になっていくのかもしれません。 
 
こういった事件の犯人たちは、その厳然たる現実(=あくまで彼らにとって)に取り囲まれ、他の可能性が見出せなくなったのではないかと思います。 
 
今回の事件について正確なことは知りませんが、「自分は軽んじられている」「価値のない人間だ」「連れ子のせいで夫に捨てられるかもしれない」など、不安から始まり妄想であったものが、いつしか本人たちにはそれが紛れもない事実であり現実となった… 
 
まるで鏡の迷宮に閉じ込められて 
他にはなにも見えない、抜け出せない、、 

考えることはもう、これをどう終わらせるかだけ 
 
もし誰かが、「あなたがみているのは必ずしも現実ではないよ」と優しく言ってあげられたら、、それが難しいことは分かっているけど、違った結末があったのでは…と思ってしまいます。 
 
このような事件は特別な誰かの話ではなく、誰にでも、どこででも潜在的に起こりうる(起こっている)ことなのだと思います。 
 
そしてそのひとつひとつが、私たちに人としての進化の意図を問い、自分自身がその流れの身を置いているのだということを思い起こさせてくれているように感じます。 
 

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