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いつでも何度でも

2018年10月21日(日) 晴れ 
 

<千と千尋の神隠しより> 
 
呼んでいる 胸のどこか奥で 
いつも心躍る 夢を見たい 
 
かなしみは 数えきれないけれど 
その向こうできっと あなたに会える 
 
繰り返すあやまちの そのたび ひとは  
ただ青い空の 青さを知る 
 
果てしなく 道は続いて見えるけれど 
この両手は 光を抱ける 
 
さよならのときの 静かな胸 
ゼロになるからだが 耳をすませる 
 
生きてる不思議 死んでいく不思議 
花も風も街も みんなおなじ 
 
呼んでいる 胸のどこか奥で 
いつも何度でも 夢を描こう 
 
かなしみの数を 言い尽くすより 
同じくちびるで そっとうたおう
 
閉じていく思い出の そのなかにいつも 
忘れたくない ささやきを聞く 
 
こなごなに砕かれた 鏡の上にも 
新しい景色が 映される 
 
はじまりの朝の 静かな窓 
ゼロになるからだ 充たされてゆけ 
 
海の彼方には もう探さない 
輝くものは いつもここに 

わたしのなかに 見つけられたから 
 

 
 
 

***  
 
 
久しぶりに胸に響いたかな。 
何年か前に観たときは、さほど記憶に残っていなかったのに。 
 
切なさとやさしさが入り交じり綾なすようで、悲しみとともに生きていくことの強さも感じられました。 
 
ひとは思い出すために忘れているのかもしれない。 
 
…感じたことを言葉にする限界を感じます。 
 
また映画を観たくなりました。
 

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心に響いた曲」カテゴリの記事

コメント

過ち(繰り返される)なのか試行錯誤なのか僕にはわからないのですけれど、僕達の喜び・希望・切なさ・悲しみ等と共に生きていく、そして死んで行くことへのやさしい呼びかけ、勇気づけを感じます。

特に気にかけずに映像と共に流れていた曲でしたけど、こうやって歌詞を観せてもらって、聴いて、音源に合わせて歌って ギターで自分の世界を歌ってみて、僕にも響くものがありました。

切り取ってしまっては詩を創った人に申し訳ないのですけど、敢えて。
『さよならのときの 静かな胸 ゼロになるからだが 耳をすませる』
『閉じていく思い出の そのなかにいつも 忘れたくない ささやきを聞く』 

僕の世界では、『始まりの朝の 静かな窓 ゼロになるからだ 充たされてゆけ』で涙が溢れてきます。

この映画は何度か見たのですけど、ほんとに混とんとした世界の中で、yogabijaが言うように、思い出すために忘れている僕達を鼓舞しているようにも感じました。

僕には果たして忘れているのか、すでに蒔かれた種に成長する可能性があるのか、それともこれから僕に種が蒔かれる可能性があるのかもわからないのですけど。。。。

数回、宮崎駿さんの2CV(フレンチブルーのちょっと宮崎ブルーに似た古い馬車のような非力なフランス車シトロエン・2CVの意味は2馬力だけど本当は2馬力じゃない)と国分寺線(東村山の萩山から国分寺まで)に沿った道ですれ違いました。何かで読んだ話では彼が住む所沢周辺から小金井梶野町のスタジオ(僕の近所です)への途中、国分寺でコーヒーを飲んで行くとか。

トトロの森には毎年桑の実をもらいに行く(近所の保育園児達と競って拾います)のですけど、今頃はきのこが生えています!

先日テレビで放映された「もののけ姫」を観ました。

私は宮崎駿監督やジブリのことはほとんど知らないのですけど、
もののけ姫も千と千尋の神隠しも
自然と自分の感覚が開いていくのが感じられます。

透明な水や光、影、吹き抜ける風、
食事の香りや温もり、雑踏のざわめきなど、、
五感が総動員されて引き込まれます。

それと同時に登場人物の切なさや悲しみ、怒り、戸惑い、
それぞれの想い、、それらが自分の内から感じられるかのようです。

普段は自分という一人の人間を経験しているのですけど、
これらの映画では何人もの人物を同時に経験しているみたいです。
それと自然や街並みといった風景、様々な状況が合わさって
さらに複雑な感情や感覚が押し寄せてきます。

ただ青を青、赤を赤と言い切れない不確かさに
一抹の居心地の悪さを感じますが、
同時に存在の大きな懐に抱かれてるような安心感もおぼえます。

これらの映画は私にとってはちょっと特別な体感する映画。
自分の生きている現実の見方、感じ方、生き方に「ほんとうに、そう?」
と、答えのない問いかけをされているように感じます。

(コメントというより日誌を書いた時点で書けなかった続きみたいですど...^^;)

Yogabijaの感覚、そしてその表現の簡潔な豊かさをいつも感じます。

もう30年以上前の『風の谷のナウシカ』(僕は宮崎さんやジブリのアトリエ・営業所:2階建ての建物の屋根に樹や草が生えています・美術館(通りすがりの僕にトイレを使わせてくれます・保育園:3匹のクマの家? やトトロの森の近くに住んでいるだけで、特によく知っている、そしてそれほど興味があったわけではないのですけど)の中で、人類の最終戦争の後に生まれた『腐海』という名前の海(名前の通りの海)を見た主人公のナウシカが、「きれい!」と言ったことが強く残っていました(不確かな記憶かも)。

今回の『コメントというより日誌を書いた時点で書けなかった続きみたい』で、僕が観たことのある『ナウシカ』に続く『トトロ』『もののけ』『紅の豚』『千と千尋』に共通するかもしれないことに気がつきました。

どうやら宮崎さん達?は、とりあえずは作品上の主人公や脇役という考えをもちながらも、実は作品に登場する映像・音・作品に登場しない物事も含めた全て)が主人公という意識があるんじゃないか ということです。

テレビの宮崎さん密着というような番組の中で、彼は自分以外の人が描いた絵も1枚1枚観るし、重要でなさそうとこの業界で思われるシーンにも絵を描く枚数を惜しまないし、「子ども達が現実?から少し離れていられる素材としてのアニメ」と言いながら、とりあえずの主人公や重要登場人物にアニメ専用の声優ではなく、役者を起用するなど、一刻一刻表現される・されない物・事に妥協しない姿勢を今 感じます。

起承転結というストーリーを無視した(元々脚本なしでスタートするそうです)『ポニョ』(評判が良くなかったと聞いたことがあります)あたりからの作品は観ていないので、興味が湧いてきました。

なにかとても腑に落ちました。

>とりあえずは作品上の主人公や脇役という考えをもちながらも、実は作品に登場する映像・音・作品に登場しない物事も含めた全て)が主人公という意識があるんじゃないか ということです。

そうですね。
表現されたもの、されないものですら、言葉をもっているというか、
そこには作品を制作する側の意図はまったく感じられなくて
主人公や脇役、景色、音、無機質な物、、それらすべてが
それぞれに独自の光を放っているようなんです。
そしてそれを受け取っている自分自身も
それらのひとつのように感じられてきます。

>一刻一刻表現される・されない物・事に妥協しない姿勢を今 感じます。

とても純粋に、大切なものを大切に制作されているように感じます。

>起承転結というストーリーを無視した(元々脚本なしでスタートするそうです)『ポニョ』(評判が良くなかったと聞いたことがあります)あたりからの作品は観ていないので、興味が湧いてきました。

そうなのですか?
私ももう一度すべての作品を観なおしてみたいです。

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